エピソード59 迫る空
四月十五日、朝。
霞ヶ浦第一海軍航空廠の研究室には、静かな機械音が響いていた。
机の上に鎮座するのは、昨日完成したばかりの黒塗りの金属ケース――新型暗号機だ。
蓮は慎重な手つきでキーを叩き、機械式と電気式の複雑な変換機構を経て出力される文字列を確認していく。
「……問題ないな」
A.I.D.A.も即座に肯定する。
「蓮。復号結果と入力した内容は、完全に一致しています。電気系統の異常なし。機械式変換機構についても正常に動作しています」
「よし。これなら、明日持っていけるな」
蓮は完成した暗号機の表面を軽く撫でた。
明日は、津村と田村にこの暗号機を見てもらう日だ。
前線に配備されれば、確実に日本軍の通信秘匿性は向上し、多くの命と戦局を左右する盾となる。
「津村さんと田村さんへの説明も、予定通り実施できそうです」
「ああ。あとは実際に使ってもらうだけだ」
蓮は満足げに息を吐き、暗号機の電源を落とした。
すべては順調だった。
背後の扉が開き、響子がひょっこりと顔を出したのは、まさにその直後だった。
「蒼、ちょっといい?」
「ん? どうした響子」
いつもより少し申し訳なさそうな顔をした彼女は、ツナギの裾をいじりながら切り出した。
「蓮華の訓練の件なんだけど……今日、予定してた操縦士が体調を崩しちゃって」
「操縦士が?」
「うん。でも、後席の偵察員は大丈夫なの。もう機体の準備も完璧にできてるし、訓練を延期するのももったいないかなって……」
響子は上目遣いで両手を合わせ、蓮を見た。
「だから……蒼、代わりに飛んでくれない?」
蓮は机の上の暗号機へ一瞬目を向け、すぐに響子へ視線を戻した。
「俺が代わりに蓮華を飛ばすって事?」
「蒼なら試験飛行の時に操縦してるし、今回は単なる訓練飛行なら問題ないと思うの。暗号機の開発は協力してあげたんだから……ね、いいでしょ?」
確かに暗号機の最終調整は終わっており、今日一日の予定は空いている。
実機での飛行感覚を維持しておくのも悪くはない。
「分かった。俺でいいなら操縦士の代役を受けるよ」
「本当!? ありがとう、助かるわ!」
パッと顔を輝かせた響子は、思い出したように付け加えた。
「それと、今日の後席は新人なの。上田少尉っていう偵察員なんだけど」
「新人か」
「まだ蓮華の独自の装備に慣れてないから、できれば蒼からも空で教えてあげてほしいんだけど……いい?」
「それくらいなら任せてくれ。じゃあ、着替えてくる」
明日の会談に向けた頭を切り替え、蓮は飛行服へ袖を通すべく立ち上がった。
霞ヶ浦の蓮華専用格納庫。
そこに足を踏み入れた蓮は、周囲の光景に目を細めた。
かつて、自分が原型一号機の試験飛行を行った時とは空気が違う。
二枚のフロートを備えた双発水上機『蓮華』の周囲を、多数の整備員たちが忙しく、しかし手慣れた様子で動き回っている。
すでに実用機としての貫禄を帯びたそれは、訓練運用が開始されている二号機だった。
三号機・四号機が最終調整に入る中、現場で運用可能なこの機体は、今や航空廠の期待の星となっている。
「蒼、こっち」
響子の声に呼ばれ近づくと、その横には高高度用パイロット服に身を包んだ若い男が直立不動で立っていた。
「この人が今日の後席。上田少尉よ」
「上田少尉です。本日はよろしくお願いします!」
緊張で声が裏返りそうになりながら敬礼する上田に、蓮は苦笑して答礼した。
「奥野です。私は軍人ではありませんので気楽にいきましょう」
上田は基本的な偵察員としての教育は受けているが、蓮華の後席は従来の偵察機とは勝手が違う。
航法、空中観測に加え、電探の操作、長距離通信機の扱い、そして航空機の識別と、担うべき役割は多岐にわたる。
「上田少尉、機内の会話はこの航空ヘルメットに内蔵された機内通信を使います。外部との長距離通信装置とは別系統だから注意してもらえますか」
「はっ! 了解いたしました」
「電探の操作も空で教えます。焦らなくていいから、一つずつ確認していきましょう」
蓮の落ち着いた声に、上田は少しだけ表情を和らげた。
準備を終えた二人は、整備員たちの誘導に従って蓮華へと乗り込んだ。
双発のエンジンが轟音を立てて目覚める。
水面を滑走した蓮華は、二枚のフロートで白波を蹴立て、滑らかに霞ヶ浦の空へと舞い上がった。
気流は穏やかで、絶好の飛行日和だった。
蓮は安定した高度まで機体を上昇させると、水平飛行に移る。
「上田少尉、聞こえますか?」
「はい、奥野さん。感度良好です」
「よし。まずは電探の電源を入れて、走査を開始してみましょう」
蓮の指示を受け、後席の上田が計器群と格闘し始める。
最初こそ戸惑う様子が見られたものの、上田は飲み込みが早く、少しずつ蓮華の先進的な装備に順応していった。
航法、観測、通信の確認。
訓練飛行は順調そのものだった。
青く澄んだ空の下、一時間が経過しようとしていた。
同じ頃。
霞ヶ浦から遠く離れた、勝浦の監視所。
薄暗い電探室の中では、間者一型を担当する人員が、ブラウン管の画面を凝視し続けていた。
単調な監視任務。
しかし、その静寂は不意に破られた。
「……ん?」
担当員の目が、画面の端に現れた僅かな『輝点』を捉えた。
「なんだ、これは……」
数回、画面上で動くごとに、その反応は明確な輪郭を持ち始める。
単機ではない。
複数の航空目標だ。
間者一型は、目標の方位、距離、高度、速度、進行方向、そして編隊の数を正確に弾き出す。
「距離、約三百八十キロ。接近中の複数機を探知!」
すぐさま隣の指揮官が確認に入る。
「身元は?」
「……不明です。我々が認識しているどの飛行計画とも一致しません」
三百八十キロ彼方から、本土へ向かって飛来する所属不明の編隊。
それが意味するものを悟り、指揮官の声が鋭く響いた。
「直ちに霞ヶ浦へ報告しろ! 未確認の航空編隊を探知、距離三百八十キロ、複数機だ。進行方向の追尾を継続せよ!」
勝浦からの緊急報告は、即座に霞ヶ浦第一海軍航空廠の通信・指令部署へと届けられた。
「勝浦より報告。未確認の航空編隊を探知。距離約三百八十キロ。複数機。現在、本土方面へ進行中」
報告を受けた上官が、わずかに息を呑んだ。
友軍機ではない。
となれば、想定されるのは最悪の事態だ。
「分かった。至急、先日決まった緊急警戒網の運用を行う!」
上官は即座に迎撃態勢の構築へと動く。
ここで、防空システムの要となる機体の状況を確認した。
「今、蓮華はどこにいる!?」
「現在、偵察員の訓練飛行で空に出ています」
「分かった。蓮華に長距離通信にて連絡。燃料残量を確認した後、取り決め通りの迎撃機との会合点に向かうよう伝達せよ」
「かしこまりました。但し一点問題があります。現在操縦しているのは海軍士官ではありません」
「なに?どういう事だ、誰が操縦している?」
担当員が一瞬言い淀み、報告書に目を落とした。
「……開発者の、奥野さんです」
その言葉に、上官は息を呑んだ。
「な、何故、奥野さんが乗っている!? 」
「今日予定していた操縦士が体調を崩し、急遽、代役を頼まれたようです」
上官は深く眉根を寄せた。
彼は、この国の技術開発を牽引する文字通りの『宝』だ。
そんな人間を、未確認機の迎撃という実戦めいた任務に巻き込むわけにはいかない。
「奥野さんを実戦に投入させることはできん。あの人は、我が国にとって宝だぞ」
担当員が説明する。
「ですが、現在、三号機及び四号機は最終調整中ですので、二号機しか運用できない状態です。また操縦士を交代させるにしても今いる位置から帰還まで早くても二十五分は掛かります」
上官は沈黙する。
間者一型が遠距離で捉え、空中の蓮華が正確な位置を把握し、戦闘機を誘導する。
この『繋がる空』のシステムは、蓮華が空にいなければ完結しないのだ。
そして何より、これは構築してきた新警戒網の初の『実戦』だった。
上官は奥歯を噛み締め、やがて重々しく口を開いた。
「……なら、連絡を入れろ」
「了解!」
通信担当員が、素早く長距離送信機へと向き直った。
霞ヶ浦上空。
平穏な訓練飛行を続けていた蓮華の機内に、突如として明瞭な緊急通信が飛び込んできた。
後席の上田が緊張した声でインカム越しに告げる。
「奥野さん! 霞ヶ浦からの長距離通信です!」
「内容は?」
「勝浦の間者一型が、距離三百八十キロ先に未確認航空編隊を探知したとのことです!」
蓮は操縦桿を握る手に力を込めた。
「これって……敵機、でしょうか?」
「まだ分からない。だが、警戒に越したことはない」
続いて、上田が指示を読み上げる。
「指令です。我々に、指定された空域へ向かえと。そこには霞ヶ浦から上がった戦闘機も向かうそうです」
「戦闘機と合流するという事でしょうか?」
「そうです。俺たちはそこから、戦闘機を正確に迷いなく未確認機に案内する役になります」
蓮は機体を大きくバンクさせ、指定された合流地点へと針路を変更した。
上田が怪訝そうな声を出した。
「ですが奥野さん、未確認機はまだ三百八十キロも先ですよね? 今から向かって、どうやって見つけるんですか?」
「そのために、この機体には電探が装備されているんです」
蓮は前方の空を見据えながら、静かに、しかし確信に満ちた声でシステムを説明した。
「勝浦の間者一型が、遠くから大まかな位置を把握します。そしてその情報を逐次受け取りながら、私たちは決められた地点で、味方の迎撃機と合流する。そして、この機体の電探が反応する距離まで戦闘機を案内します」
「案内……」
「相手が近づくと、蓮華の電探で正確な位置を捉える事が出来ます。そしてその情報を基に、目標まで迷う事なく迎撃機を案内する形になります」
上田がハッとしたように息を呑む音が聞こえた。
「……なるほど。蓮華が直接戦うわけじゃないんですね」
「そういうことです。私たちは、空と陸を繋ぐ役割をする。この形ができて、初めて早期警戒網として機能するんです」
上田は自らの役割の重大さを理解し、無言で電探の調整に集中し始めた。
「……まだ画面には何も映りません」
「上田少尉。気が早いです。まだ遠いですよ」
蓮華は指定された空域へと順調に飛行を続ける。
だが、その時――
彼だけに聞こえるA.I.D.A.の声が、静かに響いた。
「蓮」
「……どうした、A.I.D.A.?」
「気を引き締めたほうがいいです」
普段はフラットなA.I.D.A.の声に、僅かな緊張が混じっていることに蓮は気づいた。
蓮の表情が一気に険しくなる。
「何か分かったのか?」
A.I.D.A.は数秒の間を置き、無機質な、しかし決定的な事実を告げた。
「現在接近中の航空編隊ですが――」
史実を知る蓮の心臓が、大きく跳ねた。
「ドーリットル隊である可能性が高いです」
時は一九四二年、四月十五日。
史実より三日早く、歴史が動き始めていた。
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