エピソード27 中佐誕生の代償
東京――参謀本部。
陸軍の権力の中枢たる杉山元の執務室は、重苦しい静寂と圧迫感に包まれていた。
重厚な革張りの応接セットを中心に、磨き上げられた調度品が整然と並んでいる。
重い扉が開き、杉山元を先頭に、蓮と津村少佐の三人が揃って室内に足を踏み入れた。
杉山は悠然と執務机の向こう側へと回り込み、威風堂々とした態度で腰掛けると、威圧的な眼光を鋭く光らせて二人を見据えた。
中央に立つ青年――蓮がかけているAIグラスのレンズの奥で、常人には見えない微細な青い光が明滅していた。
『最適な交渉手法を検討中。対象の政治的欲望指数:極高。重要局面と認められる為、思考フレームを交渉モードに移行します。蓮、冷静沈着な対応をお願いします』
脳内に直接響くA.I.D.A.の音声を聞きながら、蓮は表情一つ変えず、背筋を正して立っていた。
杉山が重々しい声で口を開く。
「……さて、奥野君と言ったか。お願い事とはなんだ」
杉山がそう尋ねると、蓮は一切の躊躇なく静かな声で言い放った。
「閣下……私の願いは津村少佐を中佐へ昇進して頂き、参謀本部の閣下直属の補佐役として、フィリピン戦線の作戦責任者として指揮を取る環境を頂きたいのです。」
一瞬、執務室内の空気が凍りついた。
杉山が眉をひそめ、信じられないものを見るような目を向けた。
「……津村を?」
「はい。中佐への昇進を」
「そして私の直属補佐として使え、と?」
「はい」
「さらにフィリピン戦線まで任せろと言うのか?」
たたみかける杉山の問いに、蓮は悪びれもせず淡々と頷いてみせた。
その横で、津村少佐の顔面は蒼白を通り越して土色になっていた。
喉の奥で悲鳴を噛み殺しながら、津村の心の中は大荒れに荒れていた。
(おいおいおい、奥野、何を言ってるんだ。そんな話はきいてないぞっ!私を変な形で巻き込まないでくれ
!)
津村の必死な心の叫びなど知る由もなく、杉山は苛立ちを露わにして机を叩いた。
「バカなことを言うな! 津村ごとき一将校をそこまでの要職に就かせるなど、軍の階級秩序を根底から覆す暴挙だ! なぜそこまでこの男を厚遇せねばならん!」
杉山の怒声に対し、蓮は微動だにせず、静かに言い放った。
「私は過去に津村さんに大恩があります。そしてその後も津村さんは私を信じ、支えて頂きました。私が信頼できる軍人は、津村さんただ一人なのです」
あまりにも真っ直ぐで堂々とした蓮の言いぶりに、津村少佐は
(いや、だからそんな事実微塵もないぞ!?やめてくれ、奥野……)と顔面蒼白した顔になる。
だが、執務机の向こうでその言葉を受け止めた杉山の脳裏には、まったく別の政治的解釈が巡っていた。
(――なるほど。この革新的な新型電探をぶら下げて津村の昇進を願ってきたのか。それであれば、津村を手元に置き、厚遇してやることは、この計り知れない才覚を持つ青年を完全に掌握するための最も確実な鎖になるというわけか)
杉山の瞳に、狡猾な計算の光が鋭く宿る。
だが、天下の参謀総長として、表立って即座に頷くわけにはいかなかった。
「ふん……だがな、奥野君。いくら君の功績が大きいとはいえ、津村を中佐に引き上げ、そして重要ポストを与えるとなれば、参謀本部内の他派閥からの反発は免れん。私としても相応の危険を冒す行為になるのだ」
「なるほど」
と蓮は薄く微笑むと、さらに一歩、杉山の間合いへと踏み込んだ。
「もし先程の要求を通していただけるなら、もう一つ、閣下に『お土産』がございます」
「……土産だと?」
杉山の目が怪しく光った。
「その土産とやらは、私が危険を冒すに見合うだけの価値があるのだろうな?」
探るような杉山の視線に対し、蓮は焦らすように一拍置き、最も効果的なタイミングでその言葉を投げかけた。
「閣下、海軍が喉から手が出る程欲しい秘匿情報が御座います」
杉山の眉がピクリと跳ねた。
「海軍が喉から手が出る程欲しい……だと?」
「はい。その秘匿情報を、閣下から海軍へ渡して頂きたいのです。」
「……つまり、私から海軍への貸しにするということか。」
「おっしゃる通りです。閣下」
一瞬の沈黙が執務室を支配した。
陸軍と海軍の主導権争いは、いまや限界に達していた。
予算の奪い合い、物資の配分、作戦の主導権――あらゆる場面で海軍に後れを取りたくない杉山にとって、「海軍が喉から手が出るほど欲しがる情報」を自分が握り、海軍に貸しを作るという提案は、杉山にとって甘美な毒薬だった。
(海軍の奴らに貸しを作れる……。それも、私個人の手から提供する形をとれば、陸軍内での私の発言力は絶対的なものとなる。軍部全体の権力図を塗り替えることすら可能だ……!)
杉山は軍部全体で優位に立つための政治的利得を瞬時に計算し、欲を隠さずニヤリと笑った。
「くっ……くははは! 面白い、実に面白いぞ奥野君!」
杉山は机を叩いて豪快に笑うと、獰猛な肉食獣のような瞳で蓮を見据えた。
海軍を政治的に掌握・懐柔するための餌として、蓮の要求を飲むことを決めた瞬間だった。
「良かろう! お前の土産が本当に海軍にとって価値のあるモノなら、津村中佐の誕生だ。私のそばに置きフィリピンでの作戦指示権も与えよう。その代わり……その『土産』とやら、決して私を失望させるなよ?」
「お約束いたします、閣下」
蓮は完璧な礼儀正しさで一礼した。
その横で、津村少佐は「中佐」という新しい階級の重みと、これから背負わされる政治的思惑の恐ろしさに膝を震わせ、心の中で絶叫していた。
(終わった……俺の真っ当な軍人生活が、完全に終わった……!)
AIグラスのレンズの奥で、A.I.D.A.の青い光が静かにその先のことを見据え点滅を続けていた。
山奥の分教場で二人の女性が案じる男は、いまや帝国の権力の中枢を、その手の中で鮮やかに踊らせていた。
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