エピソード57 繋がる空
「まずは……津村さんに話そう」
蓮は深く息を吐き出すと、机の端を軽く叩いて立ち上がった。
『自分一人で未来の技術を振るい、すべてを解決する』
真珠湾での成功体験がもたらしていた慢心と焦燥は、すでに消えていた。
早期警戒網を構築し、この時代にある力を繋ぎ合わせる。
間者一型で捉え、蓮華で追跡し、日本軍の戦闘機で叩く。
防空システムの基本構想はできた。
だが、それを実行に移すには、個人では到底不可能なレベルの組織間調整が必要になる。
間者一型が置かれている勝浦から、どうやって情報を集約するのか。
その情報をいかに早く霞ヶ浦の航空隊へ、そして迎撃に向かう航空部隊へ伝えるのか。
陸海軍の縦割りや部隊間の壁を飛び越えて情報をスムーズに循環させる仕組みを作るには、軍の動向に直接影響を及ぼせる人物の力が不可欠だった。
(今の津村さんなら、この構想の価値を正しく理解し、動かしてくれるはずだ)
蓮はオプティカルA.I.D.A.の表示をオフにすると、研究室のドアノブに手をかけた。
扉を開けて廊下へ踏み出すと、霞ヶ浦第一海軍航空廠の独特な熱気が肌を刺した。
重油と金属の混ざり合った匂い。
天井の甲高い鉄骨を反射して響く、ハンマーの打撃音や圧縮空気の排気音。
青図を広げて眉をひそめる技術者たちの脇を、油にまみれた作業服の整備兵たちが忙しなく走り抜けていく。
戦時下の工場は、休むことなく巨大な生き物のように蠢いていた。
この場所で働く誰もが、それぞれの現場で自分の役割を果たそうと必死に汗を流している。
(俺も、俺のやるべきことをやる)
作業スペースの喧騒を抜け、工場本館へ向かい、そして事務室に着いた。
その時、蓮の視線がふと一角で足を止めた。
整理された書類の山と、壁際に並べられた電話機の前に立つ一人の少女の背中。
「……ハル」
蓮の口から、無意識のうちにその名前が漏れた。
声のする方へ振り返ったハルは、一瞬ぽかんと目を丸くした。
だが次の瞬間、そのパッと花が咲くような笑みを浮かべた。
「蒼さん!」
少し弾んだ声で駆け寄ってくるハルの姿に、蓮の口元にも自然と柔らかな笑みが浮かんだ。
フィリピンでの緊迫した空気や、先ほどまで頭を悩ませていた防空戦術の重圧が、少しだけ和らぐのを感じる。
「仕事は慣れた?」
「はい! もうだいぶ慣れましたよ」
ハルは胸を張り、手元に抱えていた木製のバインダーを軽く掲げて見せた。
「最初は書類の用語も全然分からなくて大変だったんですけど……今は各部署への書類の受け渡しとか、緊急の連絡事項の整理も任せてもらえるようになったんです。電話の取り次ぎも、間違えずにできるようになりました」
自分の言葉で誇らしげに語るハルの顔には、ただ守られるだけの存在ではない、この霞ヶ浦でしっかりと自分の足で立っている人間の顔立ちがあった。
「それは頼もしいな。……実はちょうど、陸軍の参謀本部にいる津村少将に連絡を取りたいんだ。取り次いでもらえる?」
「津村さんですね。わかりました、ちょっと待ってくださいね」
ハルは手際よくバインダーをデスクに置くと、壁際の交換機へ向かった。
木製のプラグを手際よくジャックに差し込み、ハンドルを回して呼び出しを行う。
その無駄のない動作には、すでに職務への習熟が伺えた。
「接続を待つ間、少しお繋ぎするのに時間がかかるかもしれません」
受話器を耳に当てながら、ハルが振り返って思い出したように言った。
「そういえば蒼さん、私、明日はお休みをいただいているんです」
「そうなんだ。良かったね」
「はい。明日は久子さんの分教場へ、お手伝いに行くことになっていて。……もし良かったら、蒼さんも一緒に行きませんか? 子供たち、たくさんいますよ。きっと蒼さんが来たら喜びます」
屈託のないハルの提案に、蓮は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに小さく頷いた。
「いいな。……俺も行くよ。久しぶりに子供たちの顔も見たいしね」
「本当ですか! よかった、久子さんにも伝えておきますね」
嬉しそうに目を細めるハル。
その無邪気な笑顔は、戦争という巨大な現実の中に置かれた蓮にとって、守るべき「日常」そのものの象徴のように思えた。
その時、ハルの手元の受話器からカチリと接続音が響いた。
「あっ……津村さんですか? 奥野さんからお電話です。お繋ぎします」
ハルは手際よく交換操作を行うと、受話器を蓮へと手渡した。
「津村さん、お疲れさまです。蓮です」
「ああ、奥野か。どうした?」
受話器の向こうから聞こえる津村の声は、昨日までのフィリピンでの過酷な移動の疲れを一切感じさせない、力強い響きを帯びていた。
「ちょうどいいところへ電話をくれた。……先ほど、正式な辞令を受けたよ」
「いよいよ正式に決まったんですね」
「ああ。少将だ」
津村は淡々と言ったが、その声の奥には重々しい覚悟が滲んでいた。
「今後は参謀本部で作戦立案の指揮を任されることになった。陸海軍をまたぐ作戦についても、これまで以上に調整しやすい立場になる」
「参謀本部で……」
蓮は息を呑んだ。
単なる階級の昇進ではない。
作戦立案の中枢である参謀本部に津村が入るということは、今まで届かなかった場所へも話を通せる権限を得たことを意味する。
軍全体の作戦に影響を及ぼし得る立場を手にしたのだ。
「……津村さん。それなら、ちょうど話したいことがあります」
「なんだ?」
「今後、想定される米軍の本土攻撃……これに対する迎撃の仕組みについてです」
「ほう、お前、相変わらず鋭い指摘をするな」
蓮は短く、しかし明確に要点を切り出した。
「現在配備が始まっている『間者一型』を使います。最大探知距離約四百キロメートルの電探で、本土へ接近する敵機を早期に捕捉するところまでは、すでに仕組みができています。ですが、その先の運用体制を整える必要があります」
「確かに、お前の言う通りだ。しかし、既に間者一型から敵機を捕捉した際は、立川にいる第二四四戦隊には伝える流れを作っている」
津村は現状の体制を伝える。
「津村さん、それだけでは不足です。確かに間者一型は約四百キロの遠方を探知できますが、時速四百キロの航空機ですと、1時間で東京に届いてしまいます。そして現在配備されている戦闘機には、迎撃中に外部から情報を受け取り続けるだけの通信能力がありません」
「なる程、お前の言いたいことが分かってきたぞ。
探知できたとしても、戦闘機は飛び立つ前の情報しか持ってない状態だ。常に移動している敵機を必ず捉えられるとは限らないな」
「はい、その通りです。ですので、敵機を捕捉した際に探知情報を即座に霞ヶ浦へ集約すべきだと思っています」
受話器の向こうで、津村が静かに息を呑む気配がした。
「情報を受けた霞ヶ浦からは、『蓮華』を即座に発進させます。蓮華には、長距離通信が可能な通信装置が搭載されています。ですので、間者一型からの情報を逐次伝えることができます」
そこまで言った蓮は一呼吸置く。
「そして、あらかじめ決められた地点で迎撃戦闘機と合流し、そこから蓮華が敵機の位置を逐次確認し誘導します。更に、蓮華自体に装備されている小型電探は最大百二十キロの索敵範囲です。その範囲に入ると、敵の編隊規模、高度、速度、進路を正確に確認・追跡し続けることが出来ます。そうすると迎撃戦闘機群を最短で迎撃に向かわせることが出来るかと」
探知、伝達、追跡、そして迎撃。
一連のシステムを聴き終えた津村は、しばしの沈黙ののち、深く唸った。
「……なるほど。敵を闇雲に探すのではなく、敵がどこから、どのような規模で来るかを事前に把握した状態で、有利な位置に迎撃機を配置するわけか」
津村の理解は速かった。
戦略家としての鋭い直感が、そのシステムの決定的な価値を即座に見抜いていた。
「分かった。だが、本格的なシステム構築を軍全体に導入するには時間が掛かる。まずは間者一型の情報を霞ヶ浦へ直通で届ける、そして集合地点を決めておく、その簡易的かつ暫定的な早期警戒網をこちらで調整しておく」
「助かります」
「そうだ。ちょうど良い機会だ。四月十六日に、海軍軍令部で田村中佐と会う予定がある」
津村の声が一段と低く、重みを増した。
「暫定的な仕組みは先に動かすが、本格的な早期警戒網をどう陸海軍の運用基盤として組み込むか、実戦でどう機能させるか、田村も含めて具体的に詰める必要がある。お前も来い」
「分かりました。十六日、軍令部へ伺います」
そうして、未来に起こるドゥーリットル隊への対応をこの時代の人間たちで対応していくという形が、確かに動き始めた手応えがあった。
「津村さん、ありがとうございました」
受話器を置いた蓮は、隣で待機していたハルに向き直った。
「ハル、助かったよ。……それと、明日の約束だけど、朝七時三十分に分教場の入口で待ち合わせでいいかな?」
「はい! 完璧です。久子さんにもそう伝えておきますね」
「よろしく頼むよ」
ハルに軽く手を振ると、蓮は再び静まり返った研究室へと戻った。
部屋に入り、重い鉄の扉を閉める。
静寂が戻ってきた室内で、蓮は思考を整理し始めた。
勝浦の間者一型が捕捉し、通信を通じて霞ヶ浦へ伝達され、蓮華が飛び立ち、迎撃機が敵を叩く。
津村が動いてくれたことで、軍の組織力を巻き込んだ早期警戒網の骨組みは出来上がった。
これで十日後のドゥーリットル空襲には対応できるはずだ。
胸の奥に、確かな安堵感が広がりつつあった。
その時だった。
視界の端で青い光線が繊細な軌跡を描き、A.I.D.A.のインターフェースが起動した。
「蓮。一つ、重大な問題があります」
「問題?」
蓮は眉をひそめた。
「津村さんが暫定的な早期警戒網を調整してくれることになった。間者一型の情報を霞ヶ浦に繋ぐルートは確保できたはずだぞ」
「その「通信」そのものが問題なのです」
A.I.D.A.の冷徹な声が、蓮の耳に冷たく届く。
「探知した情報をどのように伝えるつもりですか? 通常無線、あるいは軍の標準的な有線電信ですか?」
「普通は無線暗号通信を使うはずだな」
「では、その通信が米軍によって傍受された場合はどうなりますか?」
「……!」
蓮の身体が硬直した。
「早期警戒網は、敵よりも先に情報を得て優位に立つためのシステムです。しかし、伝達される情報が暗号化されていない、あるいは解読しやすい簡易なコードで送信された場合、敵は「日本軍が自らの位置や高度を把握している」という事に気づくでしょう」
A.I.D.A.は淡々と指摘を続ける。
「通信内容を解析されれば、日本側が敵機をどの程度の距離で探知しているか、どの方向に迎撃機を配置しているかといった情報まで推測される可能性があります」
(そうか……!)
蓮の脳裏に、史実の記憶が鮮明にフラッシュバックした。
ミッドウェー海戦。
日本海軍の暗号通信は米軍によって解読・分析され、作戦目標や兵力などの重要な情報が事前に推測されていた。
その暗号解読と情報分析の精度が、敗北の大きな一因となったのだ。
情報を繋ぐことだけに目を奪われ、その情報自体を守るという視点が完全に欠落していた。
「情報を早く届けるだけじゃ駄目だ……。情報を守る仕組みがなければ、早期警戒網そのものが敵に手の内を推測される原因になる」
「その通りです。情報を伝える経路と同時に、解読を極めて困難にする高度な暗号化手段が不可欠です」
「……暗号機か」
蓮は固く拳を握りしめた。
ミッドウェーでの轍を、この手で繰り返させるわけにはいかない。
「A.I.D.A.、二〇五〇年の技術理論をベースにして、一九四二年現在の日本の工業水準・部品精度で製造できる暗号機を設計できるか?」
「可能です。この時代の電子管や機械式歯車機構を組み合わせ、1942年の技術水準で量産可能な暗号機を設計できます。現在の日本軍が使用している暗号方式より、はるかに解読困難なものにできます』
「良かった。じゃあ作るしかないな。頼むぞA.I.D.A.」
「了解です、蓮」
蓮の視界に、複雑な歯車と電子管の配線図が瞬時に展開されていく。
「十六日に軍令部で田村中佐と会うから、その時に早期警戒網の提案と一緒に、この暗号機の設計図と試作品を持ち込むぞ、A.I.D.A.」
四月十六日の三者会談まで、あとわずか。
四月十八日の空襲、そしてその先に待つミッドウェーという歴史の転換点に向けて、蓮が果たすべき役割が、また一つ明確になった。
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