エピソード28 南方の一手
参謀総長室の重苦しい静寂の中、杉山元は執務机の向こうから鋭い眼光を突き刺すように向けた。
「それで……海軍が喉から手が出るほど欲しがる情報とは、一体何だ?」
蓮はすぐには答えず、わずかに間を取って杉山の反応を測る。
その視界の端で、AIグラスのレンズの奥――装着していない人には見えない青い光が微細に明滅した。
『――ふむ、食いつきは上々ですね。蓮。ここはいっそ、相手の急所を直撃するカードを切ってみてはいかがですか?』
脳内に響くA.I.D.A.の、どこか煽るような、それでいて冷静な分析を聞き流しながら、蓮は静かにレンズ越しに表示されている内容を話し始めた。
「今、帝国軍が最も気にしている箇所―― オランダ領東インド、ボルネオ東岸――、バリクパパンに関する情報です」
「バリクパパン……っ!」
杉山の眉間がピクリと跳ねた。
史実では昭和17年1月23日に日本軍が秘密裏に上陸作戦を決行する、まさにその地名だった。
石油資源が眠る南方の一大拠点であり、陸軍の最高中枢である杉山にとっても最重要機密の一つである。
それを一介の若者がこのタイミングで暗に示してきたことに、杉山は背筋に冷たいものが走るような衝撃を受けていた。
杉山は値踏みするような目を向け、低く威厳のある声で問い詰める。
「待て。奥野君……あの地域の情勢は、我々も慎重に探らせている最中だ。なぜ君が、そんな奥地の事情にそのように詳しい?」
最高機密に触れるがゆえに、杉山は軽軽しい言葉を飲み込んでいる。だが、蓮は臆することなく、A.I.D.A.が用意した物語を淡々と語り始めた。
「私は以前、香港に住んでおりました」
「香港だと?」
「はい。父は現地で商売をしており、現地の商人や貿易商たちと深く懇意にしておりました。港湾関係の役人や各国の中枢とも太いパイプがあり、私自身も幼い頃からそうした大人たちのやり取りに接してきたのです。」
「そして父から受け継いだ人脈は、今でも残っています。その仲間たちの間に、独自の様々な情報が集まる情報網があります」
「……独自の情報網?」
杉山が怪訝な表情で繰り返すと、蓮は泰然と頷いた。
「はい。軍が公式のルートで把握するよりも早く、現地の生々しい動静や資源の状況が、その網を通って私のところに集まるのです」
その言葉の裏で、横に控えていた津村少佐は背中をいやな汗が伝い落ちるのを感じていた。
(こ、こいつ一体何者なんだ……!? どこまでが本当で、どこからが嘘なのか、そばにいる俺にすら全くわからん……っ!)
参謀総長を前にして微塵も動じない蓮の底知れなさに対し、胃がねじ切れるような思いを覚える。
「その情報網の正体とは……いったい何を――」
杉山がさらに踏み込んで詮索しようとした瞬間、蓮は薄く微笑み、その追求を巧みにかわした。
「閣下、秘密だからこそ、閣下のお役に立てる価値のある情報が集まるのですよ」
それを聞いた杉山は、これ以上の詮索が無意味だと悟り、執務机に体を預けて低く呟いた。
「……なるほど。君が津村を伴って私に会いにきた、ただの技術者ではない理由が、少し分かった気がするぞ」
杉山の視線は、もはや「個人の正体」ではなく、「この男がもたらす圧倒的な情報の価値」へと完全に固定されていた。
蓮は更に一歩踏み込み、声を潜めて告げる。
「実はここだけの話ですが――二十四日未明、バリクパパン沖に侵入する我が軍の輸送船団に対し、米軍の駆逐艦隊が夜間奇襲を仕掛けてきます」
「なに……? 敵の水上部隊が、我が方の部隊へ突入してくるというのか」
杉山の眉が険しく寄る。蓮は怯むことなく、淡々とその脅威を解き明かしていく。
「奴らは闇夜に乗じて高速で接近し、無防備な輸送船団を狙い撃つ構えです。このままでは、多くの船が沈められ、陸軍の揚陸作戦に甚大な被害が出ることになります」
「ふむ……。敵の動静を、そこまで正確に把握しているというのか」
「はい。ですが、事前に周辺の警戒を厳重にし、駆逐艦隊の迎撃態勢を徹底しておけば、奴らの夜間奇襲を逆に返り討ちにし、被害を最小限に抑えることができます」
杉山は深い皺を刻んだ眉間を抑え、蓮の言葉を一つずつ脳内で軍事計画と照らし合わせていた。
情報の具体性と、それがもたらす戦術的優位の大きさを理解した瞬間、杉山の顔から政治的な仮面が消え、剥き出しの野心的な笑みが浮かんだ。
「……なるほど。確かに海軍にとっては、喉から手が出るほど欲しい情報だな」
陸軍が海軍を政治的に圧倒するための、最高にして最悪の毒薬を手に入れたことを確信した瞬間だった。
杉山は執務室の空気を一変させる重々しい声で、二人に告げる。
「奥野君、おめでとう。津村は今この時点から中佐に昇格だ」
蓮は静かに、かつ丁寧に深く頭を下げてお礼を言う。
一方、蓮の怪物っぷりにすっかり振り回されている津村は、青ざめた顔のまま背筋を伸ばし、必死の声で応じた。
「はっ……! ありがたき幸せです! 閣下のお役に立つべく、この身を捧げて励みます!」
「うむ。よし、早速この情報を持って海軍のところに行ってくるとしよう」
杉山は満足げに頷き、政争の勝利を確信してほくそ笑んだ。
その背中に向けて、蓮は静かに切り出す。
「閣下。もう一点だけお願いしたいのですが――新型電探に関して、現在3個製造しております。そのうちの1個は、ぜひ海軍の方にも渡してやってください。バリクパパンで役に立つはずですので。」
バリクパパンでの戦いで日本軍全体に電探を活用してもらい、史実の甚大な被害や無駄な犠牲を少しでも避けてほしいという、純粋な願いからの言葉だった。
だが、杉山は穏やかな笑みを浮かべたまま、しかしその奥底に冷徹な打算を宿して頷いた。
「ほう……分かった。渡しておいてやろう」
杉山は穏やかに笑った。
その笑顔を見て、蓮はなぜか一瞬だけ違和感を覚えた。
――だが、その理由を、この時の蓮はまだ知らなかった。
蓮の善意と、軍上層部の泥臭い権力闘争が静かにすれ違う不穏な余韻を残し、部屋の重い空気が静かに幕を引いた。
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