エピソード6 ハルと美桜
「た、大変なの……っ! 昨夜から熱を出していたハルの様子が、さっきからますますおかしくなって……。息が荒くなって、呼んでも返事をしないのよっ!」
駐在に促され、蓮はハルが眠る奥の部屋へ足を踏み入れた。
薄暗い部屋には、息苦しいほどの熱気がこもっている。
枕元では、妻が弱り切ったわが子の姿に耐えられず、震えながら泣き崩れていた。
布団の上で、荒く、浅い呼吸を繰り返しているハル。
その横顔を見た瞬間、蓮の足がピタリと止まった。
まるで世界から音が消えたようだった。
(嘘だろ……なんで、ここに……)
視界が歪む。
そこに横たわっている少女は、2050年の未来で深く愛し合いながらも、昨年、理不尽な運命によって奪われてしまった恋人――美桜。
その少女時代を思わせるほど、ハルの姿は美桜によく似ていた。
息を呑むほど整った、澄んだ顔立ち。
すっと通った眉と整った目元。その顔立ちには一分の隙もなかった。
そして死の淵にいるというのに、その顔にはどこか気高さと儚さがあった。
あまりの衝撃に、蓮は呼吸することさえ忘れたように、その場に立ち尽くしていた。
胸の奥で、癒えたと思っていた古傷が激しく疼く。
だが、それをかき消すように、枕元から母親の切実な声が響く。
その声が、蓮の意識を現実へと引き戻した。
「まだ十八になったばかりで、これからなのに……! こんなところで、人生が終わるなんて嫌よっ……! お願い、誰か、この子を助けて……!」
絞り出すような母親の叫びが、蓮の胸に突き刺さる。
胸の中で渦巻く動揺も、込み上げてくる感傷も、無理やり押し込める。
今、目の前にいるのは亡霊なんかじゃない、必死に酸素を求め、生きようとしている一人の少女だ。
そう思い直した蓮は表情を引き締めた。
「安心してください。私が必ず治してみせます」
そう言うと、蓮は自衛官としての冷静さを取り戻した。
懐から、支給品の電子デバイスを取り出し、A.I.D.A.に小声で指示した。
「A.I.D.A.、生体スキャナーモードに切り替えてくれ!」
「蓮、了解しました。モード変更を完了しました」
そして蓮は、電子デバイスを起動させた。
ピピッ――。
静かで無機質な電子音が、ひんやりとした古民家の空気に響いた。
昭和の時代には存在するはずのない、漆黒の洗練されたデバイス。
そこから、青白い光の粒子が放たれる。
蓮はデバイスをしっかり握り、ハルの頭から足先まで、ゆっくりとスキャンしていく。
光が身体を通り過ぎるたび、ハルの輪郭が青く浮かび上がった。
(――全身スキャン、完了)
AIグラスに、A.I.D.A.からのデータが一気に流れ込んでくる。
(体温40.2度。脈拍異常、血中酸素飽和度低下……両肺の広範囲に重度の陰影。さらに免疫系の重大な問題を確認。――細菌性肺炎だ。それも、この時代であれば間違いなく手遅れになるレベルだ)
この時代には存在しない、見たこともない機械。
そして、ハルの全身を包み込むように、青白い光が輝いている。
それを目の前にした駐在の男と妻は、部屋の隅で固まったまま動けなかった。
目の前の青年は、ただの「東京から流れてきた身寄りのない若者」ではない。
自分たちには想像もつかないほどの技術を持ち、何か、とてつもなく大きな「特殊な事情」を抱えているのだと、二人は本能的に感じ取っていた。
「治療開始します」
蓮は短く、しかし迷いのない声で告げた。
そして迷うことなく医療キットからシリンジを取り出す。
A.I.D.A.の細かな指示を受けながら、ペニシリン合成製剤を正確にハルの静脈へ送り込んだ。
だが、昭和の医療では考えられないほどの特効薬を投与したからといって、それですべてが終わるわけではない。
免疫力が限界まで落ちている今の彼女にとって、ここからが本当の勝負だった。
蓮は一晩中、ハルのそばを離れなかった。
デバイスのモニターを見続け、体温や呼吸のわずかな変化も、A.I.D.A.とともに見逃さない。
衰弱した身体に水分と必要な電解質を補給するため、医療キットから特殊な栄養剤を取り出し、点滴を続ける。
懸命に熱と戦っているハルの身体を、蓮は必死に支え続けた。
そんな蓮の姿を見て、駐在夫婦はただ黙って、その背中を見守り続けるしかなかった。
長い、長い夜が過ぎていく。
やがて東の空が白み始め、窓の隙間から、昭和十六年の冷たい朝の光が静かに差し込んでくる。
その頃には、それまで部屋中に響いていたハルの荒い呼吸も、嘘のように静かになっていた。
穏やかな寝息へと変わっている。
「ん……っ……」
ふっと、ハルがゆっくりと目を開けた。
昨日まで苦しめられていた高熱も、今は嘘のように引いている。
ぼんやりと天井を見つめていた澄んだ瞳が、やがてすぐそばにいる蓮を捉えた。
徹夜で看病していたはずなのに、疲れた様子も見せず、蓮はじっとハルを見守っている。
その姿を見つめるうちに、ハルの瞳に、はっきりとした意識が戻ってきた。
「……お医者様、ですか? ……助けていただき、ありがとうございます……」
弱々しい声。
それでも、どこか透明感のある美しい声だった。
「そうですよ。もう大丈夫。安心して寝てください」
そう蓮が言うと、もう大丈夫なのだと安心したかのようにハルはふっと身体の力を抜く。
そして、再び深く穏やかな寝息を立てながら、心地よい眠りへと落ちていった。
ハルの額に当てていた手を、蓮はそっと離す。
そして、その少女に向かって、穏やかな笑みを浮かべた。
「よかった......もう大丈夫だ。……安心して、ゆっくりお休み」
そのやり取りをすぐそばで見守っていた両親は、それまで張り詰めていた恐怖と不安が、一気にほどけていくのを感じていた。
二人はその場に崩れ落ちる。
母親は堰を切ったように夫の胸にすがりつき、声を上げて泣きじゃくった。
駐在の男も、男としてのプライドなどかなぐり捨て、顔をくしゃくしゃにしている。
そして、自分の命よりも大切な娘を救ってくれた蓮に向かって、震える手で何度も深く頭を下げた。
「よかった……本当によかった……っ! 本当に、ありがとうございます……!」
すっかり太陽が昇り、穏やかな光が駐在所全体を包み込む頃。
居間では、男が熱い湯呑みを両手でしっかりと持ちながら、じっと蓮の顔を見つめていた。
警察官として守るべき国の法律や義務。
目の前の青年が抱えている、この時代にはあまりにも不釣り合いな「計り知れない背景」。
その二つの間で悩みながらも、男の答えはもう決まっていた。
「......昨夜のおまえの手際、そしてあの時使った妙な機械を見れば、これ以上詮索するのは野暮ってもんだな。......身分証の類いがない......わけありの身なのだろう?」
「……」
「うちの大事な娘の命の恩人だ。警察官としての立場なんてものは、この一件でとっくに忘れてやったさ。だがな、この村じゃあ、よそ者はどうしても目につく。......どうだ、我が家の『書生』として、この駐在所に身を寄せる気はないか?」
追う者から身を隠し、この閉ざされた村で生きていくための、これ以上ない隠れ蓑。
神崎が差し出した思いがけない救いの手に、蓮は静かに深くうなずいた。
「ありがとうございます。......お世話になります」
「そうか。じゃあ、まずは俺の名前を教えておくべきだな。俺の名前は神崎勇だ。……で、お前の名前は?」
神崎にそう問われ、蓮は少しの間を置いて、A.I.D.A.が瞬時に選んだ偽名を口にする。
「――奥野 蒼です。……よろしくお願いします」
その日から、蓮は「奥野 蒼」という偽名を名乗り、神崎家で暮らすことになった。
村の人々の前で堂々と暮らし、怪しまれないための口実として、神崎から提案されたのは、人手不足に悩む村の子供たちの勉強を見る教師、いわゆる代用教員のような仕事に就くことだった。
縁側に腰掛けた蓮は、静かな寝息を立てているハルの部屋を、物言いたげに、そしてどこか切なそうな瞳で見つめていた。
目の前にあるのは、奇跡的に救うことのできた一つの命だ。
昨夜の悪夢のような高熱が嘘だったかのように、ハルは今、静かな寝息を立てている。
その横顔は、どうしても美桜を思い出させる。
胸の奥が締め付けられるような愛おしさが込み上げる。
それと同時に、奇妙な罪悪感も入り混じっていた。
自分は彼女に何を求めているのか、美桜の代わりとして見ているのではないか、そんな問いが、何度も心の底から湧き上がってくる。
同時に、蓮の頭から離れないものがあった。
この時代が抱えている、冷酷な現実だ。
歴史の教科書や未来のデータバンクで、嫌というほど見てきた。
この昭和十六年という年は、日本と世界が、取り返しのつかない戦火の狂気へと足を踏み入れていく、まさに、その始まりの年なのだ。
神崎家のような温かい日常も、村の子供たちの無邪気な笑顔も、数年のうちに国家総力戦という名の理不尽な暴力に飲み込まれ、踏みにじられていく。
未来から来た自分が歴史を変えてしまえば、どんな影響が生まれるのか。それくらいのことは、蓮にも分かっている。
それでも、目の前で死にかけていたハルを見捨てることなどできなかった。
美桜にそっくりな少女の命を救ったことで、もう自分は歴史の外側にいる傍観者ではいられない。
そして、この先、この少女がどんな時代を生きることになるのかを考えると、胸が痛んだ。
それに、いつまでもこの時代にとどまり続けるわけにもいかない。
早く2050年へ帰る方法を探さなければならない。
様々な思いが、蓮の頭を駆け巡る。
それでも今はハルの命を救えたことだけを考えよう。
そう自分に言い聞かせ、蓮は小さく息を吐いた。
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