エピソード51 敵陣深奥
夜の海は、底の見えない黒い闇を湛えていた。
午後十時。
ルソン島西岸へと続く暗海に浮かぶ『蓮華』初号機の後席で、蓮は幾度目かの装備確認を繰り返していた。
腰のホルスターに収めたビームガンの冷たい感触、左手の指に絡みつくプロテクションリングの重み。
一つ一つの動作を確かめる指先が、わずかにこわばっているのを自分でも感じていた。
「蓮。機体各部、異常ありません。航法システム、通信系統、各種センサー類、すべて正常稼働しています」
AIグラスの奥から鼓膜を揺らすA.I.D.A.の平坦な声が、皮肉なほどに蓮の緊張を浮き彫りにする。
何もかもが完璧だった。
だからこそ、これから自分がたった一人で踏み込もうとしている死地の重圧が、じわじわと胃の腑を締め付けてくる。
「……奥野さん」
操縦桿を握っていた藤原が、ふと肩越しに振り返った。
計器の淡い光に照らされたその横顔には、熟練した飛行将校らしからぬ濃い不安が張り付いている。
「本当に、行くんですね」
蓮は手元のバックルを留める手を一瞬だけ止め、ゆっくりと顔を上げた。
「はい」
藤原は何かを言いよどむように唇を噛んだ。
数万の兵力によって固められた包囲網の奥へ、非戦闘員であるはずの男が単身で降り立とうとしているのだ。正気の沙汰ではない。
「出発します」
蓮に短く告げると、藤原は前を向き、スロットルを押し込んだ。
重低音を響かせて『蓮華』が海面を蹴り立てる。
激しい水飛沫を後方へ撒き散らしながら、機体は徐々に速度を増し、やがて水面を離れて漆黒の夜空へと吸い込まれていった。
眼下に散らばっていたスービック湾の安全な灯りが、瞬く間に後方へと流れ去り、やがて完全な暗闇に飲み込まれていく。
窓の外には、ただ一面の虚無が広がっていた。
時折、地上の遥か彼方に、米比軍の陣地を示す微小な灯火や車両のライトが瞬く。だが『蓮華』はそれらの警戒網を嘲笑うかのように、音もなく、影のように高空を滑空していく。
「周辺に敵兵の熱源を確認しました。着陸予定地点から最も近い哨戒部隊まで約三・五キロメートル」
AIグラスの視界に、複雑に入り組んだ海岸線の地形データが緑色のワイヤーフレームで浮かび上がった。
「三・五キロか……少し歩くな」
「はい。しかし、敵部隊から十分な距離を確保することで、着水音やエンジン音を察知されるリスクは最小限に抑えられます」
蓮は暗闇に沈む眼下の入り江を見下ろし、小さく頷いた。
「なら、ここでいい」
『蓮華』はエンジンを極限まで絞り、滑るように高度を落とした。機体が海面に触れた瞬間、微かな衝撃と水音だけが夜気に吸い込まれる。
入り江の奥深く、深い森の影に隠れるようにして機体は静かに停止した。
「奥野さん、お一人で行くつもりなのですか?」
ハッチに手を掛けた蓮の背中に、藤原がすがりつくような声を出した。蓮は振り返らず、波の音に紛れさせるように低く答えた。
「いえ。実は先に潜入している者達がいます」
「先に潜入ですか?」
「ええ。詳しくは話せませんが、私には独自の潜入部隊があるのです。その部隊が、すでに敵陣の奥深くへ潜入し、網を張っています。現地で彼らと合流する予定です」
息をするように吐いた、完全な嘘だった。
先発隊などいない。合流すべき味方など、この暗闇のどこにも存在しない。
これから足を踏み入れるのは、完全に孤立無援の地獄だ。
それでも、藤原にこれ以上の懸念を抱かせたまま待機させるわけにはいかなかった。
「だから、心配しなくて大丈夫です」
蓮の静かな、しかし確信に満ちた嘘に、藤原は少しの間沈黙し、やがて深く頷いた。
「……分かりました。私はここで待機していればいいんですね」
「はい。約束の時間は、夜明け前の四時です」
「四時までに戻らなかった場合は?」
蓮は前方にそびえ立つ、黒い壁のような密林を見据えた。
「その時は、先に帰還してください」
「奥野さん……それは……」
「藤原大尉、約束です。時間になれば私が戻らなくても帰還して下さい」
「……了解致しました」
蓮は冷たい海水を掻き分け、陸へと上がった。
水際を抜け、密林の入り口で一度だけ振り返る。
暗闇の中に溶け込みそうな『蓮華』のシルエットから、藤原がわずかに手を上げるのが見えた。
蓮も無言で手を返し、そして踵を返した。
ここから先は、本当に一人だ。
「蓮。これより先、敵軍の警戒区域です。十分に注意してください」
「ああ、分かってる」
熱を帯びた夜風が、腐葉土と潮の混じった生臭い匂いを運んでくる。
蓮は一呼吸置き、鬱蒼と生い茂るジャングルの深淵へと足を踏み入れた。
海岸を離れるにつれ、波の音は虫の羽音と木々のざわめきに掻き消されていった。
フィリピン特有のまとわりつくような湿気が、瞬く間に蓮の体力を奪っていく。
そして、さらにしばらく進んだ時だった。
「前方、敵兵三名」
A.I.D.A.の警告とともに、視界の奥に三つの赤い熱源が浮かび上がった。
距離およそ三百メートル。蓮は即座に身を屈め、巨大なシダの陰に張り付く。
グラスの視界には、彼らの歩くペース、視線の向き、さらには交わされる英語の雑談までもがテキスト化されて投影される。
蓮は息を殺し、彼らの進行ルートから外れるように泥濘む斜面を迂回した。
戦って倒すのは簡単だ。
だが、一人でも欠ければ必ず騒ぎになる。
気づかれないこと、痕跡を残さないこと。
それこそが、この死地における唯一の生存戦略だった。
さらに密林の奥深くへと進んだ時のことだった。
二人の米兵が、気怠げに夜間巡回を行っていた。
彼らにとって、それはいつもの退屈な夜でしかなかった。
「ちょっといいか……一本吸ってくる」
「おい、トーマス。こんなところでか?」
「どうせ日本軍なんか来やしない。奴等は包囲に夢中だからな。ちょっとくらい構わないだろ」
「仕方ない奴だ。先に行ってるからな」
「分かった。後で追いかけるから先に行っててくれ」
一人の兵士が仲間から少し離れ、木立の方へ歩いていく。
彼は自分が闇の中から狙われているなど、微塵も思っていなかった。
「一名、こちらへ接近しています」
巨大な倒木の陰で、蓮は完全に気配を消していた。
視界の端で、距離の数字が冷酷にカウントダウンされていく。四十メートル。三十メートル。二十メートル。
二人の巡回兵のうちの一人が、煙草を吸うために仲間から離れて歩いてきたのだ。
蓮の右手が、ゆっくりとビームガンのグリップを握る。
「蓮。スタンモードに切り替えます。設定完了しました」
兵士が立ち止まる。
倒木を挟んだわずか十メートルの距離。
シュッという小さな音と共に、マッチのオレンジ色の炎が若い兵士の顔を照らし出した。
彼は銃をだらりと下げ、深く煙草を吸い込むと、長い紫煙を夜の闇に吐き出した。
彼にとっては、ただの退屈で蒸し暑いフィリピンの夜でしかない。
自分が今、死の縁に立っていることなど微塵も気づいていなかった。
その兵士が、ふと倒木の方へ向き直り、一歩を踏み出した。その瞬間、蓮の足が反射的に動いてしまう。
パキッ。
軍靴が乾いた枝を踏み折る音が、静寂の森に異様に響いた。
「……誰だ?」
兵士の動きが止まる。
だらりと下げていたライフルの銃口が上がり、目を細めて暗闇を凝視する。
「誰かいるのか?」
蓮は動かない。
兵士がさらに一歩、茂みへ近づいてくる。五メートル。
蓮は茂みの隙間からビームガンの銃口を滑り出させ、静かに引き金を絞った。
青白い閃光が、一瞬だけ密林の闇を切り裂いた。
短い痙攣の後、兵士は声を発することもなく、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
蓮が素早く身を乗り出し、倒れた兵士の首筋に二本の指を当てる。
ドクン、ドクンと規則正しい脈動があった。
「生命反応、正常です。スタンモードの有効時間は、約3時間となります。急ぎましょう、蓮」
兵士の指先からは、まだ煙草が落ちたばかりで、地面で小さく火種が燻っている。
蓮はそれを軍靴の底で静かに踏み消した。
「……悪いな」
小さく呟き、蓮は再び立ち上がって先を急いだ。
そこから先は、まさに敵陣の深奥だった。
A.I.D.A.の視界には、土嚢を積んだ機関銃陣地、行き交う輸送車両、野戦通信のアンテナ群、そして複雑に絡み合う巡回兵のルートが次々とマッピングされていく。
蓮は敵兵を見つければ回避し、回避出来ない時は隠れ、迂回し、どうしても避けられない場合のみ最小限の動きで無力化していった。
緊張の連続で、服は泥と汗で重く張り付いている。
しばらく進んでいると、ふと蓮の足が止まった。
木々の切れ間から見える一角だけ、異様な熱を帯びている。
車両の数が桁違いに多く、通信ケーブルが幾重にも引き込まれ、重武装の警備兵の奥には将校らしき人影が頻繁に出入りしていた。
「この場所は、指揮所あるいはそれに準ずる重要施設と推定します」
「マッカーサーはいそうか?」
「現時点では、対象を発見できていません」
蓮が息を潜めていると、A.I.D.A.が、周囲の飛び交う無線や会話の断片を拾い上げ、視界に文字として出力し始めた。
――沿岸部へのルートクリア。
――日本軍の動きに変化無し。
――将軍の車両を前に出せ。
蓮の表情が、微かに険を帯びる。
「……始まったのか?」
「やはり、本日中に脱出行動が開始される可能性が高いです。彼らの無線を傍受しました。今後の車両の移動経路を予測します」
躊躇している暇はない。
「分かった、A.I.D.A.。行くぞ!」
蓮は泥濘む地面を蹴り、走り出した。
音を立てず、敵の視界の死角を縫うように暗闇の中を疾走する。
だが、予測経路を先回りしようと開けた斜面に差し掛かったその時だった。
「蓮!前方、敵兵六名」
A.I.D.A.の声が響き、蓮は急ブレーキをかけて木の幹に背を預けた。
さらにアラートが視界を赤く染める。
「右方、敵兵四名。こちらに向かってきています」
「……挟まれた?」
前にも敵。右にも敵。後ろへ戻れば、先ほどやり過ごした別働隊に遭遇する。
懐中電灯の光が、交差するように木々の間を舐め回し始めていた。
完全に逃げ場を失った。
蓮の左手の親指が、無意識にプロテクションリングへ触れる。
――起動するか?
いや、駄目だ。
リングの稼働時間は二時間しかない。
ただ逃げるためだけにここで使えば、肝心の標的を確保し、離脱する瞬間に命綱を失うことになる。
「左前方、十五メートル。排水用の塹壕が確認出来ます」
A.I.D.A.の解析が、小さな窪みを指し示した。
それは長雨で崩れ、腐葉土と泥水に半分以上埋もれた浅い溝だった。
迷うことなく、蓮は泥水の中へうつ伏せに身を投じた。
冷たい泥が衣服に染み込み、腐りかけた植物の悪臭が鼻を突く。
張り出した鋭い根が頬を掠め、皮膚を引き裂くが、声すら上げずに泥の中を這い進む。
頭上のすぐ数メートル横を、重い軍靴の足音が通り過ぎていく。
英語の雑談が聞こえ、立ち止まり、やがてゆっくりと遠ざかっていった。
肺が焼き切れるかと思うほど息を止め、泥まみれになりながら、蓮は崩れた塹壕の先にある高台へと這い上がった。
泥を吐き出し、荒い息を整えながら眼下を見下ろす。
「蓮、よろしいですか」
「……どうした、A.I.D.A.」
「前方、複数の移動体を確認。通信内容と車列の規模から判断して……予定されていた脱出部隊で間違いありません」
蓮が遮蔽物の陰から目を凝らすと、遠く、海へと続く未舗装の道を、ヘッドライトの明かりを消して走る数台の車両が、列を成して移動していくのが見えた。
あれだ。
あの車列の中に、マッカーサーがいる。
距離はまだある。
だが、彼らが海岸へ着いてしまえば、そこから先は小型艇のリレーが待つ海の領域だ。
追いつかなければ、すべての戦略が水泡に帰す。
「追跡への最適ルートを案内開始します」
蓮は泥を払い落とすこともせず、ひび割れた息を整え、再びビームガンのグリップを強く握り直した。
「追うぞ、A.I.D.A.」
「了解しました」
蓮は深く息を吸い込み、そのまま夜の密林の中へ、疾風のように駆け出していった。
その先に待つのは、たった一人の男。
歴史のうねりの中心にいる、その男を捕らえるために。
ここまでお読みいただきありがとうございます! 少しでも『面白い、続きが気になる』と思っていただけましたら、下部の【ブックマーク】や【評価】(☆☆☆☆☆)で応援していただけると、執筆の凄すさまじい励みになります!




