エピソード15 1ヶ月目の日常と二人の乙女
昭和十七年一月上旬。
蓮が秩父の山あいの分教場にやってきてから、ちょうど一ヶ月が経ったある日。
「――蓮、右払いの角度が甘いです。何度言ったら分かるんですか。子どもたちが見ていますよ」
A.I.D.A.の容赦のない指摘に、蓮は教壇で思わず苦笑いを浮かべる。
「うるさいな……アドリブの文字でどうにかごまかしているんだよ」
そう心の中で毒づきながら黒板に向き直る。
しかし、授業が進むにつれて集中力が切れてきたのか、蓮はついぼんやりと窓の外の空を眺めてしまった。
「あー、今日はいい天気だなー……」
静まり返った教室に、蓮の間の抜けた独り言が響く。
生徒たちが一瞬「……?」と不思議そうな顔をしたその瞬間、蓮の視界にA.I.D.A.の警告ウィンドウが赤く点滅した。
「声に出てます、蓮。授業中の独り言は教師の品位を疑われます」
「うっ……! わかってるよ!」
最初の絶望的なポンコツ状態からはどうにか脱したものの、授業中は相変わらず視界内のA.I.D.A.にフルスロットルで依存中だった。
A.I.D.A.からの細かいツッコミやダメ出しを脳内で右から左へ受け流しつつ、どうにか自分の力で――いや、八割方はA.I.D.A.の力で、平和な日常を回している。……つもりだった。
しかし、山あいの分教場の平穏は、往々にして突然崩れ去るものらしい。
午前の短い休憩時間のこと。
校庭の隅で遊んでいた健太と誠之介は、勢い余ってボールを正門脇の使われていない古井戸のなかに転がしてしまった。
「どうしよう、これじゃ遊べないぞ」
「お父ちゃんに怒られる……!」
困り果てた二人は、井戸にかかっていたつるべの縄を見つめ、健太が「これをつたっていけば取れるかも……!」と思い立つ。
健太はそのまま縄を伝いながら井戸の下へと降りていき、無事に底へ着いてボールを手に取った。
そして、いざ登ろうとしたところ、冷えた縄は滑りやすく、自分の体重を支えきれない。
踏ん張ろうとした足も石壁でずるりと滑り、どうしても這い上がれなくなってしまった。
「おい、健太、どうしたんだ!?」
上から覗き込んで焦った誠之介は、健太を助け出そうと、同じように井戸のつるべの縄を掴んで下へと降りてみたものの、やはり同じように自力で登れなくなってしまったのだ。
そして、休憩時間が終わったにもかかわらず、健太と誠之介の姿が教室に見当たらない。
「どこへ行ったの……?」
鈴木久子が青い顔をして立ち上がり、教室周辺や、教室から校庭を見てみたが、見当たらない。
「大変だわ、すぐに村の大人たちを呼びに行かないと……!」と今にも飛び出そうとする。
その時、蓮はすかさず脳内でA.I.D.A.に呼びかけた。
「おいA.I.D.A.、あの二人……健太と誠之介がどこに行ったか、至急スキャンしろ!」
「――了解です。周辺環境をスキャン中。微小な反響音および空気の流れを解析(音波分析)……。正門脇、使用されていない古井戸の内部より生存反応を検知」
A.I.D.A.から送られてきたデータを受け取り、蓮は慌てて久子の肩に手を置いた。
「待ってくれ、鈴木先生。焦っては冷静な判断ができなくなる。まずは落ち着こう」
「で、でも奥野先生、二人が見当たらないんです……っ!」
「大丈夫だ、僕が校庭を見てくる。鈴木先生は校舎まわりを見返してくれ」
「わかりました……っ!」
蓮は久子と手分けすると、一直線に古井戸へと向かった。
正門脇の使われていない古井戸にたどり着いた蓮は、おそるおそるその縁に歩み寄り、暗い底を覗き込む。
「――おい、健太! 誠之介!」
声をかけると、底の方から必死に救いを求める声が返ってきた。
「せんせーっ! せんせーっ!助けて――っ!」
「おい、二人とも無事か!?」
「うっ、うわぁぁん……! 先生、上がれなくなっちゃったんだよぅ、早く助けて……っ!」
二人が泥だらけの顔を上げて泣きじゃくる姿を確認し、蓮は手際よくロープを伝い下に降りて二人を引き揚げた。
少し遅れて校舎まわりから駆けつけた久子が、その現場へとたどり着く。
久子は二人の無事を確認した瞬間、ピタリと動きを止めた。
「あなたたち……っ!」
愛のある叱りが飛ぶかと思いきや、久子の瞳からぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
安心のあまり、膝から崩れそうになるのを必死にこらえている。
それを見た健太たちも「せんせい、ごめんなさーーい!」ともらい泣きを始め、現場は一気に涙の渦に包まれた。
さて、ここで締めるところは締めておかなければ、代用教員の威厳が保てない。
蓮の視界の端で、A.I.D.A.が文字情報を次々とポップアップさせる。
――よし、これを使おう。
「――こら、泣き止むんだ」
蓮はしゃがみ込み、健太と誠之介の肩にそっと手を置いた。
「命があったのは運が良かっただけじゃない。お前たちを心配してくれる大人がいたからだ。お前たちがふざけた代償は、一歩間違えば取り返しのつかないことになっていた。……だが、今日一番怖かったのは、心配して泣いてくれた先生や、家族を悲しませるかもしれない恐怖だ。その涙と意味を、二度と忘れるな」
子ども向けとは思えないほどスマートで、しかし芯を食った蓮の言葉に、二人は鼻をすすりながらこくりと頷いた。
その頼もしい背中と凛とした横顔を目の当たりにし、久子は胸の奥がキュッと締め付けられるような、これまでにない強いときめきを覚えるのだった。
そんな事件ですっかり一息ついた、お昼前のことだった。
「失礼します――って、あれ?」
神崎の家からお使いを頼まれたハルが、分教場の廊下に姿を現した。
ちょうど職員室のあたりで顔を合わせた久子とハルが、それぞれの足をとめる。
「あら、ハルちゃん。すっかり元気になったんだね、本当に良かったわ」
「ありがとうございます、久子さん」
ハルが礼儀正しく頭を下げると、久子は少し気になっていた疑問を口にした。
「あの……ハルちゃん、学校にはどんな用事で?」
「あ、はい。蒼さんがお昼を忘れたので、持ってきたんです」
――蒼さん。
その親しげな響きを聞いた瞬間、久子の胸の内に、ふわりと小さなモヤっとするものが生まれた。
今の時勢には似合わないような、しかし確かな、名前のつけられない嫉妬だった。
「……そういえば、奥野先生は、ハルちゃんのご自宅に下宿しているんだよね?」
「はい、そうですよ」
「あの……以前は『奥野さん』って呼んでた気がしたけれど、最近は『蒼さん』なんだね。家では、よくお話ししたりするの?」
久子の探るような問いかけに、ハルは少しだけ頬を染め、嬉しそうに目を細めた。
「ふふ、そうなんです。蒼さんって、たまにすごく抜けてるところもあるんですけど……でも、誠実で優しくて、本当に困っていたら真剣な目で助けてくださる方なんです。だから、夜は囲炉裏を囲んで、いろいろなお話をしてるんです」
その微笑ましい、しかし決定的に「距離の近さ」を示す会話を、蓮のメガネ越しにA.I.D.A.がちゃっかり受信していた。
「――警告。対象「鈴木久子」および「神崎ハル」の親密度・好感度ベクトルに異常な昂ぶりを検知。蓮、このままではフラグ衝突による修羅場が発生します」
「うわあああ余計な実況をするなA.I.D.A.!」
脳内で蓮が盛大に絶叫したそのタイミングで、久子に案内されたハルが、弁当を渡すために奥野先生――改め「蒼」のいる場所へとやってきてしまった。
先ほどのA.I.D.A.の余計な解説と、2人の生々しい会話内容を思い出してしまい、蓮は気まずさのあまり、目の前に立つハルと久子の顔を全く直視できない。
「あ、あの、その……弁当、ありがとう、ハルさん……じゃなくて、神崎さん……?」
「……? 蒼さん、なんでそんなに目が泳いでるんですか?」
「奥野先生、もしかして……何かやましいことでもおありなのでしょうか?」
ハルの純粋な疑問の視線と、久子のどこか冷ややかな(しかし微笑を絶やさない)探るような視線。
二人の好奇の視線に挟まれ、蓮の背中には冷や汗が一筋、流れるのだった。
「――現在、蓮の視線回避率七十九パーセント。不審者判定を受けるリスクが急上昇中です。もっと堂々と目を見合わせてください」
「もうやめてくれー!A.I.D.A.ァァァッ!!」
心の中で激しく絶叫しつつ、蓮はなんとか弁当を受け取った。
ほっと一息つく間もなく、ハルはふっと柔らかく微笑み、久子の方を向いて言った。
「あの、自分もお弁当を持ってきたので、一緒に食べて、そのあと授業の見学をしても良いですか?」
「ええ、もちろん良いわよ」
久子が優しく微笑んで快く受け入れると、ハルは「ありがとうございます!」と嬉しそうに頭を下げた。
その後、ハルは子どもたちの間に空いている机と椅子を見つけ、子どもたちと楽しそうに言葉を交わしながら仲良くご飯を広げ始めた。
その無邪気で楽しそうなハルの姿を見て、蓮は思わずほっこりと和やかな温かさを感じる。
しかし、その蓮の優しい視線の先がハルに向けられているのに気づいてしまい、久子はほんの一瞬だけ、胸を締め付けられるような、切なそうな表情を浮かべるのだった。
放課後。
子どもたちは元気に家路へと駆け出し、静まり返った教室には、掃除を手伝ってくれたハルと、片付けをする蓮の姿があった。
一日の仕事を終え、久子に挨拶を済ませた二人は、並んで分教場をあとにし、夕暮れの迫る山道を歩き始める。
「……あの、蒼さん。教師のお仕事は、もう慣れましたか?」
並んで歩きながら、ハルがふと柔らかい声で問いかけた。
脳内でA.I.D.A.が『――ここで好感度を上げるための最適解セリフを提示します』と起動音を鳴らしかけたが、蓮はそれを無視して、自らの言葉で口を開いた。
「初めは、自分なんて教師に向いてないって本気で思っていたんです。だけど……こんなに子供達の成長を見るのが楽しいなんて、思っていなかったんだ。それに、こんなに豊かな生活を送れるのは、この集落の皆さんの優しさがあるからこそだと思ってさ」
まっすぐな言葉を紡いだあと、蓮は少し照れくさそうに笑い、ハルへと視線を向けた。
「もちろん……神崎さん、トメさん、そしてこうして傍にいてくれるハルさんがいてくれているからこそ、僕はここでやっていけるんだと思う」
その真っ直ぐな感謝の言葉を聞いた瞬間、ハルの頬がカァッと朱に染まった。
彼女はわずかに目を丸くしたあと、恥ずかしそうに俯き、くすっと笑う。
「……蒼さんは、本当にお言葉が上手ですね。一体、どこでお勉強されたのですか」
「いや、大真面目な僕の本音だよ」
頭をかきながら照れくさそうに返す蓮の横顔を、ハルはこっそりと盗み見る。
なんてことのない、ただ家路を共に歩くだけの日常。
しかし、その一瞬一瞬が、ハルにとっては何よりも大切で、かけがえのないものに感じられていた。
そんな二人並んで歩く背中を、メガネの視界越しにこっそり見守りながら――。
A.I.D.A.は蓮には決して聞こえないように、計算式の中でそっと呟いた。
「――まったく。やれば出来るじゃないですか、蓮」
冬の冷たい夕風の中、AIの胸元にもどこか温かみのある計算結果を灯しながら、物語は静かな夜へと溶けていくのだった。
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