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碧のA.I.D.A. ―2050年のステルス戦闘機、昭和16年へ―  作者: 明日葉 優太
フィリピン戦線編

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エピソード54 勝利の、その先へ

峡路の闇を抜け、日本軍の封鎖線にたどり着いた蓮は、歩哨の兵士に「味方だ、津村中佐の所に案内して欲しい」と告げた。


泥と汗にまみれたその姿には、一人の人間が背負った過酷な時間の重みが纏い付いていた。


指揮所の一室。

津村はすでに海軍からの報告を受け、マッカーサーの捕獲と蓮華による離脱の全貌を把握していた。


戸が開く。

そこに現れたのは、ボロボロの軍服を着た蓮だった。


津村は静かに立ち上がり、疲労困憊の男を見据える。


「……奥野。よく戻ったな」


その声には、冷徹な参謀としての仮面が剥がれ落ちた、純粋な安堵と労いが滲んでいた。


「本当によくやってくれた」


「……はい」


蓮は続けて言葉を返そうとしたが、限界を迎えた気力がそれを許さない。


AIグラスの視界の隅で、A.I.D.A.が告げた。


「蓮。現在の疲労状態では、継続行動は推奨できません」


「詳しい話は後でいい。今は休め」


津村の短い指示を受け、蓮はあてがわれた自室の簡素な寝台にたどり着くやいなや、泥のように深い眠りへと落ちていった。



同日の夕方。


激しい戦闘と極限の緊張感は、時間の経過とともに遠のいていく。


蓮は目を覚ますと、まず簡素なシャワー室で泥と乾いた血を洗い流し、用意されていた新しい服へと身を通した。


支給された簡素な食事をゆっくりと口に運ぶ。


ただ「食べ、眠る」という日常の動作が、自分がまだ生きているという確かな手触りをもたらしていた。


A.I.D.A.からの報告はない。

ただ『身体状態、回復傾向』という文字が静かに点滅しているだけだった。


やがて、食器を片付けた頃に伝令が訪れた。


「奥野さん、津村中佐がお呼びです」


指揮所に戻った蓮を待っていたのは、もはや戦闘の緊迫感ではなく、巨大な歯車が噛み合うような静かな空気だった。


机の前に座る津村が、紅茶のカップを置く。


「蓮華も無事に帰還した。マッカーサーは今や、我々の完全に管理下にある。バターン方面の米比軍は精神的支柱を奪われ、もはや息も絶え絶えだ。これまで総攻撃を仕掛けるのを耐え、じっくりと敷いてきた包囲網が、ここに来て敵の組織的な抵抗力を完全に無力化した」


津村の言葉に、A.I.D.A.のデータが視界に重なる。


「蓮。敵部隊の傍受した無線内容からも、敵の交戦意思は急激に落ちています」


「まだ降伏はしていないが……時間の問題だ。もう長くは持たんよ」


津村は一呼吸置き、鋭い目をさらに据え直した。


「……実はな、奥野。お前が寝ている間に、東京から暗号通信が入った」



東京の参謀本部に打電された戦果は、バターン攻略、日本軍の損害の極小化、そして敵最高司令官マッカーサーの身柄確保という、前代未聞の特大戦果だった。


そして下された命令。


それは「津村宗一郎の中佐から少将への二階級昇進」、および「参謀本部勤務への復帰」だった。


津村は、暗号通信の内容を見つめながら、複雑な笑みを浮かべた。


「俺は何もしていない。今回の戦果の大半は、お前が作ったものだ。だから、参謀本部には上申するつもりだ。今回の戦果は俺ではなく、奥野――お前の功績によるものだとな」


即座に、蓮は首を横に振った。


「……やめてください」


蓮の声音には揺るぎない拒絶があった。


「私は軍から評価されたいわけでも、勲章や昇進が欲しいわけでもありません。あなたの考え方に共感し、兵士を無駄に死なせないために協力した。目の前の戦闘だけではなく、戦争の全体構造を変えるというその意志を信じたからです」


蓮は津村を真っ直ぐに見据えた。


「だから、私の成果はあなたの成果です」


津村は言葉を失い、やがて小さく息を吐いた。


「……お前には敵わんな、奥野」


苦笑しながら、津村は手元の通信文のメモを裏返した。



それから二日後。


バターン半島を包む空気が、決定的に変わった。


最前線の陣地から、ゆっくりと、しかし紛れもない白旗が掲げられた。

米比軍の大規模な降伏の始まりだった。


日本軍の兵士たちが、武器を捨てて次々と列をなして歩いてくる敵兵の姿を、呆然としたような、あるいは安堵したような面持ちで見つめている。


AIグラスが淡々と告げる。


「米比軍の大規模な降伏を確認。敵の組織的抵抗は終結に向かっています」


蓮は戦場のただ中に立ちながら、ただ静かに息を呑んだ。


これでフィリピン戦線の最大の山場は越えた。

歴史の巨大なうねりは、すでに元の軌道から完全に外れている。



だが、勝利の後に残されたのは、現実的な膨大な実務だった。


指揮所。

津村と蓮は、目の前に山積する捕虜の処遇問題を前にしていた。


「津村さん、数万の米比軍捕虜を、このまま日本本土へ送るのですか?」


津村への問いに、A.I.D.A.が算出した冷徹な数値がAIグラスに浮かび上がる。


「日本本土への移送は、現在の日本の海上輸送能力、燃料、食料、医療品の備蓄に対して致命的な負荷となります。維持は不可能です」


人道的な配慮ではなく、純粋なリソースの計算として、本土移送は破綻していた。


津村は即座に決断を下した。


「いや、送る必要はない。一般捕虜はフィリピン現地で収容する。最低限の食料、水、医療、休息を保証し、不必要な暴力は一切禁じる。そして、日米講和に向けた一つの足掛かりとして、将来的な捕虜交換や第三国を介した返還を視野に入れた管理体制を構築する」


それによって、史実で起きた悲惨な「バターン死の行進」は、この世界では起こらない。


無駄な資源を消耗せず、将来の外交カードとして巧みに管理する

――津村の頭脳が描く、最も合理的な着地点だった。


A.I.D.A.は蓮に告げる。


「津村の合理性は本物ですね」


一方で、マッカーサーをはじめとする主要高級将校は別枠だった。


彼らは軍事情報、政治的価値、そして将来の講和交渉における絶大な交渉材料として、日本本土へ移送されることになっている。


陸軍はすでにマッカーサーを乗せて、本土へ軍用機を飛ばしており、本作戦で活躍した蓮華はその後、南方輸送船団の護衛任務へと移行していた。



フィリピン戦線の事後処理が一段落したある日。


津村と蓮は、本土復帰のために同じ移動用の軍用機に乗り込んでいた。


戦場の喧騒が遠ざかる静かな機内。

プロペラの低く安定した轟音の中で、二人の間に肩の力が抜けた会話が交わされた。


「そういえば、お前をここへ呼んだのは俺だったな」


窓の外の雲海を見つめながら、津村がぽつりと言った。


蓮は小さく息をつき、返す。


「そうでしたね」


「あの時は、せいぜいフィリピンの戦況分析や、お前の情報網を使うつもりだったんだがな」


「私も、まさかマッカーサーまで連れて帰ることになるとは思いませんでしたよ」


「まったく……とんでもない奴を呼んでしまったな」


「今さらですか?」


蓮が微かに笑うと、津村もつられて声を上げて笑った。


「ああ。今さらだ」


重苦しかった戦場の空気が和らいだのも束の間、津村の表情が再び引き締まった。


機体の窓から広がる青空の向こうを見据えながら、彼は低く、確信に満ちた声で告げた。


「奥野。マッカーサーを捕らえる――俺たちが約束したことは、これで果たした。だが、ここからが本番だ」


二階級昇進とバターン攻略の大勝利により、陸軍内部における津村の発言力は無視できないものへと跳ね上がっている。


「まずは、この地位を使って、軍の中で少しでも流れを変える。日米講和に向けて、本格的に動くぞ」


津村の言葉を聞きながら、蓮は再び窓の外へと視線を戻した。


遠ざかっていくフィリピンの空。


マッカーサーを捕らえ、バターンを陥落させ、歴史の歯車はすでに原型をとどめないほどに書き換えられた。


だが、ここまで変えてしまった歴史が、この先どれほどの激流となって自分たちに牙を剥くのかは、まだ誰にも分からない。


静かに瞬くA.I.D.A.の光を感じながら、蓮は心の中で呟いた。


津村の言う通りだ。

本当の戦いは、ここから始まる。

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