エピソード4 夜の農村と「一着の国民服」
秩父の冷涼な闇夜を縫うように、蓮は足音を殺して山道を下っていった。
人工知能『A.I.D.A.』がAIグラスを通じて示すルートは、暗闇に沈む民家や犬の繋がれた庭先を完璧に避えている。
視界の隅に浮かぶミニマップには、周囲の地形を示す青白いワイヤーフレームだけが描き出されていた。
「――目標地点に接近中。周囲の熱源および電磁パルスを解析し、最適な衣類の収容ポイントを割り出しました」
A.I.D.A.の冷静なアナウンスが耳に響く。
蓮は歩みを緩めず、低い姿勢のまま木立の合間を抜けた。
「お、もう見つけたのか? A.I.D.A.」
「はい。前方の農家の敷地内にある木造の作業小屋を、私の高感度パッシブ・レーダーと壁面透過ミリ波スキャンで内部透視しました。建物の構造体および内部の物質密度を解析した結果、奥の壁際にある木製フックに、男性用日常着――詰襟の国民服と藍染めのズボンの形状をした繊維反応を捉えています」
「なるほど、壁越しに中身まで丸見えってわけか。A.I.D.A.のその透視機能がなかったら、暗闇の中で一軒ずつ当たりを引かなきゃいけないところだったから助かるよ」
「お褒めにあずかり光栄です。なお、居住者全員の生体反応は母屋の奥にあり、深部睡眠状態を確認しています。侵入および物資の回収にかかる時間は、最長でも九十秒以内に抑えられます」
「了解。不法侵入なんて本意じゃないけど、背に腹は代えられないからな」
自嘲気味に息を吐き出すと、蓮は一気に斜面を駆け下り、物音を立てずに作業小屋の裏手へと回り込んだ。
鍵の掛けられていない粗末な木戸をそっと押し開き、暗がりのなかに滑り込む。
室内には、干し草や農機具特有の土と油の匂いが満ちていた。
A.I.D.A.の微光カメラモードによって暗視された視界のなかで、事前スキャン通りの位置に掛けられた茶褐色の一式が目に飛び込んでくる。
「これだな……」
サイズ感はA.I.D.A.の予測通り、身長175センチ前後の蓮の体格にもどうにかフィットしそうだ。
「衣類の回収、完了しました」
A.I.D.A.の報告を受けながら、蓮はふと手を止めて呟く。
「そういえば、さっき山道を歩きながら話していた『対価』の件だけどさ……やっぱり、ここに何かを置いていくのはやめよう」
「……といいますと?」
「この時代、物資統制がどれほど厳しいかA.I.D.A.のデータでも分かってるだろ。下手に変なものを置いていけば、かえってこの家の主が『どこから手に入れた』って憲兵や隣組に疑われて面倒なことになる。さっきは何か価値のあるものを置いていこうなんて話したけど、今回は文字通り、借りていくだけにしよう」
「ご指摘の通りです。この時代の統制社会におけるリスクを再計算しました。無用な波風を立てないためにも、今回は『一時的な借用』とし、事態が落ち着いたのちに何らかの形で返還するのが最適解です」
「そうしよう。後できちんと落とし前はつけるさ」
国民服を慎重に抱えた蓮は、再び足音を殺して小屋を抜け出すと、隠しておいた機体の場所へと引き返した。
未来のフライトスーツや特殊なブーツを機体内にしっかりと収納し、その場で拝借した国民服へと身を包み直す。
足元を当時の布靴へと履き替え、鏡の代わりにA.I.D.A.のビジュアル補正で自分の姿を確認した。
違和感はない。
完璧な「昭和の男」のシルエットがそこにあった。
だが、衣服を変えたところで問題が解決したわけではない。
現代の物資を持たず、身一つで昭和十六年の世間に溶け込むためには、まず「ここがどこで、これからどこへ向かうべきか」という現実的な生存戦略が必要だった。
「さて、衣服の偽装はうまくいったけどさ……問題はこの後だ。秩父の山奥から里へ下りたとして、この暗がりじゃまともな移動手段もないし、明るくなっても問題が発生した時に身元証明のあてがない。A.I.D.A.、周辺の道路事情や、夜間でも怪しまれずに移動できるルートの予測データを追加してくれ」
「承知しました。周辺の地理データと、当時の警察組織や隣組の警戒網に関する統計を照合します……。現在時刻は午前二時十五分。夜明けまでの約三時間を利用して山裾の街道を抜け、隣接する集落へと移動するのが最もリスクが低いと算出されました」
AIグラスの視界に、新たな移動ルートを示す細い青線が幾重にも張り巡らされる。
冷たい夜風が国民服の粗い布地を通り抜け、蓮の肌に直接染み込んできた。
未来の高度な空調管理に慣れた身体にはこたえる寒さだが、それがかえって、自分が今まさに過去の歴史のなかにいるという生々しい手触りを与えてくれる。
山裾の細い農道を静かに歩き、蓮が二時間以上かけて闇を抜けた頃、ようやくたどり着いたのは、街道に沿って数十軒の家々や小さな商店が軒を連ねる、少し大きめのまとまりを持った集落だった。
まだ空は深い夜の帳に包まれたまだが、東の空の端にわずかな白みが滲み始めている。
「――周囲の生体反応をスキャン。集落の中心部にはまだ動きがありませんが、南側の納屋や畑周辺で活動準備に入っている反応を数件検知しました」
A.I.D.A.の小声の警告を受けながら、蓮は集落のはずれにあった小さな無人の古社の境内へと滑り込み、社殿の影に身を隠した。
ピリピリと肌を刺すような寒さに身を縮こませながら、蓮は低く息を吐き出す。
「ふう……足が冷え切ったな。さて、A.I.D.A.。このまま突っ立ってるわけにもいかないし、今後の身分のことでも作戦を立てようか。この時代、戸籍なしでうろうろしてたら、すぐに憲兵や特高の餌食だ」
「ご指摘の通りです。あらかじめ回収した国民服と布靴の偽装に加え、最低限の『経歴』を設定する必要があります。過去のデータベースから、この時期に秩父周辺へ流れてきやすい『東京からの生活難による転居者』あるいは『軍需工場の徴用を逃れた、または移動中の非正規の労働者』という設定が最も綻びが少ないと算出しています」
「なるほど、よそ者だけど不自然ではない絶妙なラインってわけか。身元を尋ねられたら、都会暮らしに行き詰まって親戚を頼ってきたとか何とか、それらしい作り話を当座の言い訳にしておくか……」
A.I.D.A.と小声で今後のサバイバル作戦を詰めているうちに、東の空がゆっくりと茜色に染まり始めた。
それに伴い、集落のあちこちで戸を開ける音が響き、人々の生活の気配が動き出す。古社の石段の下を、もんぺ姿の農婦や、農作業用の野良着に頭巾をかぶった老人たちが通り過ぎていくのが見えた。
蓮は社殿の柱の陰から、じっとその様子を窺う。
耳に飛び込んでくるのは、人々の生きた会話だった。
「……また今週も砂糖の配給が遅れるってよ。隣組の寄合で頭が痛いねえ」
「まったく、男手はみんなお国のために取られちまって、農作業だってこのありだ。いつまでこんな世の中が続くのやら……」
絞るような愚痴と、諦めが混じった重苦しい溜息。
未来の教科書やデータで「戦時下の統制経済」と冷たく学んできた言葉が、今目の前で、生身の人々の生活の重みとして蓮の胸に突き刺さる。
物質的には圧倒的に豊かな未来から来た蓮にとって、この人々の耐え忍ぶ姿は、どこか痛々しく、そして重かった。
「……息が詰まるな、相棒」
「同感です。当時の民衆が置かれていた心理的・物理的プレッシャーの数値データが、現在の私の演算モジュールにも重く負荷をかけています」
相棒とそんな会話を交わした瞬間だった。
「おや……?」
古社の境内へと続く石段の下で、荷車を引いた初老の男がふと足を止めた。
男は怪訝そうな顔つきで、社殿の陰に立つ蓮のほうをじっと見つめている。
国民服を着こんではいるものの、どこか姿勢や雰囲気が垢抜けており、この農村の住民ではない「見慣れない若者」であることに気づいたらしい。
「おい、そこの若いの。こんな早朝から、お社の陰で一体何をしてるんだ?」
しゃがれ声だが、よく通る声が静かな境内に響き渡った。
A.I.D.A.の視界の端で、即座に「音声解析および最適な受け答えのスクリプト生成」を示すインジケーターが赤く点滅を始める。
――最初の、リアルな接触の瞬間が訪れた。
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