エピソード8 霧の切れ間、開戦前夜
霜月の冷気がまだ夜の残り香を引きずっている早朝。
神崎の自宅の奥座敷で、蓮は一睡もせぬまま、ランプのわずかな灯りのなかで静かに座椅子から立ち上がった。
頭の中では、A.I.D.A.が弾き出した膨大な歴史データと、これから迎える「十二月八日」という運命の日までのタイムリミットが、冷徹な数字の羅列となって点滅し続けている。
身支度を整えて居間へと降りていくと、すでに起きていた神崎と妻のトメさんが顔を合わせた。
「おはよう、蒼くん。こんな朝早くに、どうしたんだい?」
「おはようございます、神崎さん、トメさん。実は……今日、少し遠出して用事を済ませてこようと思います。翌朝の月曜日、分教場の朝礼までには必ず戻ります」
蓮の引き締まった言葉に、神崎はただならぬ雰囲気を察しつつも、あえて深くは詮索しなかった。
この青年の誠実さと、内に秘めた覚悟を日々の暮らしの中で感じ取っていたからだ。
「……そうか。無茶はするなよ」
神崎がそう言ってうなずくと、隣にいたトメさんは「おや、それは大変だね」と小さく呟き、慌ただしく台所へと引っ込んだ。
「お出かけなら、ちょっと待ってなさい。すぐにこしらえるからね」
トメさんの手際よい音がしばらく台所から聞こえたかと思うと、すぐに温かい湯気をまとった白布の包みが持ってこられた。
差し出されたその手には、ずっしりと重そうな握り飯の包みがあった。
「道中で食べなさい。大したもんじゃないけれど、山道は冷えるから、塩気を強めにきかせた握り飯にしておいたからね」
「ありがとうございます、トメさん……いただきます」
受け取った包みからは、炊き立ての米と塩の、素朴で温かい湯気がふわりと立ち上った。
昭和という時代の、生きることの生々しい温もりが手のひらを通じてずっしりと伝わってくる。その重みが、なぜか今の蓮の胸を締め付けた。
勝手口から表に出ようとしたその時、ぱたぱたとかわいらしい足音が響き、ハルが寝癖を少し跳ねさせたまま姿を現した。
「あ、奥野さん。こんな朝早くに、どこかへお出かけですか?」
「ああ、少し用事ができてね。少し遠出することになったんだ。戻るのは明日の朝になるよ」
ハルはそれを聞くと、少しだけ眉を下げ、心配そうな、それでいてどこかすべてを見透かすような不思議な目を向けた。
「……明日まで、戻らないんですか?」
その小さな呟きには、どこか遠くへ行ってしまうのではないかという、少女特有の不安な直感が滲んでいた。
蓮がわずかに言葉を詰まらせると、ハルはあわてて首を振って、いつもの無邪気な笑みを作ってみせる。
「な、なんでもありません! ……とにかく、あまり無理をしないで、危ないところには行かないでくださいね。明日の朝、ちゃんとお土産話を聞かせてくれるの、待ってますから!」
その健気で温かい笑顔に、蓮の喉の奥がキュッと詰まった。
この笑顔を、この日常を、数日後に訪れる狂気の歴史から守り抜くために自分はここにいるのだと、蓮は強く拳を握りしめた。
「ああ、約束するよ。明日の朝、必ず戻る」
神崎家を後にし、集落の細いあぜ道へと足を踏み出す。
朝もやのなかに農家の屋根が黒々と浮かび上がる冷涼な空気のなか、畑の脇を通りかかると、早朝の時間帯に精を出す村の古参・平蔵の姿があった。
鍬を動かしていた平蔵は、朝っぱらから荷物を背負って歩く蓮に気づき、怪訝そうに手を止めた。
「おっ、奥野の若ぇしじゃねぇか。こんな朝早くから、いったいどこへ行くんだ?」
「はい。以前お話しした秩父のどこかにあるはずの、親戚の家を探しに行こうと思いまして」
とっさに用意したその言葉に、平蔵は「あぁ……」と納得したように髭を撫で、ふむ、と険しい顔を緩めた。
「この秩父のどこかにある親戚の家を、あてもなく別の集落まで歩いて探しに行くってわけか……。おい、若ぇし。いまのご時世、あちこちキナ臭い噂が飛び交ってて、よそ者がうろつくのはあんまり風当たりがよくねぇぞ。まあ、身内が心配になる気持ちも分からねぇではないがな……。無事に見つかるといいな、気をつけて行けよ」
「ありがとうございます。お気遣いに感謝します」
平蔵の素朴な忠告を背に受けながら、蓮は村の外れへと急いだ。
集落の家々がまばらになり、完全に人の気配が消えたところで、蓮はA.I.D.A.のナビゲートに従い、あえて人目を避けた険しい山中の獣道へと踏み込んだ。
冬枯れの雑木林がどこまでも続く、踏み跡すらない急斜面。
身にまとった国民服の裾を荒い息とともに翻しながら、1941年の容赦ない寒さと足場の悪さに身体がこたえる。
木の根や滑りやすい落ち葉のなかを進みながら、蓮の呼吸が少しずつ荒くなる。
ふと、息を整えるために立ち止まったとき、眼下に広がる山あいの景色に目を奪われた。
どこまでも澄んだ青空の下、朝日に照らされた昭和の原風景が、静まり返ったキャンバスのように広がっている。
電線もアスファルトもない、自然と人の営みが奇跡的なバランスで融合した、あまりにも美しく、そして脆い世界。
「――A.I.D.A.」
「はい、蓮。心拍数および体温の上昇を確認。小休止を推奨します」
「なあ。この景色や、あの村の人たちの暮らしを見ていると……俺は、どうしてもこれを壊させたくないと思うんだ。歴史の必然だとか、大局のうねりだとか、そんな理屈はどうでもいい。俺が知っている未来の知識のすべてを使ってでも、この時代を守りたい」
蓮の言葉に、A.I.D.A.の音声はいつも通り冷静に、しかしどこか含みのある響きを帯びて返ってきた。
「その感情的選択は、予測データベースの許容範囲内です。ですが、蓮。あなたが行おうとしている行動には、二〇五〇年に於ける自衛隊の運用思想および専守防衛の原則に基づく、厳格な法理的・戦術的制約(交戦規定)が伴います」
「交戦規定が、この時代での行動にも適用されるのか?」
「はい、その通りです。タイムトラベル現象自体が偶発的なシステムエラーによるものであり、歴史改変を直接制限する専用の規則は存在しません。しかし、当機に搭載された防衛システムおよび私自身の行動規範は、二〇五〇年世界の国際法規および自衛隊の交戦規定に準拠しています」
「つまり……どういうことだ?」
「可能なこと(許容範囲)は、自己防衛、直接の庇護対象の生命防護、および情報収集・リスク回避のための非致死的支援です。不可能なこと(制限範囲)は、未来の圧倒的兵器を用いて敵対勢力へ先制攻撃を加えること、および歴史の因果律を意図的に破壊するような大規模な軍事介入です」
「……じゃあ、俺が真珠湾でアメリカの空母や燃料タンクを叩いて、戦争の泥沼化を防ぐっていう作戦は……規定違反になるのか?」
「厳密に言えば、機体の火器を用いた直接攻撃はシステムロックがかかります。この時代の日本の軍事作戦に対するあなたの直接介入は、規定の明確な逸脱にあたります」
冷徹なAIの指摘に、蓮の足が地歩を踏みしめたまま硬直した。
歴史の根本を叩き直さなければ、この国も、ハルたちも破滅に向かうというのに、未来の法規が足枷になるというのか。
だが、A.I.D.A.の処理回路は、そこからさらに一歩先の論理を紡ぎ出していた。
「――ただし。直接攻撃が不可能であっても、情報誘導による間接的介入の余地は残されています」
「……情報誘導?」
「この時代の日本軍が使用していた無線・暗号網の脆弱性はすでにスキャン済みです。私たちの高度な電子戦機能を用いれば、当時の通信フォーマットに偽装した「緊急電報」を海軍の通信網へ割り込ませることが可能です。例えば、真珠湾に存在する巨大燃料タンク群に米軍の極秘機動部隊が全艦の給油・集結を急ピッチで進めているという偽りの偵察情報を流し込む。……この時代の日本軍が「放置すれば米艦隊が即座に反撃能力を回復する、絶対に叩くべき急所だ」と思い込ませるような、切迫した暗号電文を作る事は可能です」
蓮は息を呑んだ。
「俺が直接撃つわけじゃない……。この時代の日本軍に、自発的に判断をさせるための『導線』を引くってことか?」
「はい、その通りです。歴史の歯車を外部から力づくで捻じ曲げるのではなく、この時代の人間が自らの意志で結果的に正しい戦術を選択せざるを得ない状況証拠を提供する。これならば、専守防衛および交戦規定のグレーゾーンを突いた、もっとも論理的かつリスクの低い介入戦術となります」
冷徹なルールの隙間を縫い、未来の知性を武器に変える奇策。
その対話を続けながら険しい山道を登りきると、やがて視界が見たことのある、深い樹木に隠された山中の隠し洞窟の前にたどり着いた。
洞窟の入り口を塞ぐように展開されていた周囲の景観に対する光学迷彩を解除し、機体は奥深くへと格納されていたその姿をようやく現した。
蓮が近づくと、機体のセンサーが微弱な生体認証を拾い、シューッという静かな音を立ててハッチが滑らかに開いた。
冷たい外気から一転、機内へと身を滑り込ませた。
蓮はまず身にまとっていた粗末な国民服を脱ぎ捨てた。
代用教員としての仮初めの装いを解き放ち、高分子繊維で構成された未来のパイロットスーツへと素早く着替えていく。
隙間なく身体に密着するスーツが、生命維持およびG(重力)耐性の制御システムと瞬時に同期した。
シートに深く腰掛けた瞬間、ハッチが閉まるとともに背もたれから伸びた神経接続デバイスが蓮の首筋とリンクした。
脳裏に一気に流れ込んでくる無数のデータ、三次元の空間把握能力、そして全能感に近い圧倒的な情報が流れ込んでくる。
昭和の農村で「泥臭い代用教員」として息を潜めていた一人の人間の意識が、未来の戦術航空機を統べるパイロットへと完全に切り替わった。
「システム、完全同調。A.I.D.A.、リンク正常」
「よし……。外部への露出を避けるため、機体自体に光学迷彩を展開してくれ」
「了解。機体表面の光学迷彩をアクティブ化――完全透明化を維持したまま、離脱プロセスに移行します」
A.I.D.A.の応答と同時に、機体の外殻が周囲の光を完全に屈折させ、その巨大な躯体は肉眼では捉えられない完全な透明へと姿を変えた。
機体のメインジェネレーターが低く唸りを上げ、重力制御を伴った垂直浮上を開始する。
洞窟の岩肌や地上の土埃を一切巻き上げることなく、透明な機体は吸い込まれるように木々の間を抜け、誰にも気づかれることなく一気に雲の上へと舞い上がった。
一瞬にして地上の冷気が遠ざかり、眼下に広がるのは、1941年12月7日――まさに開戦前夜の、どこまでも静かな太平洋と日本列島の全景だった。
雲の絨毯の切れ間から差し込む朝陽が、コックピットのキャノピーを黄金色に染め上げる。
「広域スキャン展開。ハワイ・オアフ島周辺の米太平洋艦隊、および日本軍機動部隊の動態を捕捉中……」
上空の静寂のなかで、眼下に広がる歴史の巨大なうねりを冷徹に見据えながら、蓮は操縦桿に手をかけた。
歴史の傍観者でいることはできない。
愛する者たちを、そしてこの国の破滅の未来を書き換えるための戦いが、いま、雲の上の密室で静かに幕を開けようとしていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます! 少しでも『面白い、続きが気になる』と思っていただけましたら、下部の【ブックマーク】や【評価】(☆☆☆☆☆)で応援していただけると、執筆の凄すさまじい励みになります!




