エピソード21 夜半の密約、磁針の行方
昭和十七年一月中旬――。
窓の外には重苦しい夜気が漂い、廊下の向こうからは、遠く軍靴の足音が規則正しく響いていた。
一輪の花が音もなく消え去った、あの不可解な光景の余韻。
喉の奥が張り付いたように声が出ず、陸軍少佐・津村はポカンと口を開けたまま硬直していた。
脳内で「海軍軍令部総長から聞いた真珠湾での謎の光――対空砲火の消滅現象」と「たった今、目の前で起きた常軌を逸した現象」が、暴力的な勢いで結合する。
額にじっとりと浮かんだ冷や汗を乱暴に拭い、津村は先ほどの余裕を完全に失った戦慄の目で蓮を睨み据えた。
血の気のない声が、静まり返った部屋に漏れる。
「まさか……あの時、海軍が言っていた謎の光の数々……お前の仕業か……!」
下手な返答をすれば国家を脅かす技術を持つ危険人物としてその場で拘束され、激しい尋問を受けるかもしれない――そんな逼迫した状況であっても、蓮の表情は微動だにしない。
肯定も否定もせず、ただ冷徹かつ穏やかな笑みを浮かべたまま、静かに問い返す。
「津村さん、私の話を……信じて貰えますか?」
震える胃の腑を意志の力でねじ伏せ、津村は帝国軍人としての理性を急速に取り戻していく。
「……ふざけた野郎だ。だが、これを見せられてなおハッタリだと言い張れるほど、私の頭は耄碌していない」
計画に乗るための条件として説得の材料を要求する津村に対し、蓮は出自の一切を煙に巻いたまま、静かに口を開いた。
「では、まずは秘匿情報からとなります」
そして、昭和十七年一月下旬に控える『バリクパパン沖海戦』に向けて米国が準備している作戦内容を、自身の持つ極秘情報として突きつけた。
「一月二十三日の夜半、場所はボルネオ島の要港、バリクパパン沖。連合軍の残存艦艇およびオランダ軍の潜水艦部隊が、密かに湾外へ集結します」
津村の眉間が険しく寄る。米軍やオランダ軍の動向など、大本営でさえ正確な足取りを掴みあぐねている最中だった。
「……具体的な部隊名と、その攻撃手段は」
「米アジア艦隊の駆逐艦四隻――ジョン・D・フォード、ポール・ジョーンズ、パーロット、ポープが、夜陰に乗じて湾内へ奇襲をかけます。狙いは、日本軍が上陸直後に接収を計画している石油施設と、湾内に停泊中の輸送船団。彼らは魚雷の連続斉射と艦砲射撃によって、一瞬にして海上交通網を麻痺させる手はずを整えています」
淡々と紡ぎ出される部隊の規模、そして敵の急襲戦術。
それは、大本営の情報参謀であれば喉から手が出るほど欲しがる、生々しいまでの秘匿情報そのものだった。
あまりの具体性と正確さに、津村は息を呑み、思わず身を乗り出す。
「……いったい、何故だ。何故お前が、我が日本の上陸作戦を。そして米国の秘匿情報をそこまで詳しく知っているんだ……!」
「情報元がどこであるかは重要ではありません。この情報を、杉山参謀総長が海軍に渡すことの価値を考えて欲しいのです」
蓮の言葉を受け、津村の頭の中で急速に現実のパワーバランスの計算が始まった。
日和見主義で知られる参謀総長・杉山元であれば、この情報をどう扱うか。
高遠な国家の行く末を憂うなどではない。
他ならぬ、海軍に対して圧倒的な優位に立てる絶大なる「手柄」――自身の権力と地位を盤石にするための、またとない出世のカードとなる。
その事実に気づいた瞬間、杉山がこの手柄に飛びつかないはずがなかった。
(なるほど……これほどの材料があれば、あの杉山元を動かすのは容易い。海軍に貸しを作り、陸軍内での自らの権勢を誇示するため閣下は間違いなくこの話に食いつくはずだ)
杉山の腹積もりを完全に見抜いた津村の脳内で、パズルが音を立てて噛み合う。
計算づくの冷徹な納得が、津村の瞳に強い覚悟の光を宿させた。
さらに、蓮は津村を見据えて静かに告げる。
「杉山参謀総長はこんな秘匿情報を持って来れる津村さんをそばに置きたいと思うはずですよね。強硬派との衝突より価値があるわけですから」
その言葉を聞き、津村は内心で深く頷いた。
(確かにな。俺がその立場でも、間違いなくそうする)
組織人としての生存戦略と国家の利益が、完全に一致した瞬間だった。
そして蓮は間髪入れず、秘匿情報の話から技術の話へと繋げる。
「そして技術の方ですが、私は米国に匹敵する性能の電探を開発することが可能です」
日本軍が喉から手が出るほど欲し、しかし絶望的な技術格差に喘いでいた敵国の核心技術。それが目の前の男の手にあると知り、津村は激しい衝撃に打ち震える。
さらに蓮は、冷徹に言い放つ。
「津村さん、あなた方が求める電探を開発するために、3日間、研究室と材料を提供いただきたい。……最新の電探そのものがあれば、杉山参謀総長に会うことは出来ますよね」
日本軍が欲してやまない電探の実物を持ち込めば、最高権力者である参謀総長・杉山元を一発で釣ることができる、という余りの壮大な論理に、津村は圧倒された。
壮大すぎる話の内容に頭の処理が追いつかないが、とにかく蓮が国家の命運を握る極めて重要な人物であると悟った津村は、腹をくくった顔で力強く告げる。
「わかった。私の権限で、3日間、陸軍の一角の研究室を貸してやる。お前の身分は私が臨時研究員という形で雇う手続きを行なってやる」
その緊密な空気の裏で、蓮の視野の端――AIグラスの視覚インターフェースに、A.I.D.A.からの指示が静かに点滅する。
電探の開発や未来予測を淡々とこなす超然とした天才が、次の瞬間にはシステムの助言に従って、少しトーンを落とした。
「ありがとうございます。では、その前に、陸軍将校の貴方に一点だけお願いしたい。……実は戸籍が欲しいのです。ある事情から戸籍を無くしてしまい、少し暮らしづらいので……なんとかなりませんでしょうか。」
数々の信じがたい現象を見せた直後に発せられた「戸籍を無くした」などという見え透いた嘘。
あまりに人間臭く、そして出所の知れない不気味さを隠そうともしない要求に、津村は深い複雑怪奇な表情を浮かべる。
(……戸籍を無くしたなどと白々しい嘘を平然とつくこいつは、いったい何者なんだ……)
しかし、ここで詮索しても底知れぬ煙に巻かれるだけだと悟った津村は、これ以上深く追求することを諦め、ため息交じりに全てを受け入れた。
「わかった、その日までに手配してやる」
窓の外の闇はさらに深く、静まり返っている。
常軌を逸した技術と冷徹な知略が交錯する密談の果てに結ばれたのは、単なる利害の一致ではない。
それは、のちに日本という国家の運命を背負って歴史の歯車を激しく動かしていく、二人の男による――固い絆の原点であった。
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