エピソード53 You shall not return
峡路を支配していた銃声が止み、後に残ったのは冷却していくエンジンの微かな音だけだった。
蓮は白煙が漂う車両の残骸から視線を外し、北へと続く暗い林道を見据えた。
「蓮。対象人物との距離、約五百八十メートル」
A.I.D.A.の音声が、暗闇の中を逃走する三つの生体反応を正確に告げる。
先ほどの激戦の疲労が、泥と汗にまみれた軍服を通して蓮の身体にのしかかっていた。
蓮は規則正しい呼吸を保ちながら、彼らを追いかけるべく密林の奥へ足を踏み入れた。
歩を進めるたびに、足首まで泥が絡みつく。
逃げる側と追う側。暗闇の中の静かな追跡劇が始まった。
数分後。
対象の反応のうち、一つが不自然に立ち止まった。
「護衛の一人が後方の気配を察知。迎撃態勢をとっています」
林道のわずかな開けた場所。
護衛の兵士が暗闇に向かってライフルを構え、引き金を引いた。
乾いた銃声が夜の森を切り裂く。
だが、蓮はすでにそこにはいない。
A.I.D.A.の予測演算により、発砲のほんの一瞬前に大木の後ろへ滑り込んでいた。
「射線クリア」
蓮は木の陰から飛び出し、一気に距離を詰める。
動揺した兵士がボルトを引き直すよりも早く、ビームガンの銃口を向けた。スタンモード。
青白い閃光が無音で放たれ、一人目の護衛が声もなく昏倒した。
その異変に、もう一人の護衛が気付いた。
「そこか!」
闇雲に放たれた銃弾が、蓮の正面へと殺到する。
蓮は回避行動をとりながら、左手のリングを起動した。
パキィン、と硬質な音が響き、急所へ向かっていた一発の弾頭が不可視の防護領域に弾かれた。
A.I.D.A.の射線予測と蓮自身の動きにより、それ以外の弾丸はすべて空を切っている。
蓮は歩みを止めず、そのまま滑り込むように二人目の懐へ潜り込んだ。
下段からの閃光。
二人目の護衛が膝から崩れ落ちる。
「制圧完了」
蓮はリングをオフにした。
この後のことを考えると防護エネルギーの消耗をなるべく抑えなければならない。
「……残り一人」
蓮は再び、暗闇の奥へと歩みを進めた。
護衛が倒れたことなど知る由もなく、ダグラス・マッカーサーはひたすらに前へ逃げ続けていた。
走る。息が上がる。歩く。そしてまた走る。
コーンパイプはとうにどこかへ落とし、軍服は泥に汚れ、威風堂々たる姿は見る影もない。
年齢と長時間の逃走による疲労が、彼の身体に確実なダメージとして蓄積していた。
蓮は一定距離を保ちながら、その足取りを追っていた。
「蓮。対象人物の進路を限定します」
不意に、A.I.D.A.が提案してきた。
AIグラスの視界に、周辺の地形、林道、敵部隊の配置、捜索範囲のデータが次々と展開され、一つの最適解が導き出されていく。
「どうするつもりだ?」
「周辺状況と威嚇射撃を利用し、対象人物が『自ら選択した』と誤認する形で、特定の方向へ誘導をお願いします」
目的地は明かされなかった。
だが、蓮はA.I.D.A.の演算を誰よりも信頼している。
「分かった。指示を出してくれ!」
マッカーサーが、林道の分岐点に差し掛かった。
彼は荒い息を吐きながら、少しでも安全に思える右側の獣道へ進もうとした。
その瞬間、右側の地面を青白い閃光が激しく掠めた。
「くっ……!」
マッカーサーは反射的に足を止め、右から攻撃を受けたと誤認した。
本能のまま、彼は銃撃から逃れるように左側の道へと駆け出した。
しばらく進むと、再び地形が開け、複数のルートが現れる。
今度は直進しようとした彼の足元に、木の幹を粉砕しながらビームが着弾する。
マッカーサーは舌打ちをし、身を屈めながら右へ方向を転じた。
「対象の進路、問題ありません」
A.I.D.A.の報告を受けながら、蓮は闇に紛れてビームガンを構え続けた。
マッカーサーは最後まで気付くことはない。
自分は執拗な追っ手から必死に逃げているだけだと思い込んでいる。
その一歩一歩が、自分でも気付かないまま、A.I.D.A.の望む方向へと繋がっているとも知らずに。
時間が経過するにつれ、バターン半島全体が騒がしくなり始めていた。
遠くから軍用車両の唸るようなエンジン音が響き、サーチライトの光の束が夜空を撫でる。
交錯する無線の傍受データが、米比軍が司令官の危機を察知し、血眼になって捜索を始めていることを示していた。
だが、彼らが直接マッカーサーの進路に先回りしてくることはない。
「敵部隊接近。経路を変更します」
A.I.D.A.がその都度、周辺の動的データを解析し、敵の包囲網の隙間を縫うようにマッカーサーを誘導していく。
「……」
蓮の足取りが、僅かに重くなった。
張り詰めた緊張感の中での長時間の追跡。
限界を超えて動き続けている肉体が、悲鳴を上げ始めている。
「蓮。短時間の休息を推奨します。現在の疲労度は作戦遂行に支障をきたす恐れがあります」
「……分かった。一分だけ休憩する」
蓮は太い木の根元に身を隠し、水筒の水を一口含んだ。
泥にまみれた軍服の感触。
熱を持った筋肉。
荒くなる呼吸を、静かに、深くコントロールする。
その間も、A.I.D.A.の監視の目は一度もマッカーサーから外れてはいない。
「対象人物、移動を継続。距離、維持されています」
「行くぞ」
蓮は水筒をしまい、再び暗闇の中へと溶け込んでいった。
追跡開始から、およそ一時間が経過していた。
マッカーサーの体力は、とうに限界を迎えていた。
もはや走ることはできず、重い足を引きずるようにして歩いている。
肩で息をし、幾度も倒れそうになりながらも、歴史に名を残す軍人としての矜持だけが彼を動かしていた。
蓮もまた、深い疲労の中にいた。
だが、無理に距離を詰めることはしない。
やがて、密林の木々が途切れ、湿った風が頬を撫でた。
ざざっ……という、規則的な音が聞こえる。
波の音だ。海が近い。
「前方、待機地点を確認しました」
A.I.D.A.の声に合わせて、蓮が前方を見据える。
木々を抜けた先には、月明かりに照らされた入り江の砂浜が広がっていた。
そして、暗い波打ち際に、二つのフロートを伸ばした見慣れぬ機影――蓮華が静かに浮かんでいた。
A.I.D.A.が緻密に計算し、マッカーサーに選ばせ続けた逃走ルート。
それはすべて、この海岸で待つ蓮華の元へと一直線に繋がっていたのだ。
マッカーサーが砂浜へと転がり出る。
目前に広がる海。
そして、見たこともない水上機。
彼は荒い息を吐きながら、それが味方の救出機ではないことを直感した。
逃げ場はない。
彼はゆっくりと振り返った。
数メートル先の砂浜に、泥にまみれた見慣れぬ軍服の男が立っている。
男の手に握られた奇妙な形状の銃が、自分に向けられている。
マッカーサーは懐から護身用の拳銃を引き抜き、震える手で構えた。
「お前は……何者だ」
蓮は表情を変えず、ただ静かに告げた。
「お前を捕虜とする」
殺意はない。
だが、その言葉にはいかなる反論も許さない絶対的な重みがあった。
マッカーサーの目に、屈辱と怒りが混ざり合う。
ここで捕虜になれば、すべてが終わる。
築き上げた名声も、フィリピンの防衛も、未来への野望も。
彼は銃口を向けたまま、低く呟いた。
I shall return.(私は必ず戻ってくる)
世界史に刻まれるはずだったその言葉に、蓮は冷たく、静かに返した。
You shall not return.(お前が戻ることはない)
青白い閃光が弾けた。
ビームガンのスタンモードが、寸分の狂いもなくマッカーサーの胸元を撃ち抜く。
巨大な体躯から一瞬にして力が抜け、マッカーサーは拳銃を落とし、砂浜の上に崩れ落ちた。
波の音が、気絶した男の身体を静かに洗う。
バターン半島からの脱出劇は、ここに潰えた。
「バイタルサイン安定。生命に別状はありません」
A.I.D.A.の報告を聞きながら、蓮はマッカーサーの巨体を担ぎ上げた。
ズシリとした重みが肩にのしかかるが、もはやアドレナリンで感覚は麻痺している。
緊張感が解け、海風が心地よく火照った身体を冷やしていく。
敵の急接近を知らせる警告はない。
周囲は奇妙なほど静かだった。
蓮は波打ち際に待機する蓮華へと近づいた。
機体の影から、見張りをしていた藤原が慌てて駆け寄ってくる。
「奥野さん! よくぞ無事で!」
藤原の声には安堵が滲んでいた。
しかし、蓮の背中に担がれた巨大な男の姿に気づき、その動きがピタリと止まる。
「……奥野さん、その人は……?」
「マッカーサーだ」
藤原は絶句した。
眼を剥き、口を半開きにしたまま、歴史上の大人物が泥まみれで担がれている信じがたい光景に、言葉を失って立ち尽くした。
「藤原大尉、マッカーサーを乗せるので手伝って下さい。あ、心配しないで下さいね。数時間ほどは気絶してるだけなので」
蓮の言葉にハッとした藤原が、慌てて機体のハッチを開ける。
二人がかりでマッカーサーを蓮華の後部座席へ押し込んだ。
狭い機内に、大男が窮屈そうに収まる。
「藤原さんは前へ」
「あ、はい……って、奥野さんは!?」
操縦席へ向かおうとした藤原が、振り返って声を上げた。
蓮華は二人乗りだ。
前席に藤原、後席にマッカーサーを乗せれば、蓮が乗るスペースはない。
蓮は機体の外に立ち、ハッチの縁に手をかけた。
「藤原さん、あとは頼みます。あなたはマッカーサーを連れて先に戻って下さい。さぁ、敵の捜索網が迫ってきてます、急いで」
「そんな! 奥野さんを置いていくわけには……!」
「私は自力で地上から帰れるので、安心してください」
蓮の静かな、しかし揺るぎない眼差しに、藤原は唇を噛み締め、深く頷いた。
「……分かりました。気をつけて絶対に帰ってきてくださいよ」
ハッチが閉まる。
エンジンが低く唸り、蓮華が夜の海面を滑走し始めた。
水飛沫を上げながら速度を増し、やがて重力を振り切るように離水する。
蓮は砂浜に立ち尽くし、暗い空へと吸い込まれていく機影を静かに見送った。
歴史の巨人は捕らえられ、日本軍の拠点へと運ばれていく。
最大の任務は果たされた。
だが――。
蓮は視線を陸地へ戻した。
自分の周りには、怒り狂った敵の大軍が蠢く完全な敵地が広がっている。
蓮華が見えなくなると同時に、蓮は再び密林の闇へと身を投じた。
ここからは派手な戦闘は避ける。
必要なのは、気配を消し、生き延びること。
A.I.D.A.の演算能力がフル稼働し、敵兵の配置、巡回ルート、サーチライトの軌道、そして地形データを統合して脱出ルートを描き出す。
「前方二百メートル、敵の歩兵小隊。右方向へ移動中。このまま木陰で三十分待機を推奨」
「了解」
隠れる。待つ。そして移動する。
気の遠くなるような忍耐の連続だった。
泥の中を這い、息を殺して敵の車両が通り過ぎるのを待つ。
「左前方より巡回兵接近。回避不可能です」
「プロテクションリング、起動」
どうしても避けられない時だけリングをオンにし、敵の死角を突いて一瞬で背後へ回り込み、気絶させる。そしてまたリングをオフにする。
エネルギーの消費を極限まで抑えながら、蓮は一歩ずつ、確実に日本軍の勢力圏へと近づいていった。
数時間後。
東の空が、白み始めていた。
午前五時。
深い霧に包まれた林道を抜けた蓮の前に、土嚢が積まれた陣地が見えた。
翻る日章旗。日本軍の封鎖線だ。
「誰だ! 止まれ!!」
泥と汗にまみれ、幽霊のように歩いてくる蓮の姿に、歩哨の日本兵が慌てて小銃を構えた。
蓮は両手を軽く上げ、乾ききった喉から声を出した。
「味方だ」
そして、ゆっくりと息を吐きながら付け加えた。
「津村中佐の所に案内して欲しい」
兵士たちが顔を見合わせ、警戒を解きながら駆け寄ってくる。
蓮は左手を見た。
AIグラスの視界の隅に、青白い数字が静かに点滅している。
『プロテクションリング、残存使用可能時間――十三分』
極限の状況下で命を繋いだ、ギリギリの数字。
蓮はその数字から視線を外し、遠く、空が明るくなり始めた海の方向へと目を向けた。
蓮華の姿は、すでにもうどこにもない。
あの機体は今頃、任務を終えて安全な場所へ着水しているはずだ。
蓮は小さく息を吐いた。
「……間に合ったな」
夜明けの光が、泥にまみれた彼の横顔を静かに照らし出していた。
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