エピソード31 朝の光と、お煎餅
木炭バスがガタゴトと音を立てて山あいの道を登りきり、集落の停留所でエンジンを止めた。
蓮は重い荷物を抱えて車内から降り立つと、冷え始めた夕気を肺いっぱいに吸い込みながら、足慣れた道を神崎家へと歩いて帰った。
家路の戸を開けると、待ち構えていたかのようにハルがパッと顔を輝かせて飛び出してきた。
「おかえりなさい、蒼さん……!」
「うわっ!......ただいま。ハルさん」
ハルは少し照れくさそうにはにかむと、申し訳なさそうに小さく首を振った。
「ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったんです。ただ……三日間、蒼さんが帰ってくるのが待ち遠しくて、つい」
その真っ直ぐな言葉に、蓮はふっと優しく目を細めた。
「いや、急に家を空けてすいません。でも、お願いされていたお土産はちゃんと買ってきたよ」
そう言って懐から包みを取り出すと、ハルはパァッと満面の笑顔を咲かせた。
「本当ですか……? わあ、すごいいい匂い……! 蒼さん、ありがとうございます!」
続いて、囲炉裏端にいた神崎のほうへと歩み寄り、それぞれの土産を手渡していく。
「ほう、わざわざ買ってきてくれたのか。どれ、見せてくれ……うん、これはまた良い匂いだ。ご苦労だったね、蒼君」
「神崎さん、無事に用事も済んできました。東京のほうも色々と慌ただしかったですがね」
蓮が笑みを浮かべてそう応じると、トメさんが温かいお茶の用意を整えながら声をかけてくれた。
「お疲れ様、蒼君。無事でなにより。さあ、冷えないうちにみんなでいただきましょう」
トメさんが用意してくれた温かい夕飯を久しぶりに口にした瞬間、蓮は「やっぱり、これだよな……」と、三日間の東京ですり減った神経がほどけていくのを実感した。
心からの安らぎに包まれる食卓。
その和やかな空気の中で、ハルがお茶をすすりながら、ふと嬉しそうに声を弾ませた。
「そういえば蒼さん! 聞いて頂けますか。蒼さんがいない間に、私、父に先生になりたいという事を相談したんです。そしたら父は、久子さんに相談してこいと言ってくれて応援してくれたんです!」
一気にまくし立てるようなハルに、蓮は目を見張りつつも温かく微笑んだ。
「それはよかった。ハルさん、ずっと先生になってみたいって言ってたもんね」
蓮の言葉に、ハルは一段と瞳を輝かせる。
「はい! それで昨日、久子さんに相談しに行ったんです。見習いでお手伝いさせて欲しいって。そしたら久子さんは、お手伝いお願いねって言ってくれたんです。なので蒼さんと同じ、私も先生になれたんです。見習いですけど!」
ハルは全身で喜びを表現するように、小さく両手を握りしめた。
蓮はその弾むような姿に目を細め、心からの祝福を口にする。
「おめでとうございます。では明日から、お互い先生だね」
「はいっ! 明日から、蒼さんと一緒に先生ができるのがすっごく楽しみです!」
ハルが誇らしげに、しかしどこか純粋な熱を帯びた瞳で微笑むその顔を、蓮も微笑ましく受け止める。村の時間も、こうして確実に前へ進んでいるらしかった。
翌朝。
神崎家から発つ前、朝の支度をするハルに目を向けながら、蓮は軽く手を挙げて告げた。
「ハルさん、俺は少し先に出かけてるよ」
「あ、はい! 準備したらすぐ追いかけますね!」
そう言い残し、蓮は一足先に神崎家をあとにして朝の山道を分教場へと向かった。
子どもたちが登校してくる前の、まだしんとした静寂に包まれた分教場。
板張りの床を、久子が一人で静かにほうきで掃き清めている。その掃き出す乾いた音が、ひんやりとした朝の空気に心地よく響いていた。
そこへ戸を引いて入ってきた蓮は、作業を邪魔しないようにそっと近づき、懐から小さな包みを取り出して教卓の端に置いた。
「……おはようございます、久子さん。三日間お休みを頂き申し訳ありませんでした。これ、お詫びにはなりませんが、東京のお土産です。香ばしくて美味しいお煎餅ですので、是非召し上がってください」
久子はハッと息を呑み、ゆっくりとほうきの手を止めた。
三日ぶりに見る蓮の姿に、ふわりと頬のあたりが熱を帯びる。さらに、自分だけに向けられた包みだと気づいた瞬間、久子の鼓動はわずかにそのリズムを乱した。
「ありがとうございます、奥野さん……。無事に戻られて、本当によかったです」
「はい、昨日の夕方に戻りました。久子さんも、昨日からハルさんと一緒に教壇に立っているんですよね? 無理はしていませんか?」
「はい、ハルちゃんがとても熱心に手伝ってくれるので……。あ、あの、これ、東京の美味しいお煎餅なんですね」
久子は少しだけ俯き加減になりながらも、上目遣いにそっと蓮の顔を見上げた。
その声音には、隠しきれない弾んだ響きが混じっている。
「そうなんです。お店の職人が一枚一枚ていねいに焼き上げた自慢の品だって言ってました。きっと気に入って頂けるかなと」
「……ふふ。そんなふうに言われたら、食べるのが楽しみになっちゃいますね」
二人の間に流れる、穏やかでどこか気恥ずかしい静けさ。
久子は教卓の端に置かれた包みにそっと指先を触れさせながら、わずかに目を細めた。
――その時、外から軽やかな足音が近づいてきて、板戸が開け放たれた。
「お早うございます……っ」
教室に入ってきたハルは、教卓を挟んで立つ蓮と久子の姿を見ると、パッとその場にぴたりと足を止めた。そして、久子の手元にある見覚えのない包みへと視線を走らせる。
ハルは教卓を挟む二人の空気感と、久子の手元にあるそれの意味を無言のうちに察した瞳が、わずかに揺らぐ。
「……蒼さん、それ」
ハルは小さく一つ瞬きをして、わずかに声を震わせながら尋ねた。
「ん? ああ、これのことかな。久子さんにも東京の土産を渡していたんだ」
ハルは小さく頷き、どこか作り込んだような、それでいて健気な笑みを浮かべて首をかしげた。
「そっかぁ……。私には『東京で一番美味い店で買ってきた』って特別みたいに言ってくれたから、てっきり私だけにお土産かと思っちゃいました。でも、久子さんにもちゃんと用意してあったんですね」
からかうような響きをあえて削ぎ落としたその声に、久子はほうきの柄からそっと手を離し、わずかに視線を落とした。
『――解析完了。ハルと久子の感情負荷が規定値を超えています。重大な対人関係リスクが――』
脳内で、A.I.D.A.が空気も読んだり読まなかったりしながら、冷徹な実況とリスク管理の講釈を容赦なく叩き込んでくる。
(なんで……お土産を買ってきただけで、俺はこんな朝っぱらから冷や汗をかかなきゃならないんだ……!)
蓮は心の中で盛大に頭を抱え、文字通り板挟みとなった微風の真ん中で、ただ静かに天を仰ぎたい衝動に駆られていたのだった。
その日の夜の一人の時間。
昼間の冷や汗が嘘のように静まり返った自室で、蓮は卓上の灯りのもと、A.I.D.A.に愚痴をこぼす。
「今朝の件、余計な実況をするなよ……」
『客観的な状況証拠に基づく防衛策ですが?』
呆れる蓮の視界の端で、A.I.D.A.のUIが淡い青の光を揺らす。
やがて、そんな音声のやり取りを小さく苦笑いで受け流しながら、蓮は窓の外の夜空へと目を向けた。
遠くの山並みに抱かれた小さな集落では、明日も子どもたちの元気な笑い声が響き渡り、ハルと久子は並んで教壇に立ち、それぞれの胸に秘めた温かな想いを大切に育んでいく――。
静かな夜気の中に広がる穏やかな日常の尊さをかみしめながら、蓮は優しく目を細め、心地よい眠りへと誘われていくのだった。
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