まずは食べてみて。
数秒前の私の決意など、彼から伝わる頼もしい体温の前に跡形もなく消え去っていた。
「……なんでもないわ。下がって頂戴」
エリクの背後から、私は「完璧な公爵令嬢」としての声を絞り出した。
見目麗しい使用人は、私の様子に困惑しながらも、エリクの「私が対応する、下がれ」という無言の鋭い視線に気圧され、深々と一礼して部屋を出て行った。
カチリ、と本日二度目の扉の音が響く。
途端に、全身の力が抜けた。情けない。自立を掲げて彼を突き放した直後に、これである。
私はエリクの背中に額を預けたまま、己の浅はかさを猛烈に恥じた。
「……お嬢様。やはり、自立にはまだ早すぎるかと」
振り返ったエリクの声には、呆れとも、ほんのわずかな安堵とも取れる響きが混ざっていた。
私は彼と目を合わせることができず、ふいと顔を背ける。
「……いいえ、決めたの。少しずつでも自立するのよ。ただ…今日は、疲れたから早く夕食にして頂戴。」
「畏まりました」
私は逃げるように長椅子へと腰掛けた。
テキパキと夕食の準備のために動くエリクの背中を見つめながら、馬車の中での会話を思い返す。
私は、エリクのことを本当に何も知らないわ……
19歳という年齢も、誕生日がないということも、今日初めて知ったのだ。
それなら、彼は普段何を考えているのだろう。どんな生活が好きなのだろう。
――そして、どんな食べ物が好きなのだろう。
やがて、銀のトレイに乗せられた豪奢な夕食が私の前に並べられた。
本日を締めくくるメインディッシュは、極上の牛肉のソテー。赤ワインをベースにした、濃厚で艶やかな特製ソースがたっぷりと掛けられている。
エリクは料理を並べ終えると、いつものように一歩下がって、部屋の壁際で微動だにせず控えた。
私はナイフとフォークを手に取り、肉を一口大に切り分ける。そして、肉の断面にこれでもかとソースを絡め、自分の口へ運ぶ。
……美味しい。やっぱりこのソースの付き具合が最高。
その瞬間、妙案が浮かんだ。
知らないのなら、今から知っていけばいいのよ。主として、専属従者の好む味くらい把握しておくべきね。
私は自身のフォークで、先ほどと同じように一番美味しくソースが絡んだ肉の一切れを、丁寧に突き刺した。
「エリク、こちらに来なさい」
「はい、お嬢様」
呼ばれてすぐに歩み寄ってくるエリクは、やはり完璧だ。私の斜め後ろ、いつもの距離に収まろうとする彼に向けて、私はフォークを突き付けた。
「食べなさい」
エリクは一瞬、こちらの真意を探るような視線を向けてきた。
「では、お嬢様。新しいカトラリーを――」
「ダメよ、新しいのに移したらこの黄金比が崩れるわ。それとも、コレを食べられないとでも言うの?」
「……」
私の発言に、エリクが更に何か言おうとした。
まさにその瞬間。
私は問答無用で、その肉の一切れを彼の下唇を押し上げるようにして口へと放り込んだ。
「……っ」
エリクは、完全にフリーズした。
彼は、無作法な所作に驚いただろうけれど、ここは私と彼しかいない自室。これくらい構わないだろう。
「コレが最高に美味しいソースの付き具合なのよ。感想は?」
私は満足してフォークを引き、品良く咀嚼を始めたエリクの顔をじっと見つめる。
エリクはしっかりと噛んでから、ごくりと喉を鳴らし、いつも通り冷静に口元を拭った。
「……大変、美味でございます。お嬢様の仰る通り、これ以上のソースの付き具合はございません。……生涯、忘れることのない味でございます」
完璧な従者の言葉を聞いて、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。やっぱり、このソースの割合が美味しいのよ。
「もっと食べたくなったら言いなさい」
私は切り分けた肉がまだ残る皿に視線を落とし「あと半分ならあげてもいいわ…」と考えてからエリクに視線を向ける。
もっと食べたい程、このお肉が好きなの? それとも、別のものがお好みなの?
私はワクワクしながら、彼の次の言葉を待った。
◇ ◇ ◇




