エピソード26 夕日の重なり
朝の光が分教場の板張りの床に、細長い斜光となって差し込んでいた。
静まり返った教室の中に、コトコトと黒板を擦る小さな音だけが響いている。
久子は手に持った布巾で、昨日の授業の文字をていねいに拭い去っていた。
白粉の煙が朝日に照らされて粉雪のように舞う。
拭き終えた黒板に向き直り、久子はぽつりと息を吐いた。
教卓の上に置かれた出席簿の横には、蒼がいつも使っていたチョークホルダーがぽつんと取り残されている。
彼が戸籍の再発行の為に東京へ向かってから、今日で二日が過ぎていた。
たった二日――されど、彼が不在の分教場は、まるで芯の抜けた灯籠のように寒々と感じられた。
蓮がここにいるだけで、どれほどこの場所が温かく、活気に満ちていたのかを、久子はこうして実感せざるを得なかった。
「……おはようございます、久子さん」
控えめなノックの音とともに、引き戸が静かに開いた。
敷居の向こうに立っていたのは、ハルだった。
彼女は、緊張で背筋をぴんと伸ばし、大事そうに両手で鞄を抱えている。
「ハルちゃん……どうしたの、こんなに早くから」
「久子さん、あの……私、先生の仕事にとても興味があって……。もしよかったら、今日だけでも分教場の子供たちのお手伝いをさせていただけないでしょうか」
澄んだ瞳で自分を真っ直ぐに見つめながらも、どこか遠慮がちに言葉を紡ぐハルに、久子は一瞬、息を詰めた。
ハルの瞳に宿るひたむきさには、微塵の偽りもなかった。自分より若く、素直な彼女が抱く純粋な熱意に、久子は嘘偽りのない敬意を抱かざるを得なかった。
「……そうね。今日と言わず、お手伝いしてくれるなら何時でも大丈夫よ。とても助かるわ」
久子は穏やかな笑みを浮かべ、ハルを迎え入れた。
始業の鐘が鳴ると、分教場には元気な子供たちの声が満ちた。
久子は子供たちの前に立ち、ハルを紹介した。
「今日、ハルちゃんが先生の補助として、みんなの勉強を手伝ってくれることになりました。分からないことがあったら、ハル先生にも聞いてね」
「はーい!」という子供たちの元気な返事に、ハルはぱっと頬を赤らめ、深々と頭を下げた。
最初は教壇の脇で緊張のあまり指を絡めていたハルだったが、いざ授業が始まると、体をかがめて子供たち一人ひとりのノートを覗き込んだ。
「ハルちゃん先生、ここが分からない」
「ここはね、こうやって指で数えてごらん? 一、二、三……ほら、できたでしょう?」
「あ、本当だ! ハルちゃん先生、すごい!」
子供たちに頼られ、無邪気な笑顔を向けられるたび、ハルの表情から緊張が消え、温かな温もりが宿っていく。久子は黒板に文字を書きながら、横目でハルの姿を見つめていた。
(この子は……本当に、子供たちと接するのが好きなのね)
一人の教育者としての感銘が久子の胸に湧き上がっていた。ハルには、人を包み込む素朴な優しさがある。それは教師として、かけがえのない資質だった。
昼の休憩時間になり、子供たちが校庭へ飛び出していった後、二人は誰もいない教室の椅子に腰を下ろした。
お茶の湯気が、のどかな小春日和の空気に溶けていく。
「お疲れ様、ハルちゃん。とても初めてとは思えないくらい、しっかり教えられていたわ」
「いいえ……久子さんのお手本があったからです。でも、すごく楽しかったです。子供たちが『できた』って笑ってくれるの、胸がキュッとするくらい嬉しくて」
ハルは自分の膝の上で小さな手を握りしめ、感慨深そうに呟いた。
久子は湯呑みを両手で持ちながら、気になっていた問いを静かに投げかけた。
「ハルちゃんは……どうして、先生になりたいと思ったの?」
その問いに、ハルは少しも躊躇しなかった。
誤魔化すことも、恥ずかしがることもなく、ただまっすぐに久子の目を見つめ返した。
「……蒼さんが子供たちを見ている時の、楽しそうな笑顔に憧れたからなんです」
胸の奥を、冷たい刃で突かれたような気がした。
ハルの言葉には、一片の濁りもなかった。
蒼が、子供たちに向ける柔らかい眼差し。
その横顔の美しさと温かさに心を奪われ、彼の歩む道を自分も追いかけたいと願った――そんな、純粋すぎるほど純粋な恋心が、まっすぐな言葉となって久子の鼓膜を揺らした。
ハルのストレートすぎる蒼への想いを直に聞いた瞬間、久子の胸は激しく締め付けられる。
目の前の少女が抱く純粋な恋心をストレートに聞かされた鋭い痛みだった。
指先が微かに震えそうになるのを、久子は湯呑みの温もりに押しつけることで必死に耐えた。
胸の奥で渦巻く切なさを、表情の表に出してはならない。目の前で純粋な瞳を輝かせている少女に対して、年上の自分が醜い感情を見せるわけにはいかなかった。
久子は小さく息を吸い込み、波立とうとする心を力ずくで鎮めると、柔らかく穏やかな笑みを唇に浮かべた。
「……そう。きっと、良い先生になれると思うわ」
「久子さん……!」
ハルはパーッと顔を輝かせ、嬉しそうに頭を下げた。
その後も久子は、ハルに教科書の進め方や、子供たちの集中力を切らさないコツなどをていねいに教え続けた。
ハルは久子を「先生」として深く尊敬し、メモを取りながら熱心に耳を傾ける。
敵対するのではなく、教える者と学ぶ者として、二人の間には清々しい師弟関係が芽生え始めていた。
だが、ハルに教えれば教えるほど、皮肉にも久子の胸には別の思いが強く刻まれていく。
ハルのまっすぐな恋心と向き合うことで、久子は自分自身の内面を否応なく突きつけられていたのだ。
(私は……どうなの?)
ただの同僚として、あるいは協力者として側にいるだけでは、もう自分を偽りきれない。
ハルの純粋な想いに触れたことで、久子は
「自分がいかに蒼の帰りを待ちわび、彼という存在を深く愛してしまっているか」
を、逃げ場のない事実として自覚させられていた。
やがて放課後となり、橙色の夕日が開け放たれた窓から差し込み、教室を赤く染め上げた。
子供たちを送り出し、後片付けを終えたハルが、ふと手を止めて窓の外を見つめた。山並みの向こうへ沈んでいく夕日を背景に、ハルがぽつりと呟く。
「……蒼さん、まだ帰ってきませんね」
久子は手を止め、ハルを見た。
ハルは寂しげに肩を落とし、横顔を陰らせている。
「東京って、そんなに遠いんでしょうか?」
「戸籍の受け取りだけなら……少し長いわね」
久子の声も、自然と低くなった。
単なる書類の受け取りだけであれば、二日やそこらで帰ってこないのは少し不自然だ。
蒼が何か別の、自分たちには窺い知れない危険な渦の中に身を置いているのではないかという予感が、久子の胸を重く圧迫する。
「……蒼さん、大丈夫でしょうか」
ハルが小さく、祈るように胸の前で手を握りしめ、心配を漏らした。
「……そうね」
久子もまた、短くそう答えるのが精一杯だった。
沈みゆく夕日の中、同じ男を想い、その無事を案じる二人の影が、板張りの床の上に静かに重なり合っていた。
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