エピソード49 バターンの企て
「――お前をここへ呼んだ理由はな」
津村は、指揮所の薄暗い明かりの下、じっと蓮の顔を見据えた。
「お前の妙に鋭いその知恵を、是非貸して貰いたいと思って呼んだのだ」
周囲には、山積みにされた戦況報告書や、夜通し引き直された赤や青の鉛筆の線が交錯する作戦図が広がっている。
蓮は丸椅子に腰を下ろしながら静かに頷いた。
「津村さん、勿論です。私には貴方に協力する義務がありますから。そして蓮華だけでなく、わざわざ私をフィリピンまで呼び寄せた理由も教えて頂けますか」
津村はニヤッと笑い、そして目の前の地図を軽く指し示した。
「現在、我が軍はバターン半島を完全に包囲した。陸路からの補給路はすべて断ち、米比軍は深刻な物資不足に陥っている。……普通に考えれば、連中はもはや身動きが取れないはずだ」
「はず……ということは、そうではないのですね」
「ああ。海側だ。我々も海岸線の監視を厳重にしているが、夜陰に乗じて小型艇が侵入してくる。これまでに何隻も撃沈したがね……奇妙なことに、最近になってその動きがかえって増えているのだ」
津村の目が鋭く光る。
「普通、これだけ沈められれば警戒して引っ込むものだ。だが奴らは、危険を承知で何度も夜の海を渡ろうとしている」
「確かに。単なる夜間補給にしては、頻度が多すぎますね」
蓮の言葉に、津村は深く頷いた。
「その通りだ。過去の報告を洗うと、徐々にだが侵入する時間帯や艇の動きは、以前よりかなり不規則になってきているようだ。当初は物資を積んでいる気配があったのだが、最近はどうも積載量を減らしているようだ。何かを大量に運んでいるのではなく、別の目的があるように見える」
津村は手元のペンを置き、まっすぐに蓮を見据えた。
「俺が欲しいのは、奴らを片端から沈める爆撃機じゃない。……連中が夜の海で何をしているのか、その尻尾を掴む『目』だ。お前の持ってきた『蓮華』のレーダーと高速性能なら、夜間の海でも見失わずに追跡できると踏んだ」
「……なるほど。だから、急遽、蓮華を霞ヶ浦から回送させたのですね」
「そうだ。現在の偵察機では状況把握どころか発見さえもままならん。そして何をしているかの分析ができる奴が欲しいのだ」
「なるほど。私を呼んだ理由は、機体の運用補佐ではなく、情報収集と分析なのですね」
「そうだ」
津村はわずかに笑みを浮かべた。
「お前は、いつも周囲の人間が気づかないような情報や、奇妙なタイミングで先手を打つ。その『妙な情報網』がどこから来るのか詮索はしないが……お前のその判断力を、この前線でも借りたい」
蓮は内心で胸を撫で下ろしつつ、表情を崩さずに受け流した。
「津村は……かなり鋭い人物ですね、蓮。彼の前では、今まで以上に慎重な行動が必要と判断いたします」
A.I.D.A.の存在は隠したまま、目の前の戦局へと意識を切り替える。
「わかりました。今夜、さっそく『蓮華』初号機で夜間捜索に出てみましょう」
その夜。
暗闇に包まれたスービック湾の水上機発着場。
エンジン音を極限まで抑えた『蓮華』初号機が、滑るように闇の海面を滑走し、重力を無視するかのように夜空へと溶け込んだ。
操縦席の藤原が、計器盤の隣にうっすらと光るレーダー画面を横目で見ながら、緊張に満ちた声を上げる。
「……奥野さん、本当にこんな真ッ暗な夜の海で、小さな小型艇なんか見つかるんですか?」
「このレーダーは、艦艇がいれば反応を拾うので安心して下さい」
蓮は後席の観測員席から機材のスイッチを入れ、静かに海面を見下ろした。
しばらく海上を周回したその時、レーダーの緑色の円盤上に、ごく微小な点滅反応が浮かび上がった。
「――二時方向。距離十五キロ、微速で移動中」
「了解!」
藤原が操縦桿を静かに倒し、『蓮華』は標的へと寄っていく。
肉眼ではただの黒い海原にしか見えないが、赤外線・夜間観測装置を通した画面には、波を切り裂いて進む一隻の小型艇の姿がはっきりと捉えられていた。
攻撃はしない。
目的はあくまで「偵察」だ。
距離を一定に保ったまま追跡を続けると、小型艇は海岸へ直行するどころか、沖合の暗がりでエンジンを落としてピタリと停止した。
やがて、別の方角からももう一隻の小型艇が静かに接近し、最初の艇と横付けする形で並走を始めた。
――何をしている?
蓮は観測装置の倍率を上げ、二隻の間で行われている動きを凝視する。
暗闇と波飛沫に阻まれて細部は見えないが、人の影のようなものが乗り移るような、慌ただしいやり取りの気配があった。
しばらくすると、二隻は離れ離れになり、一隻は再び海岸の方へ、もう一隻は沖合へと去っていく。
「……変だな」
藤原が呟く。
その夜は、確証を得られないまま帰投の時間を迎えた。
基地に戻った蓮は、直ちに津村のもとへ赴き、観測した航路と奇妙な接触行動を報告した。
津村は報告書に目を通しながら、腕を組んで唸る。
「一隻だけでは、単なる洋上の連絡や小規模な工作と区別がつかん……だが、見逃すわけにはいかないな」
「はい。今夜、もう一度同じ海域を張ってみます」
そして翌夜。
再び夜空へ舞い上がった『蓮華』は、前夜とほぼ同じ海域で、再び似たような動きをする小型艇の群れを捉えた。
沖合での停止、別方向からの少し大型の艇との接触、そして何やら話し込んだと思うと人が入れ替わる慌ただしい引き継ぎ――。
観測席で、蓮の背筋に冷たいものが走った。
偶然ではない。これは明確な「手順」だ。
基地へ戻り、蓮は集めた二日分の航跡データを大型の作戦地図に描き込んだ。
津村と二人、明かりの漏れないテントの中で地図を覗き込む。
「津村さん。昨夜だけなら偶然だと思いました。ですが、今夜もまったく同じ動きをしています」
「……どういうことだ。物資の搬入なら、わざわざ沖合で別の艇に荷物を渡す必要はない。海岸へ直につければいいはずだ」
津村の眉間が深く寄る。蓮は地図上の航跡の線を指でたどり、静かに首を横に振った。
「違います。これは、海からバターンへ物資を運ぶ動きじゃない……逆です」
「逆だと……?」
「バターン側の海岸から小型艇で人を乗せ、沖合で待機していた別の艇へ引き渡し、そのまま海の外へ逃がす航路をとっています」
津村の呼吸が、わずかに止まった。
「……人員の移動だと? この包囲網の中から、わざわざ海へ出すために?」
「はい。それも、ただの兵士ではないはずです。通常の撤退なら部隊単位で動くべきです。ですが、この小回りの利く小型艇によるリレー方式なら――極秘裏に、しかもごく少数の『特定の誰か』だけを、包囲網の外へ運び出せる」
津村の目が大きく見開かれた。
頭の中で、バターン半島を巡る戦略のすべてが、ひとつの点へと収束していく。
静まり返った指揮所の中で、津村は低い声で呟いた。
「……逃げる準備だな」
「ええ」
「誰か重要な人間を、この包囲網の外へ、海から脱出させるための……」
津村の表情から余裕の色が完全に消え去り、代わりに歴戦の将としての鋭い闘志が宿った。
彼は地図から目を上げ、じっと蓮を見据えた。
「……そうだとすれば、問題は一つだな。いったい、誰を逃がそうとしているか、だ」
蓮は答えず、ただ目の前で冷たく光る西側海岸の地図を凝視した。
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