エピソード58 守るもの
四月九日、午前七時三十分。
霞ヶ浦分教場の木造校舎の前には、すでに二つの影が並んでいた。
待っていたハルと久子は、近づいてくる蓮の姿を見つけると、ふわりと表情を和らげた。
「おはようございます、蒼さん」
「おはようございます、奥野さん」
「おはよう、二人とも。待たせたかな」
三人が揃うのは久しぶりのことだった。
少し離れた校舎の中からは、すでに登校してきた子供たちの賑やかな声が響いてくる。
戦争の影は、ここにはない。
ただ、長閑で平和な朝の空気が満ちていた。
ハルが校舎を見上げて目を細める。
「なんだか、懐かしいですね」
久子も微笑んで頷いた。
「本当に」
二人の横顔を見て、蓮も自然と顔をほころばせる。
「ああ」
三人は並んで、子供たちの声が待つ校舎へと足を踏み入れた。
今日は、難しい顔をして仕事の話をする日ではない。誰もがそう感じていた。
教室に入り、ハルと蓮も授業の準備を進める久子を手伝っている中、ふと昔の話になった。
黒板のチョークを揃えながら、久子が思い出したように口を開く。
「そういえばこの三人が教室にいるなんて、凄く懐かしい感じがしますね」
その言葉に、秩父での日々が蓮の脳裏に蘇る。
当時の蓮は代用教員として教壇に立ち、久子が正式な教師として分教場を切り盛りしていた。
「うん、懐かしいね。ハルも途中から手伝ってくれ始めたしね」
「ですね。その後、蒼さんが霞ヶ浦へ行くことになって、代用教員の席が空いたので私も憧れていた先生をする事が出来ました」
ハルが、少し照れくさそうに笑いながら言った。
「失敗ばかりだったけど、久子さんに色々教えてもらえて本当に勉強になりました。お陰で今の仕事でも、人への接し方が上手いって褒められてます」
「ハルちゃんは明るくて元気だから、私が教えてなくてもちゃんと出来てたと思うわ」
久子が穏やかな、しかし確信に満ちた声で返した。
それぞれの選択が繋がり、今この場所にいる。
その不思議な縁を感じているうちに、子供達が教室に入ってき始めたのであった。
この日は、三人で子供たちと一日を過ごした。
久子が教壇に立ち、ハルが机を回って子供たちの学習を補助する。
蓮も昔のように、後ろから子供たちの様子を見守り、時折声をかけた。
「博士先生、これ分からない!」
蓮は飛行機を作ってる技術者と紹介されたので、子供達から博士と呼ばれていた。
「どこが分からない?」
照れながらも、しゃがみ込む。
蓮が丁寧に図を書いて説明する姿を見て、ハルがくすっと笑う。
昼休みになると、校庭には昔と変わらない子供たちの笑顔が弾けた。
「博士、こっち!」
「ハル先生も来て!」
子供たちに引っ張られる二人を、久子が校舎の影から目を細めて見守る。
少しして戻ってきたハルに、久子がぽつりと言った。
「昔も、こんな感じだったね」
「ですね、蒼さん凄く楽しそう」
夕方。
茜色に染まる空の下、子供たちが家路につく。
一人の小さな男の子が振り返り、大きく手を振った。
「ハル先生、また来る?」
「うん。また来られるときはね」
走っていく小さな背中を、三人は見えなくなるまで見送った。
学校を出た三人は、そのまま霞ヶ浦の工場内にある食堂へと向かっていた。
「今日は楽しかったですね」
「昔に戻ったみたいだったな」
明るい会話が続く中、久子が少しだけ言葉を濁した。
「……最近、子供たちへの軍事教育が、少しずつ強くなっている気がします」
彼女の横顔には、教師としての複雑な葛藤が浮かんでいた。
「この時代なので、必要なのは分かっているんです。不満を言いたいわけではありません。でも……あの子たちには、普通に笑っていてほしいと思ってしまいます」
ハルも俯き加減で頷く。
「……私も、そう思います」
蓮はすぐには答えなかった。
今日一日、無邪気に笑い、駆け回っていた子供たちの姿。
あの笑顔を、史実では、この後の戦火が奪うということが分かっている。
「……そうだな」
蓮は前を向いたまま、静かに口を開いた。
「ああいう時間が、ずっと続けばいいと思う」
少し重くなった空気を振り払うように、ハルが顔を上げる。
「でも、今日は本当に楽しかったですね」
その言葉に三人で小さく笑い合い、食堂の暖簾をくぐった。
食堂の席に着き、温かい食事を囲みながら、話題はハルと久子の「今」の生活へと移っていった。
ハルは現在、軍令部や工場本部と各部署をつなぐ連絡係として忙しく働いている。
各部署への伝達や報告の取りまとめ、急な呼び出しの対応など、息をつく暇もないという。
久子は分教場で子供たちと向き合う日々だ。
仕事は違えど、二人は頻繁に会い、こうして愚痴をこぼし合っているようだった。
「昨日なんて、三つの部署から同時に呼ばれたんですよ! もう体が三つ欲しいくらいです」
「こっちだって、秩父より子供達の数が多いから、騒ぎ始めるともう大変で……」
二人のやり取りを聞きながら、蓮は微笑む。
「二人とも、ちゃんと大変なんだな」
「ちゃんと、ってなんですか」
二人同時につっこまれる。
ハルが呆れたように笑った後、ふと箸を止めて蓮を見つめた。
「……そういえば」
「ん?」
「私たち、蒼さんの仕事ってほとんど知らないですよね。だって、いつも研究室にいるじゃないですか」
久子も同調するように頷く。
「ええ。研究内容のことも、詳しく聞いたことがないです。飛行機を作ったこと位しか」
蓮は少し考え、ゆっくりと話し始めた。
「基本的には、飛行機を作ったり、改良したりだな。設計から、エンジンの調整、新しい装備の開発……色々だよ」
「もしかして、最近工場内の話題になってる『蓮華』も、蒼さんが作ったんですか?」
久子が目を輝かせながら質問する。
「設計を行って実験機は作りました。でも、実際に数を増やす為に作ってくれているのは、霞ヶ浦の技術者や工員たちです。俺一人だけではないですよ」
久子が興味深そうに尋ねる。
「蓮華以外にも、何か作っているんですか?」
「まあ、これから作ろうと思っているのはあります」
蓮は、ぼやかしながら、過去に作った間者一型の話や、今後作ろうとしているモノの話をする。
二人はそれ以上深くは聞いてこなかった。
「……聞いても、半分も分からないです」
「私もです。なんかすごいです!」
顔を見合わせて苦笑する二人に、蓮も笑う。
「まあ、無理に分かる必要はないさ」
「でも……よく分からないけど、蒼さんがすごいことをしてるっていうのは分かりました」
ハルの真っ直ぐな言葉に、久子も優しく微笑む。
食事が終わりに近づいた頃、ハルが名残惜しそうに言った。
「また、こうやって三人でご飯を食べたいですね」
「私もハルちゃんや蒼さんと居ると元気が出てきます」
「じゃあ、これからは定期的に三人で飯を食おうか」
蓮の提案に、ハルがパッと顔を輝かせる。
「はい! 今度は、ご飯だけじゃなくて、どこかにも行きたいですね」
「それもいいな」
守るべき日常が、確かにある。
その思いを胸に刻み、四月九日の夜は更けていった。
翌四月十日、午前。
研究室の空気は、昨日までの穏やかなものから一変していた。
「図面作るの面倒だけど……始めるか」
蓮がそう呟くと、A.I.D.A.が反応する
「蓮、昨日はゆっくり静養出来たんですから、今日からの暗号機の開発はビシバシ行きますからね」
「お前、昨日やけに静かだと思ったら、そういうことか」
蓮は、呆れたような顔をした。
一九四二年の日本の工業水準――電子管、機械式歯車、電気的処理を用いて、量産可能な構造に落とし込む必要がある。
「A.I.D.A.。一台だけ作れても意味がないぞ。前線に配備できなきゃ絵に描いた餅だ」
「蓮。そこは既に考慮済みです。量産性を優先した構成にします」
「なら、それを早く言ってくれよ」
少しずつ、設計図がAIグラスの視界の中で形作られていく。
その時、背後の扉が開く音がした。
「蒼、いる?」
ひょっこりと顔を出したのは響子だった。
「ああ。お疲れ。どうしたんだ?」
響子は研究室の中を見回し、少し目を細めて蓮を見た。
「……昨日、どこに行ってたの?」
不意の質問に、蓮は図面から目を離さずに答える。
「分教場に行ってた。ハルと久子さんと一緒にな。子供たちと一日過ごしてたんだ」
「……二人と一緒だったんだ」
響子の声のトーンが、ほんの少しだけ下がった。
「……そう」
「うん?どうかした?」
「別に」
そっけなく返した響子だが、机の上の見慣れない図面に気づき、歩み寄ってきた。
「新しい図面ね。これ。この図面って何を作ろうとしてるの?」
「ああ、これは新しい暗号機を作ろうとしてるんだ」
「暗号機?なんで暗号機なんか蒼が作ろうとしてるの?」
蓮が設計段階であることを簡単に説明すると、響子の目が技術者としての好奇心に光った。
「てか、蒼ってなんでそんなモノも作れるのよ?一体どこでその技術学んできたのよ?まぁいいわ、それ、設計が終わったら、製作に入るんでしょ?」
「ああ。図面が完成したら実際に形にしていくよ」
「じゃあ、製作に入ったら手伝ってあげる」
思いがけない申し出に、蓮は目を瞬かせる。
「えっ、いいのか?」
「もちろん。私、こういう機械の組み上げとか得意なのは知ってるでしょ」
「それは助かるけど……担当している仕事の方はいいの?」
響子はふふっと得意げに笑った。
「大丈夫よ。私、父さんに蒼へ貸し出されてるんだから。だから、蒼の仕事で手伝うことがあるなら、何も問題ないわ」
「分かった。じゃあ、製作に入ったら頼む」
「うん。約束ね。私、蓮華の製造の方に戻るから」
そう言い残し、響子は足早に研究室を後にした。
四月十日の夜までに設計を固めると、翌十一日からは試作品の製作へと移った。
真鍮の歯車を削り出し、電子管を配線で繋ぐ。
未来の理論を一九四二年の現実的な部品へ落とし込む作業は一筋縄ではいかず、十二日には主要部品の組み上げが終わったものの、十三日に行なった初期試験で最初の試作機は沈黙した。
「……駄目だな」
「蓮。この部分の接続が、ずれていることで異常をきたしています」
A.I.D.A.が電気的な抵抗値の異常を特定し、蓮が半田ごてを握り直す。
夜を徹して配線を修正し、ギアの噛み合わせを調整した。
再試験を行なったのは、十三日の夜だった。
スイッチを入れると、今度は歯車が重々しい音を立てて滑らかに回り始めた。
実際に文字を入力すると、機械式と電気式の複数の変換を経て、入力した文字からは単純な規則性を読み取れない文字列が出力される。
「蓮、この暗号機であれば、現行方式と比較して、規則性の推測は大幅に困難になります」
「これなら……いけそうだな。よし、あと少しだな」
「明日には完成出来る見込みです。さぁ、作業を再開しましょう」
四月十四日。
研究室の机の上には、黒塗りの金属ケースに収められた一台の暗号機が鎮座していた。
最終調整を終え、すべての機構の確認が完了する。
「主要機構、正常に作動しています。完成で問題ありません、蓮」
「よし……なんとか間に合ったな」
製作の佳境には、約束通り響子がスポットで手伝いに来てくれた。
細かい配線の取り回しなど、彼女の手際の良さに随分と助けられた。
「ほら。言ったでしょ。製作に入ったら手伝うって」
そう言って自慢げに笑った響子は、必要な作業が終わるとすぐに蓮華の現場へ戻っていった。
「D暗号とは、どれくらい違う?」
蓮の問いに、A.I.D.A.が冷静に答える。
「現行の方式は、大量の通信が蓄積されることで、運用上の規則性やパターンを分析される余地があります。新型は、電気的・機械的な複数の変換を組み合わせることで、単純な規則性を見つけにくくする構造です」
「じゃあ、これなら米軍に解読されないのか?」
「いいえ。残念ながら暗号に絶対はありません」
十分な時間、膨大な傍受データ、そして高度な解析能力があれば、いつかは破られる。
「しかし、現行方式と比較すれば、解読に必要となる時間と労力は大幅に増加します。この時代でこの暗号機を破るのは膨大な時間が掛かるでしょう」
「なるほど、それであれば問題ないな」
蓮は完成した暗号機を見つめた。
昨日、子供たちと過ごした穏やかな時間が、ふと脳裏をよぎる。
「明後日、津村さんと田村さんに新型暗号機を持っていくぞ」
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