エピソード55 十日後の空
昭和十七年四月八日、朝。
開け放たれた窓から差し込む春の陽光が、霞ヶ浦第一海軍航空廠の宿舎の一室を淡く照らしていた。
蓮は、自室のベッドで深い眠りに落ちていた。
昨日、フィリピンから帰還するまでに蓄積した極限の疲労が、予定していた起床時間を容赦なく奪い去っていた。
枕元に置かれたオプティカルA.I.D.A.から、指向性音声が蓮の耳にだけ届く。
「蓮。起床時刻です」
淡々とした、しかしどこか親しげなAIの声。
蓮は毛布に顔をうずめたまま、眠そうな声で返す。
「……あと五分」
「その要求は、五分前にも確認しています」
容赦のない正論に、蓮は苦笑しながらゆっくりと身を起こした。
洗面台に向かい、冷たい水で顔を洗う。
鏡に映った自分を見つめ、小さく息を吐いた。
フィリピンのジャングルで纏わりついていた泥と草の匂い、そしていつ銃弾が飛んでくるか分からないあの極限の緊張感は、ここにはない。
窓の外からは、霞ヶ浦の朝の涼やかな風と、遠くで響く微かな作業音が聞こえてくるだけだった。
オプティカルA.I.D.A.をかける。
視界に緑色のインターフェースが浮かび上がり、いつものシステム起動音が鳴った。
「おはよう、A.I.D.A.」
「おはようございます、蓮。本日のバイタル、正常値に回復しています」
蓮は新しく用意してもらった服に袖を通し、研究室へと向かった。
研究室へ向かう道すがら、格納庫の横を通り抜ける。
そこにはすでに活気が満ちていた。
エンジンの駆動音、金属を叩く工具の音、そして整備員たちが声を掛け合う喧騒。
蓮はその光景を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「戻ってきたんだな」
戦場では、敵の動きを読み、生き残ることだけを考えていた。
しかしここ霞ヶ浦では、航空機が整備され、人々が働き、当たり前の「日常」が始まっている。
そのコントラストが、フィリピン戦線の終わりを蓮に強く実感させた。
研究室の扉を開けると、そこにはすでに図面と格闘している響子の姿があった。
彼女は手を止めることなく、蓮を横目で見る。
「……遅いわよ、蒼」
蓮は少しバツが悪そうに頭を掻いた。
「悪い。昨日の疲れが残ってたみたいだ。それで、蓮華の状況はどうなってる?」
蓮が尋ねると、響子は手元の資料をまとめながら事も無げに言った。
「二号機は訓練機として運用が始まっているわ。三号機、四号機は既に完成して最終調整中よ。五号機以降は、今は製作ラインに乗ってるわ」
蓮は目を丸くした。
「……もう四機?」
自分がフィリピンへ行っている間に、まさかそこまで進んでいるとは思わなかった。
「設計が完全に固まって、部品の規格も統一したからね。製造工程が安定した上に、作業員たちもあの特殊な機体構造に慣れてきたのよ。二号機の時の手探り状態とはスピードが違うわ」
A.I.D.A.によって設計され、蓮によって新たに造られた蓮華は、響子の手によって、今や『量産される航空機』へと変貌を遂げつつあった。
響子は壁掛け時計をちらりと見上げ、立ち上がる。
「そろそろ、訓練飛行隊のほうに行ってくるわ」
「訓練飛行隊?」
「そうよ。蒼がフィリピンに行っている間に、蓮華専用の訓練隊が出来たのよ。蓮華には、今まで見たことも触ったこともない新機能が沢山あるのよ。使い方や用途を教えてもらえないと誰も使えないわ」
響子は、そんなことも分からないの、と言いたげに言った。
「なるほどね。で、もう訓練は始まってるの?」
蓮の問いに、響子は呆れたようなため息をついた。
「とっくに始まってるわよ。部隊が編成された時から、私が直々に操作や運用の指導をしてるんだから」
蓮華の操縦方法、小型電探などの使い方、偵察機としての戦術運用、そして将来的な対潜哨戒への応用まで、蓮から教えられた知識をもとに、搭乗員たちへ叩き込んでいるのだ。
「機体だけ作っても、使える人間がいなきゃ意味ないでしょ」
響子らしい責任感を発揮していた。
「確かにそうだね。響子さん、頼んだ」
蓮が深く頷くと、響子は「任せなさい」とだけ言い残し、足早に研究室を出て行った。
扉が閉まり、静寂が下りる。
先ほどまでの日常的な喧騒が嘘のように、研究室は一人だけの空間になった。
蓮は自分のデスクの椅子に深く腰を下ろし、表情を引き締めた。
「A.I.D.A.。これからどうする?」
その問いは、日常から再び「歴史の改変」という途方もない戦場へと思考を切り替えるスイッチだった。
「蓮。十日後の四月十八日、アメリカ軍による日本本土への空襲が発生します」
A.I.D.A.から提示された冷徹な事実に、蓮の目が細められる。
「……ドーリットル隊か」
「はい。アメリカ海軍の空母から発進した十六機のB-25爆撃機が日本本土へ飛来し、東京などを爆撃。その後、中国大陸方面へ抜ける作戦です。軍事的な被害そのものは限定的でした。しかし、日本本土が直接攻撃されたという『心理的衝撃』が、その後の歴史に大きな影響を与えます」
日本は絶対に安全だという神話が崩れ去る日。
そしてそれが、次の巨大な悲劇の引き金になる。
「そして、その約一か月半後――六月。ミッドウェー海戦が発生します」
「ミッドウェー……」
蓮の口から、太平洋戦争における最大の転換点の名が漏れる。
「ドーリットル空襲の衝撃を受けた日本海軍は、アメリカ空母を日本近海へ誘い出し撃滅するため、以前から計画されていたミッドウェー作戦を前倒しで強行します」
「つまり……ドーリットル隊への仕返しか」
「世論などを考慮し、作戦を前倒しせざるを得なくなった――というのが、より正確です。しかし、作戦を急いだ結果――日本海軍は主力空母四隻を喪失。対するアメリカ海軍の損害は空母一隻のみ。これ以降、太平洋戦争の主導権は徐々にアメリカ側へ移っていきます」
A.I.D.A.の報告は歴史の講義ではない。
これから自分たちが立ち向かわなければならない『現実の危機』の提示だった。
蓮は腕を組み、思考を巡らせる。
六月のミッドウェーは確かに致命的だ。
しかし、その根本原因の一つとなる事件が、すぐ目の前まで迫っている。
残された時間は、たった十日。
「……まずは、ドーリットル隊だな」
日本本土への初空襲をどう防ぐか。
敵機を直接撃墜することはできない。
二〇五〇年の自衛隊交戦規定では、敵に対する直接的な先制攻撃が認められていないからだ。
だが、蓮の脳裏に、真珠湾での戦いの記憶が閃いた。
あの時、自分はどうやって味方を守った?
敵機を撃つのではなく、放たれた弾丸や砲弾を空中で迎撃したではないか。
今回も同じだ。
「……そうだ」
蓮は顔を上げ、声に確信を込めた。
「落とされる爆弾を、ビーム砲で迎撃すればいい」
B-25爆撃機そのものには手を出さない。
彼らが投下した爆弾だけを、空中で狙い撃ちにして破壊する。
それならば敵兵を直接殺傷することなく、真珠湾同様の『防護射撃』の枠内で日本本土を守ることができる。
完璧なロジックだった。
これで、十日後に迫る危機を回避できる。蓮がそう安堵しかけた、次の瞬間だった。
「蓮」
A.I.D.A.の平坦な音声が、蓮の思考を冷ややかに断ち切った。
「蒼莱のビーム砲を、使うことは出来ません」
蓮の動きが、完全に止まった。
真珠湾では使えたはずの最強の切り札が、使えない。
「……なぜだ?」
沈黙に包まれた研究室の中で、蓮の問いだけが虚しく響いた。
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