知らなかったエリクのこと
馬車の中に流れるのは、ひどく気まずい沈黙だった。
いや、そう感じているのは私だけで、向かいに座るエリクはいつも通り、非の打ち所のない従者だ。
私は高鳴る鼓動を悟られないよう、窓の外へと視線を逃がした。先ほど別れ際に親友のエナが囁いた言葉が、呪文のように頭の中で繰り返される。
『気になるお相手の、お誕生日と星は分かる?』
気になる相手。
「誕生日と星…ね。」
そのつぶやきは、向かいに座るエリクにも届いたらしい。私の方に視線を向けている。
「ねぇ、エリク。考えてみれば……貴方の誕生日を知らないわ。」
エリクは一瞬、意外そうにその地味で落ち着いた瞳を揺らしたが、すぐにいつもの穏やかな声音で答えた。
「誕生日、でございますか。……恐れながらお嬢様。私は自分の生まれた日を知りません。私のような貧民の出は、年を数えることはあっても、日までは記録に残しません」
「……そうなの?」
期待していた答えが得られず、私は小さく肩を落とした。
エナに占ってもらうどころか、彼がいつこの世に生を受けたのかすら分からない。
残念に思うと同時に、私は不意に、胸を刺すような痛みを覚えた。
「エリクは、今年でいくつになったの?」
「19でございます。」
…
……!?
なんてことなの!?
私は唖然とした。
「…19??私の1つ上なの?」
「はい」
エリクに出会ってからというもの、一日たりとも彼が側にいなかった日はない。
けれど、彼がどんな人生を歩み歳を重ねてきたのか、そんな根本的なことさえ「知らない」ということに今の今まで気づかなかった。
彼を「地味で落ち着く」と評し、都合よく自分の癒やしにしていた。
自分が情けない。主失格ではなかろうか。
「初めて見た貴方は、私より小さくて年下だろうと勝手に思っていたわ。」
不貞腐れたように言えば、彼は私の発言を当たり前のように受け止める。
「あの頃は栄養も足りず、小柄でしたから。そう思うのも無理はありません。」
こうして主を傷つけることのない私の従者。それに甘えきっていると自覚した。なのに私の口からはその申し訳なさを隠す言葉が出てきてしまう。
「年上だったなんて、お姉さんぶって損した気分よ。年上と分かっていたら、もっと素直に甘える権利があったはずだもの。」
私の軽口に対し、エリクはほんの一瞬だけ、目尻を和らげた。
それは決して「年上の余裕」を誇示するような嫌味なものではない。いつものふとした時に見せる表情。けれど彼はすぐにその表情を消し、いつもの完璧な従者の顔に戻ってしまう。
「左様でございますか。私はお嬢様のいかなる我儘も受け止める所存です。」
「そう、期待しているわ」
私は精一杯の虚勢を張って答えたけれど、心の中では自分の発言を猛烈に後悔していた。
エリクに出会ってから、彼は私の目も同然で彼の背にひっついて行動していた。ある程度慣れた頃には意地を張って自室の外では公爵令嬢を演じるものの、部屋に戻ればエリクの胸に飛び込み安心していた。
今では香りまで堪能している。
湯あみだってずっと彼の担当だ。
…
幼い頃はまだ可愛いものだが。
今となっては甘え通り越して変態ではないだろうか?
更に甘えるとは?彼をどうするつもりなのよ私は。彼をソファ代わりにして本でも読むつもりなの?
むしろ自立なさい。
自分の心を叱りつけていると、馬車が屋敷の敷地内へ入ってゆく。規則的な揺れが止まった。エリクが先に降り、流れるような動作で扉を開けて私に手を差し出す。
白手袋に包まれた大きな手。
今では意識してならないその手。
「お嬢様」
落ち着いた低音。
その手に指を預けながら、俯いて顔を隠した。屋敷の重厚な玄関を通り、自室へと続く廊下を歩く。
いつもなら、すぐにでも自室へ入りたかったというのに。自室へ近づく一歩一歩が、処刑台へ向かう歩みのように恐ろしい。
私は年上の男の胸に飛び込むというの?正気?
そして。
背後で自室の扉がカチリと閉まり、運命の音が響く。
エリクはいつも通りそこに立ち、私が飛び込んでくるのを待つように、静かに、けれど逃げ場を塞ぐような確かな存在感で私を見つめていた。
◇ ◇ ◇




