エピソード50 ただ一人の男
「……そうだとすれば、問題は一つだな。いったい、誰を逃がそうとしているか、だ」
指揮所の薄暗い明かりの下、津村は二日間の小型艇の航跡が記された作戦地図から顔を上げず、低く呟いた。
机の上には、バターン半島の複雑な海岸線、日本軍の哨戒線、そして夜な夜な水面を縫うように動いた小型艇の奇妙な軌跡が、赤と青の鉛筆で何重にも描き込まれている。
津村は二日分の航跡を指先でなぞりながら、表情を厳しく引き締めた。
「兵をまとめて逃がすなら、こんな面倒で隠密な真似はしない。……部隊規模の撤退とは、明らかに動きが違う」
「はい」
蓮は地図を覗き込み、冷静に分析を補足した。
「少人数、小型艇による洋上での乗り換え、そして複数の経路。……部隊ではなく、『特定の誰か』を脱出させるための動きです」
津村がわずかに顔を上げ、蓮の目を直視した。
「では、誰だ?」
「……ダグラス・マッカーサー」
蓮が即答すると、津村は驚く様子もなく、ただ深く頷いた。
「……やはり、そうなるか」
津村自身、米比軍にとっての彼の重要性、現在の絶望的な包囲状況、そして極秘裏に行われている海上での艇のリレーを考えれば、答えは一つしか導き出せなかった。
「これだけの危険を冒して、少人数だけを外へ運ぶ価値がある人物など一人しかいない。……奴で間違いない」
津村は手元の資料をめくり、一日目と二日目の記録を並べた。
一日目は探るような不規則な動き、二日目はより手順化された連携。
相手側も日本軍の監視状況を確認しながら、脱出手順を綿密に調整しているのは明白だった。
「相手もこちらの目を警戒している。だが、昨日の航路から考えれば今日もわざわざ試す必要はあるまい」
津村はペンを置き、力強く言い切った。
「今夜決行だろう。となると今夜を逃せば、奴を捕まえるのは困難になる」
「奥野。私たちがあの夜、語り合った計画、忘れてはいないな」
津村の問いかけに、蓮は静かに首を縦に振った。
これまで日本軍が選んできたのは、バターンの密林へ無理に兵を送り込んで血を流す正面攻撃ではない。
陸路を遮断し、補給を断ち、海上を完全に封鎖し、航空監視による包囲線を維持することで、敵をじわじわと消耗させる戦略。
「一歩も出さず、一歩も入れない」ことだった。
この方針により、日本軍の無駄な死傷者は極限まで抑えられ、時間は日本側の味方となっていた。
さらに、バターン攻略に日本軍の主力――第48師団や戦車、重砲などを拘束せず、そのまま南方へ転用するための布石でもあり、実際に転用が始まっていた。
バターンを落とすことそのものが目的ではなく、戦力を温存しつつ敵を無力化することにあった。
しかし、津村はその戦略のなかに、たった一つだけ巨大なトゲが残っていることを知っていた。
「我々の目的はマッカーサーだ」
津村の言葉に、蓮が頷く。
彼がこの包囲網から脱出すれば、それは単なる一人の将官の逃走にとどまらない。
連合軍側の「戦争継続の象徴」となり、フィリピンを離れても指揮を継続し、英雄としてアメリカの戦意を支える最強の旗印になってしまう。
「逃がしてはならない」
津村の低い声に、強い意志が籠もる。
「だが、殺してしまえば、向こうは英雄を一人増やすだけだ。だが、生きて捕らえれば……逆に戦争を終わらせる材料になる」
バターンを封じ、主力を南へ回し、マッカーサーを逃がさず、生きたまま捕らえる。
それが戦争を長引かせず、日米の早期講和への道を開くための唯一にして最大の鍵であること―
―それは、二人の間で完全に共有された認識だった。
だが、問題はその「捕らえ方」にあった。
「海で捕まえるか?」
津村が自問するように呟く。
『蓮華』で脱出艇を追跡し、位置を把握して日本軍艦艇を誘導・包囲する。
理屈では可能だが、夜間の海上で小型艇のどれにマッカーサーが乗っているかを特定することは極めて困難だ。
特定が出来ても、警告が通じずに銃撃戦となれば、艇の転覆や火災、そして何よりマッカーサー自身が死亡するリスクが高すぎる。
「小型艇を沈めることは出来ますが、生け捕りとなるとかなり難しい可能性がありますね。でもそうなると海へ出る前に地上で捕える必要が出てきます」
蓮が別の選択肢を口にするが、津村は苦々しく顔を曇らせた。
「地上……か……。確かにそれが出来れば1番確かではあるが……。 我が軍には、敵陣深くへ少人数で潜入し、一人の重要人物だけを狙って連れ帰るための専門部隊などない」
津村は苦々しい表情のまま続ける。
「大部隊を送り込めばすぐに見つかるし、小部隊では敵の厳重な警備や広大な地形を突破して目的の人物に辿り着く保証すらない。戦闘になれば、生け捕りという目的そのものが崩壊する」
海からでは殺してしまうかもしれない。地上からでは、そもそも辿り着けない。
指揮所の中に、重苦しい沈黙が落ちた。
津村が悔しげに歯を噛み締める。
その時、静かに俯いていた蓮の視界の端に、微かな光が走った。
周囲の人間には何の見えもしない、AIグラスの投影文字、A.I.D.A.が静かに蓮に伝える。
「蓮。作戦遂行方法について、代替案を提示します」
表情を微動だにさせず、蓮は思考のチャンネルを内側へ切り替える。
「うん?A.I.D.A.、どんな案があるって言うんだ」
「我々の目的達成の為には、蓮が単身潜入することが最もマッカーサーの身柄を生存したまま拘束出来る可能性があります」
「ッ!……本気か、A.I.D.A.!?」
「本気です。貴方が潜入する形が最も成功する可能性が高いです」
「俺は、水陸機動団の経験なんてないぞっ!それは流石に無茶だろ」
「貴方には私がついてます。そして、この時代、そして夜中での活動であれば、1人程度の確保なら、成功の可能性は高いです」
A.I.D.A.の声が、AIグラスを通して蓮にだけ聞こえた。
通常の兵士にとって夜間潜入が困難なのは、暗闇によって視界が極端に制限される。
しかし、蓮にはオプティカル A.I.D.A.がある。
暗視、サーモグラフィー、光学ズーム、画像解析、そして音響解析をリアルタイムで統合する機能が搭載されている。
「視覚情報だけに依存する必要はありません。熱源と音響データを重ねることで、敵兵の位置や移動、車両の存在、見張りの配置を高精度で推定できます」
「だが、マッカーサー本人がどこにいるかは分からないじゃないか」
「はい。現時点で対象人物の場所特定は出来ておりません。しかし、現地潜入による情報収集と分析を行えば、発見の確率が飛躍的に向上します」
さらに、A.I.D.A.は装備の制約についても言及した。
「本任務は、対象の生存状態での拘束を目的としています。ですのでビームガンをスタンモードで使用するのであれば、作戦目的と矛盾しません。また、スタンモードであれば武器使用許可を出すことが出来ます」
「そして、蓮の生存に関してですが、プロテクションリングが使用可能です。最大稼働時間は二時間ですが、敵に見つかった際の使用開始とすれば充分な時間となります」
「てことは、作戦時間は2時間を超えるって事か?」
「はい、ですが潜入時に発見されるリスクはそれらを組み合わせればかなり低いと想定されます」
作戦開始時からの常時使用は推奨されない。
潜入から脱出までの全行程で二時間を超える可能性が高いため、原則は未使用とし、発見された場合の回避や、生命に重大な危険が発生した場合のみ起動する「最後の保険」とするという意味であった。
蓮はすべての話を聞いた上で、考え込む。
(果たして本当に俺が出来るんだろうか。確かに過去、特殊訓練を受けたことは多少ある。でも本職ではない自分に、こんな重要な作戦を完遂出来るのだろうか)
そんな事を頭の中でグルグルと考え、そして結論が出た。
目の前で険しい顔をしている津村を真っ直ぐに見据える。
「津村さん……、私が行きます」
津村の目が大きく見開かれた。
「ま…待て。お前にそんな危険な場所に行かせられん!」
「心配ありがとうございます。でもこれが最善です」
「そもそもお前は兵士じゃない。それに敵陣のど真ん中だぞ。捕まればお終いだ」
「……それでも、今夜を逃すわけにはいかない」
蓮の覚悟の重さに、津村は息を呑んだ。
そして、以前に蓮から聞いた「香港の情報網」の存在を思い出す。
(こいつの言っている情報網とやらで、現地の微細な情報を集めることで、マッカーサーの移動経路や警備状況を絞り込むつもりか?)
――津村にはそれが違和感を感じながらも何故か正確な情報源だと考えていた。
(まただ……こいつは、本当は一体どんな素性なんだ。想像がつかん)
内心の疑念を抑え込み、津村は低い声で言った。
「……分かった。お前の覚悟は受け取ろう。しかし、どのようにして確保するつもりなんだ?」
「津村さん、今までと同じです。どのようにして確保するかは大切じゃありません。確保出来るかどうか、です」
「お前という奴は……分かった。もう聞かん。お前に任せる。だが一点だけ教えろ。なぜ、そこまでして行く?」
蓮は静かにそして澄んだ目で津村に答えた。
「私は戦争が嫌いなんです。なので早く戦争を終わらせたい。そして仲間たちと日々、笑って過ごしたいのです」
その言葉を聞いた津村は、私欲でも、手柄のためでもない。ただ平和を望んで、そしてその夢を叶える為に早期講和への道を開くという、ただ、それだけの為に動く蓮を見て心の中で尊敬していた。
そして津村は深く息を吐き出し、条件を突きつけた。
「条件は一つだ。マッカーサーを生きたまま捕らえろ。だが――自分の命まで捨てるなよ」
「……分かっています」
蓮の視界に、静かにA.I.D.A.が伝える。
「蓮。貴方という人は……。私は貴方のサポートAIとして誇りに思います」
津村は作戦図をゆっくりと畳んだ。
「失敗すれば、お前は敵陣のど真ん中だ。戻れなくなるかもしれん」
「……それでも行きます」
しばらく蓮を見据えていた津村だったが、やがて観念したように息を吐き、立ち上がった。
「必ず生きて帰ってこい。お前と俺はこんな事で止まるわけにはいかない。この戦争を終わらせる為にな」
夜10時を回った頃。
夜のとばりに包まれたスービック湾。
水上機発着場の脇で、藤原が待機する『蓮華』初号機の最終点検を行っていた。
そこに歩み寄る蓮の姿に気づき、藤原は駆け寄る。
「奥野さん、陸軍よりの要請を拝領しました。ですが、本気ですか?」
「藤原大尉、貴方にも迷惑を掛けます。ですが、何かあれば先に離脱して良いので、よろしくお願いします」
そして機体に乗り込むと、武装を確認する。
「蓮。ここからは正確に私の指示に従って行動して下さい。貴方を必ず完璧にサポートし、生還させます」
「A.I.D.A.、たまには嬉しい事言ってくれるんだな。頼むぞ」
「奥野さん、それでは出発します」
『蓮華』のエンジンが重低音を響かせて唸りを上げ、水面を滑るように加速していく。
水飛沫を切り裂き、機体は重力を置き去りにするかのように漆黒の夜空へ舞い上がった。
「分析を開始します。蓮」
「ああ。よろしく頼む」
『蓮華』の影が闇のなかへ溶け込んでいく。
そして蓮は静かに前を見据えた。
これから向かうのは、敵陣の深奥。
そこに待つのは、たった一人の男だった。
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