エピソード40 最初の関門
土浦駅前のバス停。
白煙を上げるボンネットバスの重苦しいエンジン音と、煤けた排気ガスの匂いが鼻腔を突く。
蓮は、手元の乗合自動車の乗車券をしっかりと握りしめ、ガタつく車体に揺られながら最後尾の席へと腰を下ろした。
発車したバスが土浦の市街地を抜け、徐々に建物の数がまばらになっていく。
窓の外には、どこまでも続く昭和十七年ののどかな田園風景が広がっていた。
未舗装の悪路を拾うたびに、車体が大きく横に揺れる。
やがて車窓の向こうに、水面を太陽の光で鈍く輝かせる霞ヶ浦がうっすらと姿を現した。
静かな車窓を眺める蓮の視界の隅で、AIグラスの淡いブルーのインジケータが微かに点滅する。耳元に、A.I.D.A.の冷静沈着な声が響いた。
「――ハルと久子、悲しそうでしたね。蓮が暫くの間、神崎家を空ける事になって」
窓の外を流れる景色から、蓮はわずかに視線を落とす。苦い笑みを一つ零すと、窓枠に肘をついてそっけなく言った。
「……まぁ、そうだな。あんな顔をされたら、後ろ髪を引かれる思いだったが…… 幸い代用教員をハルさんがやってくれることになったし、俺たちには、やらなければならないことがある」
「ですが、蓮。ハルと久子の関係をこの先どのように着地させるのか、明確に結論を付けないと、後々大変なことになりますよ?」
A.I.D.A.の容赦ない指摘に、蓮は舌打ちを堪えるように目を細めた。
「分かってるよ……。そのうち、ちゃんと考えるさ」
「蓮の『そのうち』は、一番信用できないと、私のデータベースは告げていますが」
「うるさいなぁ、相変わらず口が減らないAIだな」
蓮が苦笑交じりに鼻で笑うと、A.I.D.A.は話題をスムーズに切り替えた。
その声音には、わずかに呆れたような色合いが混じる。
「話題を変えましょう。ところで、昨日、お世話になったあの農家の軒先へ、新品の国民服一式、ラジオ、さらに海軍から支給された支度金の余りをまとめて、誰にも気づかれないよう家の前に置いてきた件ですが……。経済合理性の観点から見れば、それは明らかにやりすぎではありませんか?」
その問いに、蓮はフッと息をつき、揺れる車内で腕を組んだ。
「やりすぎ? 何を言ってるんだ。あの一件で、あの家の人は、俺の命を救ってくれたようなもんだ。その恩義ってのは、お金や合理性で測れるもんじゃないぞ。プライスレスってやつだ。お世話になった恩に比べたら、あんなもん当然の利子みたいなもんだろ」
その言葉を聞き取った瞬間、A.I.D.A.の内部で、ほんの一瞬だけ思考のデータストリームが静止した。
(……本当に、あなたは合理的ではありませんね)
蓮には決して届かないローカル領域の思考で、A.I.D.A.は誰にも聞こえない独り言を漏らした。
(ですが、そんな不器用で損ばかりするあなただからこそ……人間として、輝いていると言わざるを得ませんね、蓮)
言葉にしては褒めない。だがその声音には、確かな敬意が滲んでいた。
バスはガタゴトンと最後の大きな揺れを経て、目的地である霞ヶ浦畔に位置する「第一海軍航空廠」の正門前に到着した。
重厚な鉄の門扉、そしてその向こうに広がる威圧的なまでの敷地。物々しい警備の衛兵が目を光らせる中、蓮は深呼吸を一つしてバスを降りた。
敷地内へと足を踏み入れ、案内された庁舎の玄関をくぐる。
簡素な木机に腰掛けた衛兵が鋭い視線を向けてきたため、蓮は身なりを正して声をかけた。
「軍令部参謀の田村中佐に呼ばれてきた、奥野です」
衛兵は無言のままうなずくと、確認のため奥の通路へと引っ込んでいった。
一人残された蓮は、薄暗い廊下や使い込まれた掲示板を見渡し、内心で少し肩の力を抜く。
(なんだか、思っていたよりもずっと……田舎の大きな町工場みたいな雰囲気だな)
待つこと数分。パタパタと慌ただしい足音とともに、見覚えのある軍服姿の男が姿を現した。
「奥野さん! お待たせ致しました! 首を長くして待っていましたよ!」
現れたのは軍令部参謀・田村中佐だった。その顔には、隠し切れない期待と安堵の色が浮かんでいる。
蓮は軽く頭を下げて苦笑した。
「すいません中佐。土浦からのバスの車窓風景があまりにものどかなので、ついついのんびりと眺めながら来てしまいました」
「ははは、全然構いませんとも! いや、ちょうどいい。もうすぐ昼時ですし、堅苦しい話はあとにして、まずは一緒に昼飯にしましょうか!」
朝一の移動ですっかり空っぽになっていた胃袋を思い出させられ、蓮は素直にうなずいた。
「それはありがたいです。ぜひお願いします」
案内されたのは、第一海軍航空廠の職員食堂だった。
むき出しの太い木造梁にトタン屋根、使い込まれた長机と丸椅子が無骨に並ぶ空間からは、油と鉄粉、そして男たちの活気が混ざった独特の匂いが立ち込めている。
一種類しか用意されていない「軍用定食」――山盛りの麦飯に、質実剛健なアラ汁、そして漬物という極めてシンプルな飯を二つ受け取り、田村は蓮を連れて隅の席へと腰を下ろした。
蓮が箸を割り、さて食べようかという、まさにそのタイミングだった。
田村は後ろの席で、ガツガツと豪快に昼飯をかき込んでいた一人の大柄な男に声をかけた。
日に焼け、油まみれの作業着をまとった、いかにも叩き上げの現場監督といった風体の男である。
「おい、戸田。ちょっといいか」
「ん……? おや、中佐殿じゃねぇですか。どうしたんですか、こんなところで一緒にメシなんて」
田村に呼ばれ、不審そうに眉をひそめながらも、戸田はジロリと蓮の顔を観察した。
田村は戸田の肩を軽く叩きながら、誇らしげに紹介する。
「あぁ、紹介しましょう。こいつはこの廠で発動機関係を仕切っている戸田です」
「初めまして、奥野です」
「先日、君たちに『専用の開発室を作れ』と無理を言ったがね、その部屋を使ってもらう技術者、奥野さんだ。若いが腕は確かだから、よろしく頼むよ」
全容を聞かされていない戸田は、面白そうに片方の眉を釣り上げ、蓮を値踏みするようにじっと見つめた。
「ほう……? 一体、ここで何を作るんですか、奥野さん。こんな若いお兄ちゃんが、海軍の施設で何を仕でかすのやら」
探るような戸田の視線に、蓮は苦笑いを浮かべつつ、そっと言葉を濁した。
「はは、それはちょっと……機密保持が厳命されておりましてね。具体的なことは、まだお話しできないんですよ」
それを聞いた田村が、慌てて苦笑しながら両手を振ってフォローを入れる。
「すまん戸田、細かいことは軍の機密だ。詮索するな。とにかく、彼に専用の部屋と場所を貸してやってくれ。作業は基本、彼が一人で進めることになるが、何かあれば助けてやってくれ」
田村の言葉に、戸田は納得いかないと言わんばかりに顔をしかめたが、上官の命令とあらば仕方ないと、一つ大きく鼻を鳴らした。
「……ちっ、分かりましたよ。中佐がそこまで言うなら、場所だけはしっかり用意してやりますよ。どうせまた、どこかの偉いさんが持ち込んだ無茶な図面の尻拭いとかでしょうがね」
ぶっきらぼうに吐き捨てた戸田だったが、次の瞬間、ガラリと表情と声のトーンを切り替えた。
彼はその巨体を起こすと、食堂全体に響き渡るほどの腹の底からの大声で、野太く怒鳴りつける。
「――おい、野郎ども! 手を止めて耳をかっぽじって聞けぇっ!」
突然の怒声に、食堂内のあちこちに座っていた他の作業員や職人たちが、一斉にビクリと動きを止めた。
「オレの前に座っているこの若い学者さんは、今日からこの廠に来ることになった奥野さんだ!この人に、万が一にも不便な思いをさせやがったら……俺がタダじゃおかねぇからな! 全員、この奥野さんに協力しろ! いいなっ!」
その男気溢れる一喝に、食堂のあちこちに座っていた職人たちが一斉にガタリと椅子を引いて立ち上がった。
作業員たちは一様に厳しい顔つきだったが、戸田の意図を察すると姿勢を正し、食堂がビリビリと揺れるほどの声で返事をする。
「おやっさん、了解しました! 奥野さん、どうぞよろしくお願いしますっ!」
戸田の予想外の盛大な行動と、昭和の現場特有の強烈な連帯感の波に、蓮は思わずたじろぎ、目を丸くした。
「奥野さん、これでアンタには迷惑かける奴はこの場には居なくなった。まぁ、軍の機密かどうかは関係ねえ。ここに来る奴はオレたちの仲間だ。困ったことありゃオレに相談しろ」
戸田は、厳つい顔しながらも優しく男気ある言葉を蓮に掛けた。
その視界の隅で、A.I.D.A.の冷静な音声がピリッと頭に響く。
「――蓮。気圧されてはいけません。今後を考えると、ここで戸田を味方につけることができれば、今後の活動をスムーズに行えます。戸田との関係を良好にすることをオススメします」
A.I.D.A.に背中を強く押された蓮は、ハッと我に返ると、ゆっくりと席から立ち上がった。
まだわずかに残る緊張を振り払い、彼は戸田を見据えながら、腹の底から精一杯の声を張り上げた。
「——戸田さん、ありがとうございます! 皆さんのご迷惑にならないように、そして私も、一日でも早く皆さんの一員になれるよう死ぬ気で頑張ります! どうか、よろしくお願いしますっ!」
蓮の必死な挨拶が食堂の隅々まで響き渡り――
戸田が、ニヤリと笑って蓮を見据えた。
「とっつきにくい奴かと思ったが、なかなかーー
骨があるじゃねえか。おう!よろしくな!」
その状況をヒヤヒヤしながら見ていた田村はホッと胸を撫で下ろした。
「奥野さん、貴方にはいつも驚かせられる。戸田はこの通り、気難しいから、どうなることかとヒヤヒヤしましたよ」
そういうと、蓮と戸田を見返しながら、
まずは第一関門を突破できたことに安堵していた。
そんなやり取りの隅で、A.I.D.A.の淡いブルーのインジケータが皮肉な点滅を繰り返した。
「――見事に戸田の懐には少し入ることができましたね。やるじゃないですか、蓮」
「……お前、オレが失敗すると決めつけてただろ?少しは信用して欲しいよ、相棒だろ!」
こうして蓮は、第一海軍航空廠での波乱に満ちた最初の一歩を踏み出したのだった。
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