エピソード4 夜の農村と「一着の国民服」
秩父の冷涼な闇夜を縫うように、蓮は足音を殺して山道を下っていった。
人工知能『A.I.D.A.』がAIグラスを通じて示すルートは、暗闇に沈む民家や犬の繋がれた庭先を避けるように伸びている。
視界の隅に浮かぶミニマップには、周囲の地形を示す青白いワイヤーフレームだけが描き出されていた。
「――目標地点に接近中。周囲の熱源および電磁パルスを解析し、衣類を保管している可能性の高い場所を特定しました」
A.I.D.A.の冷静なアナウンスが耳に響く。
蓮は歩みを緩めず、低い姿勢のまま木立の合間を抜けた。
「お、もう見つけたのか? A.I.D.A.」
「はい。前方の農家の敷地内にある木造の作業小屋です。高感度パッシブ・レーダーと壁面透過スキャンによる解析の結果、衣類と思われる繊維反応を確認しました。形状から判断すると、男性用の日常着です。詰襟の国民服と、藍染めのズボンである可能性が高いでしょう」
「A.I.D.A.。お前、壁越しに中身まで見れるのかよ」
「蓮、その認識は誤解です。現状はシステムロックαが解除されているので壁面透過スキャンが使用可能となります。ですので通常時に、この機能は利用できません。犯罪に悪用されかねないですからね」
A.I.D.A.はAIでありながらも少し苛ついた声色で話を続けた。
「さて本題ですが、周辺の建物も確認しましたが、現在地から最も短時間で接近でき、人目につく可能性が低いのが、その作業小屋です」
「A.I.D.A.。変にうたぐって悪かったよ。で、その壁面透過機能がなかったら、暗闇の中で一軒ずつ探す羽目になってたな、助かる」
「蓮。私はAIです。怒るという感情は持ち合わせていませんよ」
淡々と返すA.I.D.A.に、蓮は苦笑した。
「……わかった。まあ、頼りにしてるよ」
やがて木立の向こうに、一軒の農家が見えてきた。
母屋には明かりがない。
敷地の端には、古びた木造の作業小屋が建っている。
「あの場所に人はいるのか?」
「母屋に四名います。ですが全員、睡眠状態です。作業小屋には人の反応はありません」
「分かった、行くぞ!」
蓮は足を止めた。
暗闇の中で、作業小屋を見つめる。
ここまで来れば、やることは分かっている。
問題は、その先だった。
「……本当に、これしか方法ないんだよな?」
「現時点では、他の選択肢より発見される可能性が低く、そして確実性が最も高いです。蓮」
「分かってるけど、結局、誰かの服を勝手に持っていくってことだろ」
「その通りです。しかし繊維反応を分析した結果、今回対象の衣類は非常にくたびれており、廃棄前の保管をしている状態と予測します」
蓮はしばらく黙っていた。
「……それでもやっぱり気が進まないな」
「蓮。その認識を持っていることは非常に重要です。但し、現在は残念ながら生存を優先すべきだと助言します」
「そうだな、この服のまま町に出るわけにもいかない。だったら……今はこれしかないか」
蓮は小さく息を吐き、作業小屋へ向かった。
斜面を一気に駆け下り、物音を立てずに裏手へと回り込む。
鍵の掛けられていない粗末な木戸をそっと押し開き、暗がりの中へ滑り込んだ。
室内には、干し草や農機具特有の土と油の匂いが満ちていた。
オプティカルアイダの暗視モードによって、暗がりの中でも視界がはっきりとしている。
そしてスキャン通りの位置にしわくちゃに放り投げられている茶褐色の衣類が目に飛び込んでくる。
「これだな……」
蓮は、国民服、藍染めのズボン、布靴を手に取る。
サイズは、A.I.D.A.の予測通り、身長一七五センチ前後の蓮にもどうにか合いそうだった。
「衣類の回収、完了しました。早期に離脱しましょう、蓮」
A.I.D.A.の報告を聞きながら、蓮は衣類を抱えたまま動かなかった。
「……なあ、A.I.D.A.」
「どうしました?蓮」
「これは生存の為に仕方なく、であってるよな」
「そうです。もちろん法的な観点では、所有者の許可なく持ち出しているため、正当な行為とは言えません」
「だよな……」
蓮は国民服を見つめた。
生きるためとはいえ、見ず知らずの人間の家から服を持っていく。
知らない時代にタイムスリップして、そして盗みまで働かないといけない状況に蓮はげんなりとした気分になる。
「この時代で生きていくなら、誰かのものを奪って当たり前、なんてことにはしたくないんだけどな」
「蓮。その考えは当然であり、今後の行動にも、その判断基準は入れるべきです」
「ああ……そうだな」
そして蓮はしばらく考えたあと、静かに息を吐いた。
「今回は、どうしても必要だから借りる。でも、ただ盗ったままにするつもりはない」
「具体的にはどうするのですか?」
「この時代で生活できるようになったら、必ずちゃんと返しにくる。それだけじゃない。俺がこの時代で手に入れられるものの中から、この家の人にとって役に立つものを探して、できる限りのお礼をする。勝手ではあるが『一時的な借用』としよう」
蓮は苦笑した。
「……未来の人間が、昭和の人間に借りを作ったままっていうのも、なんか嫌だろ?」
「合理的な判断とは言えませんが、蓮らしい判断だと思います」
「なんだよ、それ」
「一応、あなたの人間性を褒めていますよ」
「そういう言い方されると、余計に褒められた気がしないな」
蓮は小さく笑った。
そして、もう一度国民服を見つめる。
「……覚えておくよ。この家には、借りができた」
蓮は衣類を抱え直した。
そして、足音を殺して作業小屋を抜け出した。
山道を戻り、隠しておいた機体へと引き返す。
洞窟へ戻ると、未来のフライトスーツや特殊なブーツを機体内へしっかりと収納した。
そして、その場で持ち出した国民服へと着替える。
足元も当時の布靴へ履き替えた。
「どうだ?A.I.D.A.。違和感なさそうか」
「外見上の違和感は大幅に低減されています。髪型、姿勢、衣類の状態を総合すると、この地域の一般男性として認識される可能性は高いでしょう」
鏡の代わりにA.I.D.A.が生成した簡易的なビジュアル表示を確認する。
昭和十六年の農村にいても、それほど目立たない格好になっている。
「……これなら、なんとかなるか」
「外見については、問題ありません」
蓮は頷いた。
だが、衣服を変えたところで問題が解決したわけではない。
現代の物資を持たず、身一つで昭和十六年の世間に溶け込むためには、まず「ここがどこで、これからどこへ向かうべきか」という現実的な生存戦略が必要だった。
「さて、衣服の偽装はうまくいったけどさ……問題はこの後だ。秩父の山奥から里へ下りたとして、この暗がりじゃまともな移動手段もない。明るくなれば、人の目も増える。しかも、問題が起きた時に身元を証明するものが何もない」
蓮は周囲を見渡した。
「A.I.D.A.、周辺の道路事情や、夜間でも怪しまれずに移動できるルートを追加してくれ」
「承知しました。周辺の地理情報と、当時の警察組織、隣組などによる地域の監視体制を照合します」
しばらくして、AIグラスの視界に新たな情報が浮かんだ。
「現在時刻は午前二時十五分。夜明けまで、およそ三時間です。山裾の街道を直接進むより、農道を経由して隣接する集落へ移動するほうが、人目につく可能性は低いと判断します」
「じゃあ、それで行こう」
蓮は洞窟を出た。
AIグラスの視界に、細い青線が伸びていく。
冷たい夜風が国民服の粗い布地を通り抜け、蓮の肌に直接染み込んできた。
未来の高度な空調管理に慣れた身体にはこたえる寒さだった。
それでも蓮は歩き続けた。
むしろ、この寒さが現実を教えてくれている気がした。
自分は今、二〇五〇年にはいない。
本当に、過去にいる。
その感覚だけは、どれだけA.I.D.A.のデータを見ても分からないものだった。
山裾の細い農道を静かに歩き続ける。
一時間。
二時間。
やがて、蓮が二時間以上かけて闇を抜けた頃、ようやく街道沿いに数十軒の家々や小さな商店が軒を連ねる、少し大きめの集落へとたどり着いた。
空はまだ深い夜の帳に包まれていたが、東の空の端には、わずかな白みが滲み始めている。
「周囲の生体反応をスキャン。集落の中心部には、まだ大きな動きはありません。ただし、南側の納屋や畑周辺で活動準備に入っている反応を数件検知しました」
「もう起き始めてるのか」
「農作業に備えて活動を開始する時間帯に入ったものと推測されます」
蓮は集落を見渡した。
人が動き始めれば、当然、自分も見られる。
その前に、身を落ち着けられる場所が必要だった。
集落のはずれに、小さな古社がある。
蓮はその境内へ入り、社殿の影に身を隠した。
ピリピリと肌を刺すような寒さに身を縮こませながら、低く息を吐き出す。
「ふう……足が冷え切ったな」
しばらく呼吸を整えたあと、蓮はAIグラスに視線を向けた。
「さて、A.I.D.A.。このまま突っ立ってるわけにもいかない。今後の身分について、もう一度作戦を立てよう」
「承知しました」
「この時代、戸籍なしでうろうろしてたら、すぐに問題になるだろ。警察だけじゃなく、地域の人間にも怪しまれる」
「ご指摘の通りです。先ほど回収した国民服と布靴による外見上の偽装に加え、最低限の経歴を設定しておく必要があります」
蓮は頷いた。
「どんな設定がいい?」
「過去の社会状況と秩父周辺の人口移動を照合すると、東京などの都市部から生活事情によって地方へ移動してきた人間、あるいは親類を頼って仕事を探している労働者という設定が比較的自然です」
「なるほど。よそ者ではあるけど、最初からこの辺の人間だと言い張るよりは、そのほうが自然か」
「はい。ただし、具体的な親族関係や以前の勤務先まで尋ねられた場合には、設定を維持するための追加情報が必要になります」
「そこまで聞かれると厄介だな……」
蓮は苦笑した。
「まあ、身元を尋ねられたら、都会暮らしに行き詰まって親戚を頼ってきた、とでも言うしかないか。それ以上は、聞かれたことに合わせて考える」
「それが現時点では最も現実的でしょう」
A.I.D.A.と小声で今後のサバイバル作戦を詰めているうちに、東の空がゆっくりと明るくなっていった。
それに伴い、集落のあちこちで戸を開ける音が響き、人々の生活の気配が動き出す。
古社の石段の下を、もんぺ姿の農婦や、農作業用の野良着に頭巾をかぶった老人たちが通り過ぎていく。
蓮は社殿の柱の陰から、じっとその様子を窺った。
耳に飛び込んでくるのは、人々の生きた会話だった。
「……また今週も砂糖の配給が遅れるってよ。隣組の寄合で頭が痛いねえ」
「まったく、男手はみんなお国のために取られちまって、農作業だってこのありさまだ。いつまでこんな世の中が続くのやら……」
絞るような愚痴と、諦めが混じった重苦しい溜息。
未来の教科書やデータで「戦時下の統制経済」と冷たく学んできた言葉が、今、目の前で生身の人々の生活として存在している。
物質的には圧倒的に豊かな未来から来た蓮にとって、この人々の耐え忍ぶ姿は、どこか痛々しく、そして重かった。
「……息が詰まるな、相棒」
「この時代の生活環境について、事前に得ていた情報との乖離はありません。ただ、実際に目にすることで受ける心理的な影響は、数値化されたデータとは異なるものだと思われます」
「……そうだな」
蓮は小さく頷いた。
その瞬間だった。
「おや……?」
古社の境内へと続く石段の下で、荷車を引いた初老の男がふと足を止めた。
男は怪訝そうな顔つきで、社殿の陰に立つ蓮のほうをじっと見つめている。
国民服を着てはいるものの、どこか姿勢や雰囲気が垢抜けている。
この集落の住民ではない。
そんな印象を与えてしまったのだろう。
「おい、そこの若いの。こんな早朝から、お社の陰で一体何をしてるんだ?」
しゃがれ声だが、よく通る声が静かな境内に響き渡った。
蓮の身体が、わずかに固まる。
AIグラスの視界の端で、A.I.D.A.が周囲の状況を解析していく。
相手との距離や、声の調子。そして周囲にいる人間の数。
蓮は息を整えた。
ここでA.I.D.A.がどれだけ情報を集めても、最後に口を開くのは自分だ。
二〇五〇年の航空自衛隊パイロットとしてではない。
戸籍も、身分も、過去も持たない一人の男として。
蓮は、初めて昭和の人間と向き合った。
――これが、過去で生きるための最初の一歩だった。
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