エピソード3 昭和への上陸
機体は千島列島を離れ、日本海側へ進路を取っていた。
夜の海は暗く、雲の切れ間から見える海面には、月明かりがわずかに反射している。
蓮は操縦席から前方を見つめたまま、表示される航法情報へ目を向けた。
「A.I.D.A.、あとどれくらいだ?」
「現在の飛行速度で、およそ二十分です。目的地は秩父山系。人口密集地域から距離があり、機体を隠す場所も確保しやすいと判断しました」
「秩父か……」
蓮は小さく呟いた。
昭和十六年。
そこに、自分が身元を証明できるものは何ひとつない。
戸籍もない。身分証もない。金もない。
それどころか、蓮が生きていた二〇五〇年という時代そのものが、この世界には存在していない。
「なあ、A.I.D.A.。俺が町に入るとしたら……どうやって身元を作る?」
「現時点で、正式な身元を作成することは困難です」
「やっぱりそうか」
「一九四一年の日本では、現在のような個人番号制度は存在しません。しかし、戸籍、勤務先、居住地、近隣住民との関係など、複数の情報によって個人の存在が確認されます」
蓮は黙って聞いていた。
「特に都市部では、人の出入りや職業、居住状況などが比較的細かく把握されているため、身元のない人間が突然入り込めば、不自然に思われる可能性があります」
「じゃあ、田舎なら?」
「都市部よりは可能性があります。農村部では労働力が不足している地域もあり、外部から来た人間を受け入れる余地があります。ただし、集落単位の付き合いが強いため、逆に身元について質問される可能性もあります」
「どっちに転んでも、簡単じゃないな」
「はい。ですが、蓮には私が付いています」
周辺の地形や道路、建物の位置が次々と表示されていく。
「住民の行動、会話、地域ごとの言葉遣いなどを分析することで、その地域で不自然に見えない振る舞いを補助することは可能です」
「なるほどな、A.I.D.A.の分析を使いながら俺がちゃんとこの時代の人間として振る舞えればいいんだな」
「その認識で問題ありません。ただし、私がすべてを代行することはできません。最終的に人と接し、判断するのは蓮です」
その言葉に、蓮は少しだけ苦笑した。
「そこは、俺がやるしかないか」
しばらくして、機体は秩父山系へ入った。
眼下には、夜の山々が黒い塊となって連なっている。
蓮は地形を確認しながら、山中にある小さな洞窟へ機体を進めた。
周囲に人家はない。
機体を隠すには十分だった。
蓮は慎重に高度を落とすと、そのまま洞窟の奥へと機体を滑り込ませた。
着地。
エンジンを停止すると、周囲から音が消えた。
機体の外へ出た瞬間、冷たい空気が頬を撫でる。
湿った土の匂い。
杉や檜のような木々の匂い。
遠くから聞こえる、夜の山の音。
蓮はしばらく、その場に立っていた。
「……本当に、昭和なんだな」
「はい、まずは栄養を補給してください。蓮」
返ってきた声は、いつもと変わらない。
だが蓮にとっては、その一言だけで十分だった。
ここから先は、誰も自分を助けてくれない。
蓮は機体からサバイバルキットを取り出した。
中には三日分の高栄養食、飲料水、野外活動用の装備などが入っている。
まずは腹を満たす。
携帯食を口に運びながら、蓮はこれからのことを考えた。
「それで、町に入る前に問題があるな」
「問題だらけですよ。蓮」
「わかっているけど、まずはこの服だ」
蓮は自分の航空服を見下ろした。
二〇五〇年の自衛隊装備。
この時代に存在するはずのない素材と構造。
これを着たまま歩いていけば、目立つどころの話ではない。
「その通りです。一般的な衣服へ変更する必要があります」
「……どこかで手に入れられるか?」
「周辺の建物を確認すれば、衣類を保管している場所を特定することはできます」
蓮は少し考えた。
「まさか……誰かの家から持ってくるとか言わないよな?」
「他に確実な方法があるとは限りません」
「いや、それはダメだろ」
蓮は即座に答えた。
いくら生きるためとはいえ、何の関係もない人間の家に入り、服を持っていく。
それを普通にやってしまえば、自分がこの時代で生き残るために何をしてもいいことになってしまう。
「蓮の判断は理解しています。ただ、現状では衣服を入手しなければ、町へ入ること自体が困難です」
「分かってるよ」
蓮は携帯食を食べ終えると、立ち上がった。
航空服の上から周囲を見渡す。
ここから先へ進むには、どうしても昭和の人間として見える格好が必要だった。
「……まあ、まずは探してみよう」
「周辺の住居や倉庫を確認します」
「できるだけ、人に迷惑をかけない方法を考えてくれ」
「了解しました」
蓮はオプティカル・アイダを起動した。
視界の中に、暗闇に沈んでいた山道が浮かび上がる。
赤外線によって地形が可視化され、遠くにある建物の輪郭が確認できる。
その先には、人の暮らす集落がある。
蓮は一度だけ、背後の洞窟を振り返った。
そこには、二〇五〇年から持ち込んだ機体が静かに眠っている。
そして自分は今から、その存在を隠したまま、この時代の人間の中へ入っていかなければならない。
蓮は息を吐いた。
「……行くか」
「はい。昭和社会への潜入を開始します」
蓮は山道へ足を踏み出した。
未来から来た男の、長い潜伏生活が始まった。
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