エピソード10 92.3%の分岐点②
旗艦『赤城』の薄暗い艦橋内は、張り詰めた空気に支配されていた。
手渡された軍令部発の「特命電」の文面を見つめながら、南雲忠一中将をはじめ、源田実航空参謀ら主要幕僚たちの表情に険しい影が落ちる。
「……不可解だな」
源田が腕を組み、低く唸った。
当初の作戦計画にあったのは、あくまで真珠湾に停泊する米太平洋艦隊の戦艦群および飛行場の奇襲制圧のみである。
しかし、目の前の特命電には、オアフ島に残る数百万バレルの巨大重油タンク群、巨大ドック、発電所といったインフラの完全破壊が明確に命じられていた。
それだけではない。
オアフ島にいるとされていた米空母エンタープライズの位置が特定され、それを強襲せよとの指令までが記されている。
「燃料等の施設の徹底破壊はまだしも、敵空母の位置がなぜここまで正確にわかる……?」
別の参謀が疑わしそうに呟く。
計画の根本を揺るがす突然の変更に、艦橋内では激しい議論が交わされていた。
だが、無視することはできなかった。
海軍最高機密を示す「D暗号」の暗号文からの指令であったからだ。偽物と切り捨てるにはあまりに精緻すぎた。
「しかし、D暗号の絶対性は疑いようがない。……もしこの情報が真実であるならば、ここで敵空母を叩かねば、我々は後々取り返しのつかない禍根を残すことになるぞ」
源田のその言葉に、艦橋を包んでいた迷いがわずかに揺らいだ。
「……そうだ。ここで米空母を野放しにすれば、反撃の起点とされる。行くべきだ」
「しかし部隊を分割すれば、各個撃破の可能性が……」
「機密の正確さを信じるか、否かだ」
紛糾する議論の最中、さらに正確なエンタープライズの現在位置を示す続報の電文が飛び込んできた。
その一報が、参謀たちの迷いを断ち切った。
「……ここで敵空母を叩かねば、いつ叩くというのだ」
南雲は静かに息を吸い込むと、重い決断を下すように前を向いた。
「全軍へ通達する。これより作戦計画を一部変更する。第1機動部隊は真珠湾の徹底破壊および重要施設の焼き払いに全力を挙げよ。――そして、空母『蒼龍』『飛龍』、およびこれを護衛する随伴艦(駆逐艦等の警戒部隊)の別動群は、本隊より分離して指定された接敵点へ向けて急行せよ」
無線封鎖が敷かれている中、艦橋からの指示は迅速に伝達されていった。甲板や信号員たちによる発光信号の鋭いフラッシュが、夕焼けに染まる空を切り裂くように交錯する。
轟音を上げて航行する機動部隊の中から、『蒼龍』『飛龍』の2隻とそれを囲む護衛の駆逐艦群が本隊の列を離れ、静かに、しかし力強く針路を西方へと変えていった。
艦橋の片隅から、南雲はその離れていく別動群の姿を見つめる。
彼は静かに帽子に手を当て、これから死地に赴く部隊の背中に向けて、ひっそりと敬礼を捧げた。
――どうか、武運を祈る。
時を同じくして、はるか上空の成層圏。
漆黒の闇に静止するステルス戦闘機「蒼莱」のコクピットでは、青いホログラムの光が蓮の横顔を照らしていた。
「A.I.D.A.、南雲艦隊の分割は完了したな」
「はい。第1機動部隊は真珠湾へ、第2機動部隊――空母『蒼龍』『飛龍』および護衛の随伴艦からなる別動群は、エンタープライズの捕捉へ向けて進路を変更しました」
A.I.D.A.の冷静な報告を聞きながら、蓮は空間に浮かぶホログラムに表示されるリフレクターの配分データを確認する。
「リフレクターの割り振りはどうなっている?」
「予測通り、真珠湾側には最小限の防護網のみを残し、大部分のリフレクターは『蒼龍』『飛龍』および随伴艦の部隊に密着する形で配分させます。彼らの防護を完全に見えない盾で覆う準備は完了しています」
「頼むぞ。絶対に誰も死なせないための盾だ。俺たちも、別動群の擁護に本格的に付く」
「了解しました」
それから、機内にはしばらく静寂が満ちた。
眼下に広がる漆黒の太平洋と、空間を彩る青いホログラムの明かりだけが、歴史の転換点へと向かう緊迫した時間を静かに繋いでいく。
ふと、蓮は操縦桿から手を外し、フライトスーツのポケットに手を伸ばした。
取り出したのは、出発する間際にトメさんから手渡された包みだ。
包みを開けると、少し形が崩れた手作りの握り飯が顔を出す。
塩気がしっかりと効いたそれを口に放り込むと、素朴な味わいが乾いた喉にじんわりと染み渡った。
――よし、気合いを入れ直さないとな。
小さく息をつき、蓮がふたたび前を向いた。
時を同じくして、漆黒の洋上を切り裂く第2航空戦隊の旗艦、航空母艦『蒼龍』の飛行甲板。
群青色の闇が溶けていく空の冷たい潮風が吹き抜ける中、二航戦司令官・山口多聞少将は厳しい眼差しで甲板の先を見据えていた。
その傍らでは、『蒼龍』艦長・柳本柳作大佐が微動だにせず戦況を見守っている。
「……出撃時機だ。全機、発艦準備よし!」
山口の力強い号令の下、甲板の誘導員たちが一斉に緑の発艦灯を振り下ろした。
轟音を轟かせる九九式艦上爆撃機、九七式艦上攻撃機、そして空戦を制すべく鋭い機体を躍らせる零式艦上戦闘機が、闇を切り裂くように次々と滑走し、空へと跳び立っていく。
エンタープライズの喉元に喰らいつくための第一波攻撃隊が、明るくなってきた空へと見事に舞い上がった。
その勇壮な発艦劇を上空から静かに見下ろしながら、蓮はA.I.D.A.へと告げる。
「――A.I.D.A.、リフレクターの全てを放出する」
「全て、ですか?」
「そうだ。持っているリフレクターはすべて射出しろ。いま発艦した蒼龍と飛龍の第一波攻撃隊――その全機を、一つ残らず完全な盾で包み込むんだ」
A.I.D.A.の演算領域がわずかに波打つような気配を見せ、そして即座に答えが返ってきた。
「全リフレクターの完全放出、および蒼龍・飛龍の攻撃隊全機への全方位追従プロトコルを起動します。……機体維持の安全マージンが限界に達しますが、蓮の意志を最優先とします」
「問題ない。A.I.D.A.の演算能力があれば、この時代の攻撃など全て回避できるだろう」
「――勿論可能です」
A.I.D.A.は、どこか誇らしげな鼻高の声色で応じた。
「全リフレクター配分を量子演算ユニットで最適化。私にお任せください。蓮、あなたを死なせはしませんよ」
それから約1時間の時が流れた。
静寂な成層圏を滑る「蒼莱」の機内で、冷徹な電子音がわずかに響き、A.I.D.A.が再び凛とした声を落とした。
「――蓮。時間が近づきました。日本時間、12月8日午前3時前。……アメリカ国務省および主要マスコミへ向けた、対米覚書の自動配信を開始してよろしいですね。」
蓮は迷わずうなずいた。
「ああ、もちろん頼む。すべては計画通りだ」
「了解しました。ワシントン電信網へ量子回線を直結――配信、開始します」
地球の反対側、活気に満ちた昼下がりを迎えていたアメリカの首都ワシントンD.C.。
アメリカ国務省の電報受信室で、当直の担当官は届いたばかりの一通の電報を手に取り、その文字をひと目見た瞬間、血の気が引くような衝撃を受けていた。
「なっ……これは……!?」
そこにあったのは、日本側から直接送られてきたとされる開戦の宣戦布告、いわゆる対米覚書であった。
外交ルートの正規の手順を踏まず、なぜか陸軍省、海軍省と国務省の心臓部へダイレクトに突きつけられたその文章に、担当官は血の気が引く思いで受話器を掴んだ。
「一大事だ! 日本側から直接の宣戦布告が届いた……! すぐに、すぐに国務長官に繋いでくれ――っ!」
ほぼ同時刻。
ワシントン市内の主要新聞社――その喧騒に包まれた編集フロアでも、異変は起きていた。
電報の受信機がけたたましい音を立てて紙を吐き出し、それを見た一人のベテラン記者が飛び上がる。
「おい、これを見ろ……ッ! 日本からの宣戦布告だ! 開戦の通告が、今ここに直接届いたぞ!」
社内にいた他の記者たちが一斉に振り返る。
記者は興奮と焦燥に顔を歪めながら、フロア全体へ向かって怒号を飛ばした。
「一刻を争う大スクープだ! おい、止まるな、すぐに号外の準備をしろ! 刷れ、全力を挙げて号外を出せッ!!」
昼下がりで動いていたワシントンの街は、見えない手によって引き起こされた情報戦の混乱の渦へと、一気に叩き込まれていった。
そして――運命の午前3時25分。
「――蓮。時間です」
A.I.D.A.の凛とした声が、蓮の脳裏に響いた。
「真珠湾攻撃、開始されました」
ホログラムの太平洋のミニチュアが、眩い赤い光点群を伴って一斉に沸騰する。
同時並行で、オアフ島西方400キロの洋上。
夜明けすぐの冷たい海風を切り裂きながら、蒼龍・飛龍の飛行甲板から飛び立った日本軍の艦載機たちが、今まさに、米空母エンタープライズが潜む海域へと牙を剥こうと突撃していく。
歴史の歯車が激しい音を立てて噛み合い、誰も見たことのない新たな戦火の幕が、いま切って落とされた。
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