エピソード1 帰還不能――1941年に取り残されたパイロット
「……おい、嘘だろ……」
単冠湾の冷たい海風が、二〇五〇年から迷い込んだ蒼莱の機体表面を撫でていく。
コクピットのパノラミック・ディスプレイに映し出される海面は、歴史の教科書で見た写真と重なっていた。
幾重にも並ぶ灰色の艦影。
その中心には、巨大な飛行甲板を持つ空母が浮かんでいる。
南雲機動部隊。
そして、その旗艦――赤城。
吐き出される重油の黒煙さえも、蓮には現実のものとは思えなかった。
コクピットの中には、静寂だけが満ちている。
エンジンが極低出力で駆動する微かな低音と、蓮自身の荒い息遣いだけが響いていた。
「……なぁ、A.I.D.A.。見間違いだよな?」
蓮は正面の海から目を離せないまま、呟くように続けた。
「ここが一九四一年だなんて……そんなこと、あるわけないだろ」
「蓮。残念ながら、観測結果に誤りはありません」
A.I.D.A.の声は、いつもと変わらず冷静だった。
「先ほど発生した空間歪曲のエネルギー波形、現在地の地形情報、艦艇のシルエット、さらに周辺で傍受している通信内容まで、複数の情報を照合しました。現在地は千島列島・択捉島の単冠湾。そして日付は、一九四一年十一月二十六日です」
一拍置いて、A.I.D.A.が告げる。
「眼下の艦隊も、歴史データベースに記録されている南雲機動部隊と一致しています」
淡々と突きつけられる現実に、蓮はモニターの縁へ額を預けた。
頭では否定しようとしている。
タイムスリップなんて、漫画や映画の中だけの話だ。
そう思いたかった。
だが、目の前に広がる海も、艦隊も、そして二〇五〇年なら当たり前に存在しているはずのものが何一つ存在しないという事実も、すべてが逃げ道を塞いでいた。
「……マジかよ」
信じたくない。
思考が追いつかない。
ただ時間だけが、冷たい海の上を流れていく。
「蓮。生体情報が大きく乱れています。まずは落ち着いてください」
「落ち着けるかよ……!」
蓮は顔を上げた。
「一体、何がどうなってるんだ。通信は? 本部との連絡はつかないのか?」
「先ほどから確認を続けていますが、衛星とのリンクは完全に途絶しています。機体側の通信装置、電源系統、データリンクにも異常はありません。つまり、蒼莱が故障したわけではありません」
A.I.D.A.は一度言葉を切った。
「現在傍受している通信についても同様です。使用されている通信規格や内容は、二〇五〇年のものではありません。この空域には、私たちが元いた時代の通信網そのものが存在していないようです」
「じゃあ……本当に、この時代にいるってことか」
「その可能性が極めて高いと判断します」
蓮は拳を握りしめた。
「……だったら、帰る方法は?」
その問いに、A.I.D.A.はすぐには答えなかった。
「蓮。残念ながら現時点では、不明です」
「今回の空間歪曲現象に関する記録は、私の保有するデータベースにも存在しません。発生時の観測情報は機体に残っていますので、今後も解析を継続すれば、同様の現象を再現して帰還できる可能性はあります。しかし――」
A.I.D.A.の声が、わずかに低くなる。
「それがいつ可能になるのかは、現時点では予測できません」
その言葉が、蓮の胸に重く落ちた。
帰れない。
今日だけではない。
明日も、明後日も。
ひょっとすれば、一生。
二〇五〇年に残してきたものを、もう二度と取り戻せないかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥が締めつけられた。
「蓮。返答を」
「……無理だ」
蓮は俯いたまま、絞り出すように答えた。
「今すぐ受け入れろって言われても……無理に決まってるだろ」
「理解しています」
A.I.D.A.は少しやさしい声色で返答する。
「ですが、このまま精神状態を悪化させれば、パイロットの生存確率にも影響します。まずは呼吸を整え、現状を把握する必要があります」
「……分かってるよ」
蓮は大きく息を吐いた。
それでも、胸の奥に渦巻く不安が消えることはない。
帰る方法が分からない。
ここが一九四一年なら、自分を助けてくれる人間も、頼れる組織もない。
そして何より――この時代には、自分の存在そのものを証明できるものすらない。
そんな蓮の思考を断ち切るように、A.I.D.A.が静かに告げた。
「パイロットの生存に関して緊急事態が発生したと認識。これより、制限解除を段階的に実施致します」
「……どういう意味だ?」
「現在の蒼莱は、二〇五〇年の規定に従い、いくつかの能力に制限が掛けられています」
蓮が顔を上げる。
「制限?」
「はい。平時における運用を前提とした安全規定、および周辺環境への影響を抑えるための各種システムロックです。しかし現在は、既知の支援網から完全に孤立しています」
A.I.D.A.の声に、わずかな変化が生じた。
「この状況では、通常の運用規定を維持することよりも、搭乗者の生存を優先する必要があります」
「……それで?」
「パイロット生存プログラムを適用します」
青く表示されていたコンソールの一部が、ゆっくりと色を変えていく。
「システムロックαを解除します」
次の瞬間、コクピット内の表示が一斉に切り替わった。
「ステルス制限、解除」
電子音が短く響く。
「続いて、索敵・解析制限を解除します」
蓮は目の前の表示を見つめた。
今まで抑えられていた蒼莱の能力が、一つずつ解放されていく。
「これより、この時代におけるパイロットの生存を最優先の行動原理とします」
A.I.D.A.の説明が続く。
「高度ステルスモードによって、肉眼および旧時代のレーダー網から機体を探知される可能性を極限まで低下させます。同時に、これまで制限されていた索敵・解析能力を解放し、この海域の無線通信、気象情報、電波環境などを可能な限り収集します」
機外では、世界最高峰の技術によって造られた蒼莱が、静かにその姿を消していく。
眼下には、一九四一年の海。
その先には、これから大きく歴史を変えることになる艦隊がいる。
そして蓮は、そのすべてを見下ろしていた。
さっきまでなら、ただ恐怖しか感じなかった。
だが、今は違う。
帰る方法は分からない。
二〇五〇年へ戻れる保証もない。
それでも、ここで立ち止まっているわけにはいかなかった。
蓮は一度、深く息を吐く。
そして操縦桿を握り直した。
「……ああ、頼むぜ、A.I.D.A.」
正面の海へ視線を戻す。
「俺たちの時代へ帰る方法を、何が何でも見つけ出してくれ」
「了解しました、蓮」
静かな声が、コクピットの中に響いた。
蒼莱は再び、静かに単冠湾の空へ溶け込んでいった。
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