エピソード1 システムロックαを解放
「……おい、嘘だろ……」
単冠湾の冷たい海風が、二〇五〇年から迷い込んだ蒼莱の機体表面を撫でていく。
コクピットのパノラミック・ディスプレイに映し出された水面は、歴史の教科書で見たような不気味な静けさを湛えていた。
無数の黒い影――第二次世界大戦の開戦へ向けて牙を研ぐ、南雲機動部隊の主力空母群。その旗艦『赤城』の巨体が、吐き出す重油の黒煙とともに微かに揺らいでいる。
コクピットの中には、静寂だけが満ちていた。
エンジンが極低出力で駆動する微かな低音と、蓮の荒い息遣いだけが響いている。
「……なぁ、A.I.D.A.。見間違いだよな? あれは、その……いったいなんの冗談なんだ?」
「蓮、冗談ではありません。空間歪曲時のエネルギー波形と、周辺海域の地形、そして艦艇のシルエットや、周辺に飛び交う通信電波を様々な角度から照合しました。
……ここは一九四一年十一月二十六日の千島列島・単冠湾で間違いありません。南雲機動部隊の出撃直前の状態と完全に一致しています」
淡々と告げられた現実を突きつけられ、蓮はモニターの縁に額を預けた。
頭では「タイムスリップなんて漫画や映画の話だ」と否定しようとするが、背筋を凍らせるような現実感と、視覚から入る情報が、それが紛れもない事実だと突きつけてくる。
信じたくない。思考が真っ白になり、ただ時間だけが冷たく流れていった。
「――蓮。生体情報が大きく乱れています。正気を取り戻してください」
「落ち着けるかよ……! 一体、何がどうなってるんだ……通信はどうなってる! 本部との連絡はつかないのか!?」
蓮の切羽詰まった問いかけに、A.I.D.A.の音声がわずかに低くなる。
「蓮……先ほども言いましたが、衛星とのリンクが、完全に途絶しています」
「本当に故障じゃないのか?」
「いいえ。機体側は、再度の確認をしましたが、異常は見当たりません」
「じゃあ、本当に……」
「蓮。現在傍受している通信の規格、そして内容、いずれも二〇五〇年では使用されていないものです」
「そうだ、帰る手段は……帰る手段はどうなんだ?」
「蓮、残念ながら帰る手段は不明です」
「そんなことないだろ。だってこの時代に来た状況を分析したら、A.I.D.A.なら分かるんじゃないのか?」
「申し訳ありませんが、私の知識でも今回の事象は情報として持っていません。幸い観測情報等は揃っている為、継続分析を行うことで、同様の事象発生による帰還は可能かもしれません」
A.I.D.A.の声が、わずかに低くなる。
「しかし、それがいつ、解析完了となるかは未定となります」
その残酷な一言が、蓮の脳裏に現実として突き刺さる。
二〇五〇年には戻れない。明日も、明後日も、あるいは一生――この過去の空に閉じ込められたままかもしれないという絶望感が、じわりと胸の奥を締めつけた。
「蓮。返答を」
「……無理だ。今すぐには受け入れられるわけないだろ……」
「ですが、このままではあなたの生存確率が低下します」
「……分かってるよ……っ」
「なら、まず呼吸を整えてください」
絞り出すような蓮の声に、A.I.D.A.はわずかに電子音を響かせ、システム全体の挙動を切り替えた。
「現状の継続は、パイロットの生存確率を著しく低下させます――緊急事態条項を適用します」
「A.I.D.A.、なんだそれは?」
「搭乗者の生存率を向上させるための緊急プロトコルです。システムロックαを解除!」
青かったコンソールの表示が、一斉に黄色へ変わった。
「ステルス制限、解除」
「続いて、索敵・解析制限、解除」
A.I.D.A.の声が、いつになく硬い。
「これより、この時代でのパイロットの生存を最優先の行動原理とします。高度ステルスモードにより、肉眼および旧時代のレーダー網から完全に不可視化。同時に、超高性能演算ユニットによる諜報・解析能力を完全解放し、湾内の無線や気象データを網羅的に収集します」
A.I.D.A.の宣言と同時に、コクピットの空気がわずかに引き締まった。
機外では、世界最高峰の技術の結晶が完全に気配を断ち切り、歴史の闇へと溶け込んでいく。
「蓮。私たちはただ座して絶望を待つわけにはいきません。元の時代へ帰還する手段を見つけ出すため、これより制限解放された性能を用いた、徹底的な現状把握と、帰還の糸口の模索を開始します。指示を仰ぎます、パイロット」
蓮は一度、深く息を吐いた。
操縦桿を握り直す。
「……ああ、頼むぜ、A.I.D.A.」
もう一度、正面の海を見た。
「俺たちの時代へ帰る方法を、何が何でも見つけ出してくれ」
「了解しました、蓮」
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