エピソード2 サバイバルキット
南雲機動部隊の巨大な艦隊が、重油の黒煙を幾重にも引きながら、水平線の彼方へと消えていく。
その艦影が完全に視界から消えたのを確認して、A.I.D.A.は静かに機体のシステムログを閉じた。
コクピットのパノラミック・ディスプレイに映し出されるのは、冷たい波が打ち寄せる千島列島の荒涼とした海岸線だけだ。
「――艦隊の視認距離から外れました。周辺の無線傍受網から、南雲機動部隊が予定航路に沿って、ハワイへ向けた進撃を開始したと判定します」
操縦桿からようやく手を離し、背もたれに深く体を預けていた蓮は、乾いた息を一つ吐き出した。
「……行ったか。で、こっちはどうなんだ? 帰る方法の糸口は見つかったか?」
「蓮。結論から申し上げます。現時点で、元の二〇五〇年へ帰還するための手法・エネルギーの発生手段ともに――『不明』です」
「おいおい、マジかよ……」
「機体のブラックボックスに残された空間歪曲時の波形データを全方位から解析していますが、あの現象が起きた正確な物理的事象を逆算するにはデータが圧倒的に不足しています」
「……いつになったらわかるんだ」
「不明です。数か月で解明できる可能性もあれば、数年、数十年、あるいは……一生かかっても判明しない可能性もあります」
ズシリと重い言葉が、蓮の胸の内に沈み込む。
帰れないかもしれない。
一九四一年の過去の空に閉じ込められたという現実だけでも過酷だが、A.I.D.A.はさらに容赦のない問題へと話を切り替えた。
「しかし、帰還の難易度以前に、我々は別の重大な問題に直面しています。蓮。あなた自身の生存についてです」
「生存って……なんだよ急に」
「あなたは二〇五〇年の人間です。生命維持のための栄養摂取、水分補給、および休養が不可欠です」
当たり前の事実を告げられ、蓮はまばたきをした。
この数時間、タイムスリップの衝撃とステルス起動の緊張感で忘れていたが、腹の虫が小さく音を立てたのは気のせいではない。
「ですが、ここで致命的な障害が発生します。出撃前の規定により、現金や身分証明書などは一切所持していません。手元にあるのは、軍籍を示す支給品の電子デバイスのみです。しかし、一九四一年の日本国内において、このデバイスに記録されたデータや電子資産は一切通用しません」
「そりゃそうだな……社会インフラに接続されてないんだから、ただの板切れだろ」
「その通りです。当然ながらこの時代の戸籍にもあなたの記録は存在しません。つまり……この社会の通貨も戸籍も持たず、いかに最先端の機体に守られていようとも、人間であるあなたは飢えと渇き、あるいはこの時代の憲兵隊による身元確認で致命的な窮地に陥るでしょう」
「……あ」
蓮は青ざめた顔でフライトスーツのポケットに突っ込んでいたスマートデバイスを見つめた。
「俺、このままじゃ明日からメシが食えないどころか、お金も身分証すらいっさい持たない不審者ってことか?」
「肯定します。よって、今後の行動方針を修正します。帰還方法の模索と並行して、まずはこの時代における『生存基盤の確保』が急務です。日本本土の近隣の都市部へ移動し、人間社会に潜伏する必要があります」
「都市部に行くって……この機体をそのまま乗り付けるわけにいかないだろ?」
「当然です。二〇五〇年のステルス戦闘機を人里に着陸させれば、即座に軍や憲兵隊に発見され、歴史を激しく改変する大スキャンダルになります。――ですので、機体は人里離れた山岳地帯の洞窟に完全カモフラージュで秘匿。あなた単身で近隣の町へ潜入します」
そう言いながら、A.I.D.A.は射出座席の下部に格納されている特殊サバイバルキットのロックを遠隔で解除した。コンソールの一部が開き、無機質な黒いハードケースが姿を現す。
「幸い、機体に搭載されたサバイバルキットを活用できます。中には3日分の高栄養レーション、野外生存用の装備一式、そして万が一の自衛用としてビーム拳銃が収められています」
蓮がケースから取り出したのは、最低限の非常食と、内部構造が全く異なる特殊なビーム拳銃だった。さらにその底面には、マットな黒い金属光沢を放つ一際異質な指輪と、一組の洗練されたサングラス型のデバイスが収まっている。
「なんだこの指輪は?」
「それは秘匿兵器の『プロテクション・リング』です。最大展開時に、あなたの生体をあらゆる物理・エネルギー攻撃から完全に保護する局所バリアシールドを発生させます。バッテリー容量の限界から連続稼働時間は最大2時間ですが、万が一の交戦や不慮の事故の際には絶大な生存効力を発揮します」
「こっちは……サングラスか?」
「こちらはAIグラス『オプティカル・アイダ』です。常時私とリンクし、私の全機能――周囲の超高度な諜報・解析、微弱な無線傍受、可視化された赤外線サーモグラフィーや暗視機能をあなたの視覚にダイレクトに投影します。通信機能も維持されるため、単身で都市に潜入しても常時私のサポートを受けられます」
蓮はサバイバルキットのケースを丁寧に閉じ、機体の所定の位置へとしっかりと収納した。今はまだ離陸の段階ではない。本土へ近づき、機体を隠して単身降下するその時まで取っておく必要がある。
「……よし、装備と現状のヤバさはよく分かった。で、これから具体的にどこを目指すべきだ?」
「ご提示いただいた通り、現在の日時は一九四一年十一月二十六日。北日本や東北地方の山岳部はすでに厳冬期に突入しており、ろくな防寒具もない現状で野外活動を行えば、低体温症による生存確率が急速に低下します」
「だよな。下手に北海道や北東北に降りたら、敵に見つかる前に寒さでジ・エンドだ」
「はい。したがって、気象条件が比較的穏やかであり、かつ人間社会の規模が大きく情報の錯綜を利用しやすいエリア――『東京』を中心とした関東近郊への潜入を第一候補とします」
蓮は思わず眉をひそめた。
「東京? 軍の目が一番厳しい場所じゃないのか?」
「逆です。人間が多いからこそ隠れやすいのです。」
「……つまり、砂漠に砂粒を一つ落としたようなものか」
「その認識で合っています、蓮」
「確かに……一九四一年の東京なら、人も多い。俺一人くらい、紛れ込めそうだな」
「その通りです。地方から流れ込んだ人間も多く、工場の動員労働者や軍関係者も行き交っています。あなた一人が紛れ込んでも、目立つ可能性は地方より低いでしょう」
蓮は腕を組み、パノラミック・ディスプレイに映し出される昭和十六年の首都圏の地図をじっと見据えた。
「よし、東京近郊をめがけて一気に飛ぶぞ。機体のステルスと自動航行をフル活用して、誰にも見つからずに本州の山中へ潜り込む。……そこからのサバイバルは、この装備と相棒のサポート頼みだな」
蓮が覚悟を決めたように操縦桿を軽く叩くと、A.I.D.A.の音声が微かにトーンを上げて応じた。
「了解しました。これより機体を長距離隠密航行モードに移行。一九四一年の日本本土へ向け、極秘裡に離陸プロセスを開始します」
コクピットのモニター類が青白く輝きを取り戻し、時空を越えたステルス機が静かに咆哮を上げる。
歴史の表舞台の裏側で、現代のパイロットとAIによる孤独な潜行作戦が、いよいよ幕を開けようとしていた。
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