エピソード29 数字と実務の交差点
参謀総長室の張り詰めた空気から逃れるように、二人は津村の執務室へと滑り込んだ。
重厚な木の扉がしっかりと閉じられ、外部の喧騒が遮断された瞬間、それまで背負っていた巨大なプレッシャーの糸がプツリと音を立てて切れた。
「……っはあ……」
津村宗一郎は椅子に崩れ落ちるように深く腰掛け、右手で眉間を強く押さえながら、ぐったりと頭を左右に揺らした。
一国の陸軍トップである参謀総長を相手取り、一歩も引かずに交渉を完遂した疲労と、呆れが入り交じった盛大な溜息が執務室の静寂に漏れ出す。
「おい、奥野……お前というやつは……っ!」
顔を上げた津村の瞳には、怒気ではなく、底知れない化け物と対峙したような疲れと、どこか投げやりな苦笑が浮かんでいた。
だが、当の蓮はといえば、そんな重苦しい空気などどこ吹く風といった様子で、あくまで飄々と、涼しい顔でソファに腰を下ろしている。
その蓮の視界の端で、A.I.D.A.の青いプロンプトの光が微かに明滅した。
AIグラスのレンズ越しに、A.I.D.A.の冷静な音声が蓮の聴覚神経へと直接響く。
「蓮、参謀総長を完全に欺いた先ほどの演技、見事でした。ですが、楽観は禁物です」
トーンが瞬時に分析モードへと切り替わり、A.I.D.A.の警告が重なる。
「最後の別れ際、杉山元が発した微細な生体反応のデータに不自然なノイズを検知しました。彼の表情筋の微動や脈拍の揺らぎから算出した結果――彼がそのまま素直に約束した内容で動くとは限らないと判断します。表面的には承諾したように見せかけつつ、裏では別の思惑でこちらを騙す算段をつけている可能性が極めて高いと考えられます」
「……分かってるさ」
蓮は心の中で短く応じ、ソファの上でわずかに姿勢正しく座り直した。陸軍のトップがそう簡単に善意や約束だけで動くほど甘くないことは、最初から織り込み済みだ。杉山の腹黒い裏の顔を警戒しつつ、蓮は視線を正面の津村へと向けた。
「さて、津村さん。感傷に浸っている暇はありません。ここからが本番です」
その蓮の真剣な声音に、津村は疲労の色を追い払い、スッと背筋を伸ばした。
鋭い現実主義者の目に戻った津村が、テーブルの上に両手をついて蓮を凝視する。
「ああ……そうだな。お前のおかげで中佐への昇格と、フィリピン戦線の作戦指揮権をもぎ取ることはできた。だが、問題はここからだ」
津村の表情に、実務家としての強烈な苦渋の色が浮かぶ。
「中央で形だけの権限をもらったところで、現地の頑迷な現場司令官たちがこちらの指示通りに大人しく動くわけがない。精神論と『一気に突き進め』という焦燥感が骨の髄まで染みついた最前線の男たちに、どうやって無謀な正面突撃を諦めさせ、兵糧攻めへの転換を飲ませればいい……?」
それは、軍務局の枢要に身を置く津村が誰よりも痛感している、組織の構造的な壁だった。
精神論が支配する巨大な組織を、上からの辞令一枚で方向転換させることの難しさを、津村は誰よりも知っている。
だが、蓮は動じない。その視界の端では、津村の問いを予測していたかのように、A.I.D.A.が膨大なデータベースを猛烈な勢いで検索・解析し続けていた。
「現場指揮官たちの心理傾向、過去の作戦における失敗のデータ、そして彼らのプライドを刺激せずに合理的な作戦を呑ませるための誘導ロジックの構築が完了しました」
A.I.D.A.から送り込まれてくる膨大な情報と完璧な戦術論を頭脳に収めながら、蓮はあたかも自身の見解であるかのように、淀みなく語り始めた。
「正面から『突撃を止めろ』と言っても、彼らは絶対に聞き入れません。だからこそ、大義名分ではなく、冷徹な『数字と理由付け』を武器にするのです」
蓮は指を一本ずつ折りながら、具体的な作戦プランを提示した。
「現地の過酷なジャングルにおける補給線の破綻予測、このまま進軍を続けた場合に失われる兵員の数、そして物資の枯渇による自壊可能性。これらを客観的な数字として現場の司令部に突きつける。そして、中央からの強権的な命令ではなく、現地からの『戦術的要請』という形に偽装して作戦変更を行わざるを得ない状況を意図的に作り出すのです」
「……っ!」
津村の目が鋭く見開かれた。
蓮が語る論理の構築は、津村自身が独りで抱き続けていた仮説をさらに鋭利に研ぎ澄ましたものだった。
精神論を完全に排し、徹底的な数字と現実に裏打ちされた冷徹なアプローチ。
「ふざけた机上の空論かと思えば……お前、相変わらず底が知れないな」
津村は苦笑を漏らしながらも、その眼光には深く納得の色が宿っていた。
そこから、二人の本格的な激論が始まった。
蓮が提示する合理的な戦術に対し、津村は自らの実務経験に基づいた強烈なカウンターを浴びせる。
「待て、そこまで露骨に補給の破綻を突けば、現場の司令官たちは『自分たちの無能さを責められている』と勘違いして自尊心を傷つけ、かえって反発を強める恐れがある。やり方を変えろ。彼らの自尊心を立てるための名目を一つ噛ませるべきだ」
「なるほど……。では、補給の効率化と前線の維持能力を向上させるための『一時的な態勢立て直し』という名目を挟みましょう。それであれば、彼らの面子を潰さずに、実質的な包囲・兵糧攻めへと移行させることが可能です」
「ふむ……それならいけるか。だが、陸軍中央の強硬派が、その動きを察知して横槍を入れてきた場合の根回しはどうする? 俺一人では、省内の全方向を同時に抑え込むのは手駒が足りんぞ」
「そこは、杉山閣下から引き出した権限の範囲内で、あえて別の派閥の動きを利用して牽制の網を張ります。A.I.D.A.……いや、私の考えでは、海軍の動きを牽制するという大義名分を使えば、強硬派の目をそらすことができるかと」
執務室の空気は熱を帯び、二人の言葉が激しく交錯する。
軍の組織構造の裏も表も知り尽くした津村の卓越した政治的嗅覚と、未来のデータベースをバックボーンに持つ蓮、いやA.I.D.A.の圧倒的な知略が、幾度もの議論を経て完璧な噛み合わせを構築していく。
やがて、激しい議論の応酬が一段落し、執務室の窓から差し込んでいた強い西日が、ゆっくりと赤みを帯びた夕暮れの光へと変わっていった。
窓の外を赤く染める夕影の中で、津村は深く息を吐き出し、どっしりと椅子に寄りかかった。
何時間にも及んだ激論の末に導き出された作戦プランは、もはや絵空事ではなく、現実の軍部を動かすための綺麗な歯車として完成していた。
津村は先ほど衛兵が持ってきた自分の右肩に輝く中佐の階級章をちらりと見下ろし、それから、まっすぐに蓮を見据えた。
その顔には、先ほどまでの疲労や焦燥の色は微塵もなく、確固たる決意の光が満ちていた。
「……議論は尽くしたな」
低い、しかし力強い声で津村が呟く。
彼は椅子から立ち上がると、蓮の前へと歩み寄り、軍人として、そして一人の人間として、深く、綺麗に頭を下げた。
「……礼を言う、奥野。お前のおかげで、私はようやく手に入れた。精神論ではない、数字と現実に基づいた本物の戦いを……そして、無謀な突撃で命を散らすはずだった多くの兵士たちの無駄死にを、これで減らすことができる」
その真摯すぎるお礼に、蓮はわずかに目を丸くしたのち、静かに首を横に振った。
「頭を上げてください、津村さん。そんなことはありません。私一人の知恵では、この巨大な組織を動かすことはできなかった。貴方が、この狂気に満ちた組織のなかで、一貫して現実を見据え、守るべき命のために孤独に戦い続けてきたからこそ、この結果があるのです」
蓮の言葉に、津村は胸を突かれたような表情を見せたのち、乾いた、しかしどこか晴れやかな笑みを浮かべた。
「お前にそう言われるとなんだか照れ臭いが……まあ、いいだろう。これからは、二人でこの腐りかけた組織の舵を無理やりでも掴み直すとするか」
津村は窓の外の暗くなりゆく空を見上げ、ふと思い出したように振り返った。
「そうだ、奥野。今日まで激論を交わしたが、今後の連絡の取り方や、水面下の作戦のすり合わせをさらに密にする必要がある。今夜は、私の家に泊まって行け。妻にも、旨いものは出せないが、温かい夕飯を用意させよう」
突然の誘いに、蓮は少しだけ驚いたような顔をしたのち、静かに頷いた。
「……ありがとうございます。お言葉に甘えます」
「よし、決まりだ」
津村はコートを手に取りながら、力強く頷いた。
「明日からは、私も中佐としての権限を使った実務と、現場への工作で目が回るほど忙しくなるからな……。今日のところは、早めに引き上げるとしよう」
夕闇が完全に東京の街を包み込む頃、静まり返った陸軍省の廊下を、津村宗一郎と蓮いや、奥野蒼――二人の男の足音が、確かな響きをもって並んで進んでいくのだった。
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