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碧のA.I.D.A. ―2050年のステルス戦闘機、昭和16年へ―  作者: 明日葉 優太
南方戦線編

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エピソード17 陸軍将校と来訪者

東京・市ヶ谷の陸軍省。

その重厚な建物の廊下の窓の外から、けたたましい喧騒が夜気を震わせて突き抜けてきた。


「――万歳! 帝国陸軍、マニラ入城!」


「大捷報だ! 続け、この勢いで米英を叩き潰せ!」


提灯行列の群れが掲げる赤紙の灯りが、闇夜に不気味な揺らぎを落とし、遠くのラジオからは祝賀の軍歌が高らかに鳴り響いている。

国民的熱狂の波が、日本の中心部を完全に飲み込んでいた。


だが、軍務局の奥深くにある閉ざされた会議室の中は、外の狂騒が嘘のように冷え切っていた。

淀んだ空気が重く澱み、息をするのさえ躊躇われるほどの重圧が満ちている。


卓を挟み、皇道派の気脈を引く強硬派の参謀が、握り拳で分厚いマホガニーの机を激しく叩いた。


「見よ、米比軍は崩壊したのだ! マニラは落ちた! このまま南方全域を疾風怒濤のごとく制圧し、敵の戦意を完全に叩き折るのだ!」


その声に同調する威勢の良いうめき声と頷きが部屋を支配する。だが、その楽観論と精神論の応酬の中心で、一人の男が冷ややかな視線を投げかけていた。


軍務局の制服をまとった津村宗一郎である。

津村は手元の戦況書類からゆっくりと目を上げると、底冷えのする眼差しで卓の向こうを見据えた。


「……戦意を叩き折る、ですか」


低く、静まり返った会議室に響く津村の声には、微塵の熱狂もなかった。


「現地部隊からの電報を読まれていないのですか。補給線はすでに限界を迎え、ジャングルの泥濘と飢えで前線は消耗しきっている。なにより、米国の真の工業力が本格的に稼働するのはこれからだ。このまま物量戦の泥沼に踏み込めば、我が方の持久力など半年ももたない」


論理的かつ冷徹なその指摘は、会議室の空気を一瞬にして凍りつかせた。


「なにを言うか、津村!」


強硬派の参謀が顔を真っ赤にして怒声を飛ばす。


「緒戦の勝利に水を差すか! 相変わらずの腰抜けの敗北主義者め、前線の士気を挫く気か!」


「――現実の数字から目を背けた勝利など、ただの幻覚です。」


津村が冷たく言い放った言葉に、会議室中から敵意に満ちた罵声と嘲笑が浴びせられたが、津村はもうそれ以上言葉を返すことはなかった。


ただ、胸の奥で、どうしようもない黒い波がうねるのを感じていた。



夜の8時過ぎ。


重苦しい気鬱と全身の疲弊を背負いながら、津村は東京の自宅へと戻ってきた。

表の引き戸を静かに開けると、玄関の明かりの下で、妻が安堵の笑みで出迎えてくれる。


「あなた、お疲れ様。遅かったのね」


「ああ、少し立て込んでな……」


居間に足を踏み入れると、そこには外の狂騒とは全く異なる、穏やかな時間が流れていた。

まだ小さな我が子が、あやす妻の声に小さく愛らしい笑みをこぼしている。


妻が淹れてくれた温かいお茶を一口飲み、無邪気に笑う我が子をそっと腕の中に抱きしめる。

その温もりが、一日中張り詰めていた津村の神経をわずかに、しかし確実にほぐしていった。


――この小さな命を将来の過酷な運命から守ること。

それが、今の自分が強硬派の暴走を食い止める原動力になっている。

そう心の中で呟きながら、津村は我が子の背中をそっと撫でた。


だが、子どもを寝かしつけたあと、静まり返った書斎の机に一人座った途端、現実が牙を剥いて津村に襲いかかった。


今日の会議室の光景が、脳裏で思い出し、憂鬱な気分となった。


(……連中は一体、何を見ているんだ。現実の数字から目を背け、頭の中で作り上げた幻の勝利にでも酔っているのか。そして国民は皆、浮かれ狂っている。このままでは、この国全体が破滅の淵へと突き落とされるというのに……)


抑えきれない怒りと、どうしようもない無力感が、津村の胸を激しく締め付けた。



夜の9時をまわった頃。

書斎の鉛のような静寂を切り裂くように、自宅の表玄関の戸が、控えめだがはっきりと二度、叩かれた。



コン、コン。


津村の眉間が険しく寄る。


「……こんな時間に、いったい誰だ?」


憲兵隊の夜間査察か、あるいは軍務局の同僚による陰湿な呼び出しか。

最悪の可能性が頭の片隅をよぎる。


津村は音を立てぬよう慎重に椅子から立ち上がり、足音を完全に殺して廊下を抜け、玄関の三和土たたきへと向かった。


だが、津村はあえて戸を開けなかった。

防音性の低い木製の引き戸――板戸を挟んだまま、閉ざされた内側から低く、鋭い威圧感を込めた声を落として問う。


「――どちらさまだ? こんな夜分に」


扉の向こう、月明かりが漏れる玄関先に立っていたのは、軍服を着た者でも、身分の怪しい役人でもなかった。


すっきりと落ち着いた佇まいをした、一人の青年――秩父の分教場で代用教員をしている蓮だった。

蓮は怯む様子もなく、目の前にある閉ざされた板戸に向かって静かに頭を下げる。


「――津村宗一郎さんでしょうか? 夜分、訪ねてしまい申し訳ありません。私は奥野蒼と言います」


「……奥野、だと?」


津村は、はて、奥野という知人がいたかと思案を巡らせる。

さらに、青年の口から紡ぎ出された言葉に、津村の背筋に冷たいものが走った。


「実は今後の対英米戦に於いて、貴方の見識を見込んでご相談したい事があり……失礼ながら、尋ねさせて頂きました」


国民が熱狂している時世に、この若者の口から、なぜ国家の中枢の機微に触れるような言葉が出てくるのか。


津村のなかに激しい衝撃と警戒心が渦巻く。津村は重い引き戸に手をかけたまま、さらに凄みを利かせて言い放った。


「……先程お前が言っていた、対英米戦に於ける見識だと? いったいお前は何を知っている。事と次第によっては、ただでは済まさんぞ」


その緊迫した空気の波及を、AIグラスの視界越しに捉えていたA.I.D.A.は、迅速に判断を下すと、レンズに記載される光を通して蓮へと指示を飛ばした。


「蓮、相手は一般の人間が知り得ない対英米戦の実態を知っていると見做し、スパイ等の強い疑いを持っています。ですが一歩も引く必要はありません。あなたの真摯さをしっかりと伝え、相手の信用を得るのです」


A.I.D.A.の指示を受けた蓮は、微動だにせず、まっすぐな瞳を閉ざされた扉の向こうに見据えながら、静かに、しかし力強く言葉を紡ぎ出した。


「津村さん、失礼だとは分かっていましたが……私はあなたをこの一週間、動向観察させていただきました」


「あなたは本日の軍務局での会議でも、非常に見識ある発言をされていたと聞いています。それに、あなたの人間性や、日々の行動の清貧さも失礼ながら拝見させて頂いておりました。」


「そんな貴方に私は協力したいと思い、本日、お邪魔させて頂きました。私の発言を信じる信じないはあなた次第です。ただ私の願いは貴方と同じです。

日本そして日本国民を守ること――この願いを達成するために本日はお伺いさせて頂きました。まずは、私のお話を聞いていただけませんか?」


閉ざされた扉の向こうから響いた、あまりに予想外すぎる青年の告白。


その言葉を聞いた瞬間、津村の胸の奥底で、淀んでいた何かが激しく波立った。

狂気に満ちた組織の中で孤立し、誰にも言えぬ絶望を抱えていた男にとって、この青年の「願い」の内容と「協力」という響きは、毒薬のようでありながら、抗いがたい魅力を放っていた。


(こいつは、いったい何者だ……?)


湧き上がる底知れぬ興味と好奇心が、軍人としての警戒心を鮮やかに凌駕していく。

津村は自らの中で高まる衝動を抑えきれず、気がつけば、重い引き戸の鍵をガチャンと外し、勢いよくそれを左右に引き開けていた。


月明かりの冴え渡る光が、暗い玄関の土間に雪崩れ込む。

目の前に立つ謎の青年・奥野蒼の姿を真正面から捉えながら、津村は鋭い眼光の奥に乾いた笑みを浮かべ、低く言い放った。


「……いいだろう。そこまで言うなら、お前の話とやらをたっぷり聞かせてもらおうか。上がれ」

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