エピソード36 海軍の懐と、新たなる盟約
深夜のひんやりとした空気の中、厳重な警戒が敷かれた海軍軍令部の正門を潜り抜けた一台のトラックが静かに滑り込む。
ブレーキがかすかな音を立てて停止すると、助手席のドアを開けるより早く、重厚な軍靴の足音が夜の敷地に響いた。
蓮がトラックの荷台から飛び降りようとした視線の先、まるで待ち構えていたかのように、入口の正面から一人の海軍将校がすっと歩み寄ってくる。
トラックから降り立った津村は、その姿を見るなり、ふっと肩の力を抜いて声をかけた。
「田村、待たせたな」
田村と呼ばれた男は不敵に、それでいてどこか嬉しそうな笑みを浮かべながら返す。
「遅いぞ津村。永野閣下は、首を長くして……いや、待ちくたびれて執務室の床に穴が開きそうなくらいお待ちになっておるぞ」
「すまん。誰にも見つかりたくなかったので、出る機会を探っておったんだ」
津村が苦笑交じりにそう返すと、田村は視線をその傍らに立つ蓮へと移した。
「彼が……例の?」
「あぁ。紹介しよう、奥野だ」
田村は蓮の顔をじっと見据えると、深く頷きながら告げた。
「津村から話は聞いてる。私は海軍中佐の田村だ。永野閣下や津村とは同郷だ。永野閣下は、一刻も早く君に会いたいと仰っている。さあ、中へどうぞ」
そのやり取りを聞きながら、蓮の耳の奥――AIグラスのレンズ越しに、A.I.D.A.の冷静な分析ボイスが滑り込んできた。
「――津村の交友関係データの照合完了。これほどまでに海軍内に手引きしやすい協力者がいるとは、津村の政治的布石は想像以上に周到ですね。陸軍とは対照的に、海軍側には彼の味方となる人材が厚いようです」
「だな……陸軍のあのギスギスした空気とは大違いだ」
蓮が心の中で小さく返事をすると、田村の先導で3人は厳重な警備を抜け、軍令部総長の部屋へと続く廊下を進んでいった。
――総長室の前に到着すると、重厚な木製の扉の前に立ち、田村がノックをして声を掛けようとした、まさにその瞬間だった。
ガチャン、と激しい音を立てて、内側から荒々しく扉が開き放たれた。
「遅いぞ!」
飛び出してきたのは、他でもない、海軍軍令部総長・永野修身本人だった。
旧時代の政治家のような権高な威圧感はない。まるで待ちきれない子供のように目を輝かせた異様な熱量をたたえたまま、永野は一直線に蓮の姿をとらえた。
そして、ものすごい勢いで歩み寄ると、蓮の両肩をガシッと力強く掴んだのだ。
「お前か……! バリクパパン沖の海戦では本当によく助けてくれた! お前のあの情報がなければ、我が海軍の被害はもっと甚大だった! 本当によくやってくれた!」
あまりの熱量と、軍の最高トップからのダイレクトな感謝の言葉に、蓮は思わず気圧されてフリーズしかけた。
(ちょっ、まっ、勢いが凄すぎだろ……!)
混乱する蓮に対し、脳内のA.I.D.A.が即座に冷静さを取り戻させる。
「――蓮、心拍数が急上昇しています。深呼吸を。陸軍の杉山とはギャップが凄まじいですが、発言の矛盾を防ぐため、私の方でサポートします。落ち着いて対応を」
A.I.D.A.の指示に背中を押され、蓮はわずかに息を整えると、何とか笑顔を作って頷いた。
「は、はあ……お役に立てて何よりです、総長閣下」
興奮をようやく沈めた永野は、はたと我に返ると、照れくさそうに頭をかき、自分を指さして名乗った。
「おっと、すまない。私としたことが取り乱した。私は海軍軍令部総長の永野修身だ。さあ、こんなところで立ち話もなんだ、中に入ってくれ」
促されるままに総長室へ入り、応接用の革張りのソファへと腰掛ける。
一息ついたところで、蓮は改めて背筋を伸ばし、自身の自己紹介を切り出した。
「改めて、奥野です。私は民間から――」
すると、その言葉を継ぐように、隣に座った津村が絶妙なタイミングで巧みなフォローを入れる。
「閣下、奥野はかつて香港に住んでいた時の伝手があります。そこで培った独自の強固な情報網を持っているのです。バリクパパン沖の警告情報も、その伝手で手に入れたものを、我が陸軍の杉山閣下に持ち込んだという経緯があります」
津村の説明を聞いた田村は、腕を組みながらふむと頷いた。
「……なるほどな。あの突拍子もない情報が杉山閣下のところから持ち込まれた時は、流石に我々も裏を疑ってかなり警戒したものだ。だが、万が一ということもある、一応は現場へ厳重な警戒指令を出しておいた。おかげで敵の奇襲を真正面から受けずに済み、被害を最小限に食い止めることができたというわけだ」
田村のその言葉に、永野も大きく頷く。
そして、永野はふっと穏やかな笑みを浮かべ、蓮の目を真っ直ぐに見据えて言った。
「まあ、お前が一体何者なのか、その裏にどんな伝手があるのか……この際、私はあえて問わないでおこう。これだけの機密情報を持ってくるような男だ。下手に詮索して正体を探るより、知らないままでいる方が、我が海軍にとっても圧倒的に得になるからな」
田村もそれに深く同調するように続ける。
「総長のおっしゃる通りです。彼にこれからも我々のために活躍してもらうためには、正体を探って表の世界に引きずり出すよりも、むしろこのまま闇の中に隠しておくべきです」
その海軍トップたちの「あえて踏み込まない」という極めて合理的かつプロフェッショナルな美学を聴きながら、蓮は脳内でA.I.D.A.に呟いた。
「……おいA.I.D.A.、海軍の連中は陸軍の連中と全然違うぞ。みんな徹底したリアリストだな」
「同感です、蓮。詮索して縛り付けるのではなく、実利と信頼を重んじる。彼らを信用した形で物事を進めるのが、現時点で最も得策かつ安全と判定します」
A.I.D.A.の太鼓判を聞き、蓮が確信を得たその瞬間、津村がさらに畳み掛けるように、室内の空気を一変させる爆弾発言を投下した。
「――閣下。実は、事前にお話ししていました、我が国の劣勢を覆す新型電探……その開発も、他ならぬこの奥野なのです」
その言葉を聞いた瞬間、永野と田村の動きがピタリと止まった。
一瞬の静寂の後、田村が目を剥いて声を荒げる。
「なっ……! それだけの凄まじい情報網を持っているだけでなく、自ら最先端の技術を生み出す技術屋でもあるというのか……!」
永野は言葉を失い、ただじっと、座っている蓮の顔を据え据えと見つめ返した。
そして、長い沈黙の末に、噛み締めるように呟いた。
「そうか……あの新型電探を作ったのは、君だったのか」
「はい。私が設計し、作りました」
蓮が真っ直ぐにそう答えると、永野は深く息を吐き出し、それから少し表情を曇らせた。
蓮はそれに気づき、さらに言葉を続ける。
「……本当は、製作した一基を陸軍の杉山閣下から海軍に渡して頂く予定でした。ですが、彼は陸軍と海軍の都合と保身を優先し、私との約束を反故にしました」
その話を聞いた瞬間、田村は苦々しげに歯噛みし、吐き捨てるように言った。
「……だから、陸軍連中は信用できんのだ。約束一つ守れんとは」
怒る田村を、永野は静かに手で制した。
そして、穏やかではあるが、底知れない決意を秘めた目で蓮を見る。
「仕方がなかろう。あやつらはいつもそうだからな。今更、過去の失敗を悔やんでも仕方がない。過去は変えられん。だが、未来は違う。田村、我々には今、未来を変えられるかもしれん御仁が目の前におるぞ」
その永野の言葉に、蓮は思わず目を見開いた。
さらに、津村が熱を帯びた声で一歩踏み込む。
「閣下、その通りです! 奥野がもたらす情報と、この圧倒的な技術を、陸軍だけに縛り付けておくべきではありません。今こそ、陸海軍が一元的に運用できる体制を作るべきだと私は考えています」
永野は「まあまあ、そう焦るな」と苦笑いしながらも、その目は真剣そのものだった。
そして、再び蓮へと視線を戻す。
「それで、津村から話には聞いていたが……その新型電探は、ちゃんと持ってきてくれたのかね?」
「ええ、持ってきましたよ」
蓮が笑みを浮かべて頷くと、永野の顔にパッと期待の色が広がった。
「おおっ! さすがだな! どこだ、それを見せてくれ!」
「今すぐお見せしたいのですが、完成品のままでは二人で持ち運べなかったので、現地で組み立てられるように部品単位で持ってきました。組み立て作業ができる場所さえ用意してくだされば、ここで組み立ててすぐにお見せしますよ」
その提案に、永野は迷うことなく即答した。
「分かった! 田村、至急ここから一番近くて安全な、作業用の部屋を用意しろ!」
「はっ、畏まりました!」
田村が迷いのないキビキビとした敬礼を残し、総長室を勢いよく飛び出していく。
それを見送った後、蓮と津村は、いよいよ「間者一型改」の最終組み立てを行うため、一度総長室を辞してトラックの荷台へと足早に戻っていった。
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