エピソード16 祝賀の裏のシミュレーション
昭和17年1月上旬。
日本中がマニラ陥落の「大捷報」に沸き立ち、提灯行列の喧騒と祝賀ムードに包まれていた頃。
秩父の夜。
神崎家の下宿先の自室、静まり返った暗がりの中。
常時起動している眼鏡の向こうで、蓮はA.I.D.A.の仮想空間に意識を向けていた。
世間の熱狂をよそに、眼鏡の視界に展開されたデータベースは、冷徹な未来の事実を淡々と映し出している。
「――蓮。史実のデータによれば、ここから先のフィリピン戦線は、バターン半島やコレヒドール要塞での米比軍の頑強な抵抗により、想像を絶する泥沼の消耗戦に陥ります。そして1942年3月、戦況の悪化を悟ったダグラス・マッカーサーは、『私は戻ってくる(I shall return)』という言葉を残してオーストラリアへ脱出し、のちに反攻の象徴として日本軍の前に立ちはだかることになります」
A.I.D.A.の電子音声が、脳内に静かに響く。
その予測を耳にした蓮は、歯がゆそうに奥歯を噛み締めた。
この秩父の分教場で子どもたちに接し、目の前にある小さな日常の尊さを知るからこそ、これから訪れる膨大な犠牲の連鎖を見過ごすことはできなかった。
「……なんとかして、ここで止められないのか。この戦線を、少しでも早く終わらせる方法はないのか」
蓮の問いかけに、A.I.D.A.は即座に首を横に振るデータを示す。
「否定します。未来の自衛官としての知識と最新鋭の技術を有していたとしても、この世界での一介の代用教員としてしか過ぎない蓮が、広大な戦場へ直接赴いて個別の戦闘に介入し、その中で救える命の数などたかが知れています。局地的な救命や介入では、歴史のうねりを止めるには無力に等しいと判断致します。」
冷徹なまでの正論に、蓮は息を呑む。
だが、A.I.D.A.の思考はそこで終わらなかった。
蓄積された膨大な経済統計と戦略データが、次なる解析結果を浮かび上がらせる。
「さらに、日米の圧倒的な経済力――GNPの比率、鉄鋼や石油の生産能力の圧倒的な物量差、そして補給線を軽視する日本軍の組織的な構造欠陥を分析すれば、結論は明白です。このまま戦線が拡大すれば、局地的な勝利を積み重ねようとも、最終的には米国の物量に押し潰される破滅的な総力戦に行き着きます」
その冷徹な分析と予測を突きつけられ、蓮は座椅子にもたれかかり、深い暗闇の中でぐっと天井を仰いだ。
これほどの科学力を持ち、未来の悲惨な事実をすべて知っていながら――
自分たちは結局、歴史が繰り返す破滅の軌跡をただ指をくわえて見ていることしかできないのか。
圧倒的な絶望感と無力感が、重く蓮の心を押し潰していく。
だが、そんな蓮の絶望を断ち切るように、A.I.D.A.の静かな声が響いた。
「――蓮。歴史の歯車を狂わせる方法は、まだ残されています。国家間の構造を根本から止めるための、唯一の解――『日米早期講和』を目指すのです」
その言葉に、蓮はハッと目を見開く。
「局地的な戦闘での延命ではなく、国家の意思決定そのものを強制的に転換させる。この時代の日本の工業力と資源の枯渇が臨界点を迎える前に、米英との講和のテーブルにつくこと――それこそが、この先失われる数百万の命を救う、唯一にして最大の論理的帰結です」
A.I.D.A.の揺るぎない分析に、蓮は深く深呼吸をし、そして再度天を仰いだ。
世間の祝賀の裏で、二人は日米早期講和への道を切り拓くための、本格的な謀略のシミュレーションへと踏み出していくのだった。
そしてそこから2週間経った頃。
外の世界の熱狂から切り離された山あいの村は、容赦ない厳冬の寒さと深い雪景色に包まれていた。
分教場では、かじかんだ手を擦り合わせながらも元気に教科書を広げる子どもたちや、いつも優しく助けてくれる鈴木久子、下宿先に戻れば、神崎家やハルが囲炉裏端で温かいお茶や素朴な食事をもてなしてくれた。
表向きは、いつもの穏やかで平和な日常がそこにある。
だが、日中ラジオから漏れ聞こえる微小な戦況のアナウンス――
「敵の残敵が頑強に抵抗」「一進一退の攻防」といった断片的な言葉を、蓮はA.I.D.A.の未来データと照らし合わせる。
世間が「我が軍の快進撃」と信じて疑わないその裏側で、史実通りの泥沼化のフラグが、確実かつ着実に水面下で近づいている。
その恐ろしいギャップを肌で感じながら、蓮は昼間の穏やかな笑顔の裏で、静かに決意を固めていくのだった。
そこから数日経ったある日の夜。
これまでのシミュレーションのデータを総括し、早期講和を成し遂げるための議論を夜な夜な重ねてきた二人の前に、ついにひとつの決定的な分析ウィンドウが展開される。
「――シミュレーションを完了しました」
A.I.D.A.の声が、自室の静寂を切り裂く。
「日米早期講和を引き出すための最大の切り札。それは、フィリピン戦線において米比軍の精神的支柱であり、のちに最大の脅威となる人物――米比軍司令官ダグラス・マッカーサーを、戦死させることなく、無傷での身柄確保(拘束)することです」
あまりに壮大すぎる、歴史の根本を揺るがす作戦の提案。
その言葉を聞いた蓮は、思わず机に突っ伏し、頭を抱えて絶句した。
「マッカーサーを生け捕りにする……? そんなことが、実際にできるのか……?」
「不可能です。――通常の手段であれば」
A.I.D.A.は冷静に続け、膨大な戦術予測のグラフを視界に展開した。
「未来の自衛官である蓮が、直接戦地に赴いて敵司令官を拉致する事は『プロテクション・リング』を使用すれば非常に高い確率で実行可能ですが、歴史への深い干渉及び自ら攻撃を行う行動の中での武器使用の許可は出来ません。であるならば、この計画をいかにして現実のものとするのか、それは、……」
二人は具体的な手段の検討に入る。
秩父の片隅にいる一人の代用教員が、何千キロも離れたフィリピンの戦局を動かすにはどうすればいいのか。答えは一つしかなかった。
――日本軍の中枢や、現地で苦悩する優秀な参謀たちを「動かす」こと。
フィリピン戦線を戦う日本軍の中で、誰をターゲットとし、どのような経路でA.I.D.A.の未来データや戦術案を伝えれば、それを「怪文書の類」ではなく「価値のある戦術案」として確信させることができるのか。
具体的な名前や、偽装工作の手口の全貌を、A.I.D.A.は蓮に伝えていく。
冷徹なシミュレーションのなかで、「歴史の歯車を狂わせるための決定的な一手」の輪郭を、確かな重みを持って形作られていく。
議論を終え、メガネの青い光だけが静かに灯る暗い自室。
窓の外では、秩父の冷たい夜風が雪の積もった屋根をかすめて通り過ぎていく。
表の穏やかな日常の裏側で、世界を揺るがす巨大な計画が、山あいの小さな下宿の一室から、まさに牙をむこうと動き出そうとしていた。
その静かな決意と、背筋が凍るような緊迫感を胸に抱きながら、蓮は深く息をつき、静かに目を閉じた。
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