エピソード22 三日間の猶予
翌朝。
神崎家の古い居間に、温かな味噌汁の香りとご飯の湯気がふわりと漂っていた。
食卓を囲むのは、主人である神崎、妻のトメ、そしてハル、そして未来から来た蓮の四人。
「……それで、知り合いの陸軍少佐に連絡を取りましてね。戸籍を再発行してもらえることになったので、これから貰いに行ってきます。三日ほど家を空けますが、代用教員の仕事は昨日、三日ほど休む旨をすでに伝えてありますので」
蓮が穏やかな口調でそう告げると、神崎とトメは箸を止め、顔を見合わせた。
彼らは、ハルを救った際に蓮がこの昭和の世界の常識を超えた未知の技術を持っていることを知っている。
それゆえに「陸軍」という単語が出ても奇異な恐れを抱くことはなく、心の中で(やはり、軍部の関係者だったんだな)と密かに納得していた。
神崎は静かにうなずくと、どこか父親のような落ち着いた声で言った。
「そうか……。わかった、気をつけて行ってくるんだぞ」
「はい。ありがとうございます」
蓮が頭を下げると、隣に座っていたハルが、ふと茶碗から目を離して寂しげな睫毛を伏せた。
「……東京に行かれるんですね。…」
ハルの瞳には、隠しきれない寂しさの色が浮かんでいた。
蓮は優しく微笑み、彼女を安心させるようにハッキリと言った。
「ああ、戸籍の手続きだけだからね。……三日後には、ちゃんと戻るよ」
ハルはその言葉を聞いて、ホッとしたように小さく息をつき、「はい。待ってますからね」と柔らかく微笑んだ。
朝食の片付け音が遠ざかり、静けさを取り戻した神崎家の二階。
蓮が自室で旅の支度をしていると、不意に、控えめながらもどこか弾んだトントンというノックの音が響いた。
「――どうぞ」
声をかけると、古びた障子が開き、ハルが少し照れくさそうに顔を覗かせた。
その手には、綺麗に畳まれた蓮のシャツが丁寧に抱えられている。
「……あの、お邪魔します!」
部屋に入ってきたハルは、少し気合を入れたような、どこか凛とした声で、わざとらしく胸を張ってみせた。
朝の光が差し込む中、彼女は精一杯の明るい笑顔を作ろうと努めている。
「あのですね、奥野さん! 私、考えたんです!」
(……ん? どうしたんだ急に)
突然のハイテンションな切り出し方に蓮が目をパチクリさせると、ハルはさらに畳の上の距離を少し詰めて、熱心に語り始めた。
「東京って、すごく遠いですし、なんだか圧倒されちゃいそうじゃないですか? でもきっと、美味しいものもたくさんあるんですよね! 例えば、甘いお団子とか、噂に聞くハイカラなお菓子とか!」
「あ、甘いもの、……?」
「はい! ですから、お仕事で東京に行かれるなら……その、お土産はぜひ甘いものでお願いしたいんです! 重すぎない、壊れないやつがいいかなぁ……そうだ、持ち歩きできるお団子なんかが嬉しいです!」
一生懸命に楽しい話題を探して、矢継ぎ早に明るく喋り続けるハル。
しかし、その少し背伸びした口調や、力んだ笑顔の裏側には、「また遠くに行ってしまう寂しさ」を必死に隠そうとする健気なカラ元気が隠されている。
――寂しさを悟られないように、あえてお団子のおねだりの形を借りて場を和ませようとしているのだ。
その微笑ましくも愛らしい空回りに、蓮がふっと胸を突かれたその瞬間――。
「警告:蓮。あなたの客観的にみないといけないという抑制思考回路が「ハルの全力の背伸びと防衛的おねだり行動」の検知により反応。なお、ハルの言動エネルギー値から、高度な情緒的カモフラージュを観測しました」
視界の端で、A.I.D.A.が無機質な生体解析ログを突きつけてくる。
(頼むから、空気の読めない実況データを出さないでくれ……!)
心の中で盛大にツッコミを入れつつ、蓮はあえてからかうような野暮なことは言わず、穏やかで優しい声音を作ってハルの言葉を受け止めた。
「お団子、か。……わかりました。東京で一番美味いお土産を探して帰ってきます。ですので、そんなに心配しないでくださいね」
すると、ハルはピクッと反応し、慌てたようにパッと両手を横に振ってみせた。
「し、心配なんてしてませんっ! 私が気にしてるのは、あくまで美味しいお団子のことですからね!」
恥ずかしさを誤魔化すようにふっと胸を張り、ハルは精一杯の明るい笑顔を向ける。
「じゃあ、美味しいお団子を楽しみにお待ちしていますからね! 気をつけていってらっしゃいませ!」
元気よく蓮の机にシャツを置くと、ハルはそのまま軽やかな足取りで部屋を去っていった。
その後姿を見送りながら、蓮は小さく息をついて旅立ちの荷物をまとめるのだった。
神崎家を後にした蓮は、秩父の集落から木炭バスに乗り込んだ。
車内に漂う独特の煤の匂いや、代用燃料エンジンの不規則な唸り音。
窓の外には、山あいの凍てついた雪景色や、モンペ姿に身を包んで淡々と行き交う農民たちの姿が流れていく。
さらにローカル線の煤けた蒸気機関車へと乗り継ぎ、秩父の山々から平野部へと抜けていくにつれて、車窓の景色は少しずつ変貌していった。
のどかな農村から、徐々に民家が増え、軍需を支える工場や疎開の気配を漂わせる沿線風景へと切り替わっていく。
そして、終着駅に降り立った瞬間――。
地方の静けさとは一変した、張り詰めた喧騒と膨大な人波が蓮を飲み込んだ。
モルタル造りの無機質な建物群、国防色の軍服姿の男たち、憲兵の鋭い眼光。
町全体が「戦時下の緊張感」という重苦しい空気で塗りつぶされている。
高い塀と厳重な衛兵に守られた日本軍の中枢――市ヶ谷の陸軍省・参謀本部の威容が、視界の端に重々しく捉えられた。
厳重な警備の受付を抜け、ロビーの待合スペースで津村少佐の迎えを待つ間も、周囲の空気はピリピリと張り詰めていた。
慌ただしく書類を抱えて走り回る若手将校たち、険しい顔で密談を交わす高官たちの足音が響く。
「周辺の将校の平均ストレス値は極めて高い状態です。蓮」
視界の端で、A.I.D.A.が淡々とデータを紡ぎ出す。
「交感神経の緊張度を示すバロメーターの推移から、前線への増派または作戦失敗の隠蔽工作と推測されます。相変わらず効率の悪い組織運営ですね」
「……頭の中で言うなら同意するさ」
蓮が小さく呟いたその時、慌ただしい足音とともに険しい顔つきの津村がロビーに現れた。
「待たせたな、奥野」
そのまま津村に案内され、二人は奥まった自室へと足を踏み入れる。
扉が閉ざされると、津村は机の引き出しから一枚の真新しい書類を取り出し、蓮に差し出した。
「まずは、お前の戸籍だ。お前から教えてもらっていた『奥野蒼』として登録しておいたぞ。戦時下で役所もバタバタしており、懸念していたよりも手続きが簡単で助かったよ」
「……ありがとうございます、津村少佐」
蓮は差し出された書類を受け取り、静かに一礼した。
津村は腕を組み、鋭い視線を蓮に向ける。
「これで、お前の望みは聞いてやったぞ。昨日話した研究室や、お前が要求した資材等もすべて用意してある。……だが、本当に新型電探が出来るんだろうな?」
津村は息をつき、歯痒そうに続ける。
「我々も日夜研究を重ね、去年の十一月に『一号一型電波探信儀』を開発し、実戦配備・設置も行った。だが……故障ばかりで、現場からはほとんど使い物にならないと悲鳴が上がっているのが現実だ」
当時の日本軍が抱える技術的限界と焦燥。
その告白に対し、蓮はA.I.D.A.からの指示をメガネ越しで受けると、微塵の揺らぎもない声音で言い放った。
「故障などしませんよ。低高度から高高度までを確実にカバーでき、かつこの物資不足の中でも量産できるものを作ります」
その圧倒的な自信に、津村の眉間のシワが深まる。
「……大きなことを言うな。約束は3日だ。お前が言ったバリクパパン沖に米軍が攻めてくる日まで、あと5日。4日目には海軍側に秘匿情報を渡さないと、到底間に合わないぞ」
「問題ありません」
蓮は静かに微笑み、津村の目を真っ直ぐに見据えた。
「明日には、ご覧に入れますよ」
そのあまりに悠然とした態度に、津村は完全には信用しきれない不審の目を向けつつも、その背後にある未知の脅威と期待に気圧されるようにうなずいた。
「……わかった。では、お前の研究室へ案内する」
二人は重い扉が並ぶ廊下へと歩み出し、国家の命運を揺るがす「研究室」へと足を踏み入れていくのだった。
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