第四章 地を這う者
放棄された採石場は、岩肌が剥き出しの、寂れた場所だった。
かつて魔法を持たぬ者たちが、石を切り出す労働に従事していたのだろう。崩れかけた作業小屋がいくつか残り、その中には、使い古された衣服が打ち捨てられていた。煤と汗の染みついた、粗末な麻の上着とズボン、すり減った革靴。
玲は、自分のパイロットスーツを脱ぎ、それらに袖を通した。
「……サイズは、まあ、何とかなるか」
『パイロット。当機の解析では、あなたの容姿は、この地域の住民と大きな差異はありません』とノルンが、耳元の小型通信機越しに告げた。『毛髪・肌・目の色、いずれも分布の範囲内。ただし、姿勢が問題です』
「姿勢?」
『あなたの立ち方、歩き方は、軍人のそれです。背筋が伸びすぎている。この社会の被支配階層は――観測した限り、もっと、うつむいて歩きます』
玲は、苦い顔をした。
踏みつけられた者たちは、空を見上げない。地を見て、肩をすぼめ、足音を殺して歩く。それが、彼らの生き方を物語っている。
「……わかった」
玲は、意識して背を丸め、視線を落とした。十年、誇りだけは捨てずに飛んできた男にとって、それは奇妙な屈辱だった。だが、必要なことだった。
「機体は、ここに伏せておく。ノルン、お前は休眠モードで待機。何かあれば、通信機で起こす」
『了解。――パイロット。一点、確認です。あなたは、戦闘以外の任務を、単独で遂行した経験が乏しい。無理は禁物です』
「ご丁寧にどうも。……行ってくる」
玲は、〈ヴァルキュリア〉を岩陰に伏せさせ、入り口を崩れた岩で偽装した。そして、地を這う者の姿になって、都市へと歩き出した。
空を捨て、地に降りる。
それは、十年で初めての行軍だった。
城下町の外縁区。
近づくにつれ、空気が変わっていった。
清潔だったはずの大気に、煤と、汗と、饐えた食べ物の匂いが混じり始める。道は舗装されておらず、ぬかるんでいた。立ち並ぶ家々は、肩を寄せ合うように密集し、どれも傾き、屋根は穴だらけだった。
そして、人々。
ノルンの言った通りだった。誰もが、うつむいて歩いていた。痩せた体、くたびれた服、生気のない目。彼らは、すれ違う相手と目を合わせず、ただ黙々と、自分の足元だけを見て歩いていく。
(……ここが、リルの育った場所か)
玲は、込み上げるものを押し殺し、雑踏に紛れた。
幸いだったのは、言葉が通じることだった。あの忌々しい契約紋――セオドールが刻んだ呪いは、彼が死んだ後も消えず、皮肉なことに、玲にこの世界の言語を理解する力を残していた。
死んだ王子の置き土産で、その王子の国を探る。悪くない皮肉だ。
玲が向かったのは、区画の片隅にある、薄汚れた酒場だった。
どこの世界でも、変わらない。人の口が最も軽くなる場所は、酒の入った場所だ。情報は、いつだって、酔った舌の上に転がっている。
玲は、隅の席に座り、最も安い麦の酒を注文した。代金は――採石場で見つけた、誰かの忘れ物の銅貨で払った。
そして、ただ、耳を澄ませた。
最初に拾えたのは、愚痴だった。
税が上がった。配給が減った。隣の家の息子が、無理な労働で倒れた。聞こえてくるのは、どこまでも続く、生活の重みだった。
だが、酒が進むにつれ、話は少しずつ、危険な方向へ滑っていった。
「……聞いたか。例の、城が崩れた話」
「ああ。鋼の悪魔だろう。竜より恐ろしい化け物が、第三王子を踏み潰したって」
「化け物、ねえ。……俺は、ちょっと違うふうに聞いたぜ」
玲は、酒杯に口をつけたまま、動きを止めた。
「あの鋼の騎士は、台所の娘っ子をかばって、王子に逆らったらしい。で、その娘が殺されて、激怒して城を壊したんだと」
「……作り話だろ」
「だといいがな。だが、もしそれが本当なら――俺たちみたいな、魔法も持たねえ虫けらのために、貴族に牙剥いた奴が、この世にいたってことになる」
酒場が、一瞬、静まった。
その沈黙の中に、玲は、確かに見た。
うつむいていた者たちの目が、ほんの一瞬――上を向いたのを。
(……ノルンの言った通りだ。)
恐怖として刻んだものが、別の誰かには、希望に見えている。
玲は、その手応えを、胸の奥にしまい込んだ。
そして、男たちの会話は、さらに核心へと進んでいった。
「……だがよ。希望なんて、持つだけ無駄だぜ」
年老いた男が、酒に沈んだ声で言った。
「俺は、若い頃、ヴェルダン領の反乱に加わったんだ。あそこは特に搾取がひどくてな。みんな、もう死んでもいいと思ってた。鍬と鎌を持って、領主の館に押しかけた。三百人はいた」
「……それで」
「魔導士が、十人来た。たった、十人だ」
老人は、震える手で杯を握った。
「炎が、降ってきた。雷が、走った。地面そのものが、俺たちを呑み込んだ。……三百人が、半刻で、灰になった。俺は、運良く生き残って、こうして逃げてきた。それから三十年、ずっと逃げ続けている」
酒場が、再び静まった。
「いいか、若いの。覚えとけ」と老人は、虚ろな目で続けた。「魔法ってのはな、戦争じゃねえんだ。一方的な、虐殺だ。鍬を百本集めても、魔導士一人に勝てやしねえ。俺たちと、奴らの間には――越えられねえ壁が、あるんだよ」
玲は、酒杯を見つめたまま、その言葉を聞いていた。
耳元で、休眠していたはずのノルンが、囁いた。
『……パイロット。聞こえています。重要なデータです』
(ああ)
『整理します。第一に、この国家には、貴族の中にも派閥が存在する。第二に、民衆の蜂起――レジスタンスや反乱は、複数、断続的に発生している。第三に、それらは特に搾取の激しい貴族の領地周辺で起きるが、ことごとく魔法によって鎮圧されている』
(問題は、なんで勝てないか、だ)
『答えは明白です。彼らには、魔法に対抗する「力」がない。数だけでは、虐殺の的になるだけです。彼らに足りないのは、勇気でも、人数でもなく――魔法を撃ち落とせる、たった一つの兵器です』
玲は、ゆっくりと、酒を呷った。
魔法を、撃ち落とせる兵器。
それは――今、岩陰に伏せている。
そのとき、酒場の外が、騒がしくなった。
玲が窓の外を見ると、通りで、二人の魔導士が、ひとりの男を取り囲んでいた。ローブをまとった、明らかに上の階級の者たち。男は、痩せた労働者だった。
「税が払えぬだと? 貴様、領主様の温情を何だと心得る」
「お、お許しを……今月は、子が病で……」
「言い訳は聞き飽きた」
魔導士の手のひらに、火花が散った。
男が、悲鳴を上げて地面に倒れる。周囲の住人たちは、誰も助けに入らなかった。皆、うつむいたまま、足早に通り過ぎていく。見て見ぬふりをすることでしか、生き延びられない者たちの、悲しい知恵だった。
玲の手が、酒杯を、強く握りしめた。
立ち上がりかけた。
体が、勝手に動こうとした。あの王子の城で、リルを抱きしめたときと同じ衝動が、腹の底から突き上げてくる。
だが――。
『パイロット。動かないでください』
ノルンの声が、冷たく、彼を縫い止めた。
『今ここで、あなたが正体を晒せば、すべてが終わります。あの男一人を救って、あなたは追われる身となり、計画は瓦解します。そして――次の千人を、救えなくなります』
玲は、奥歯を、噛みしめた。
『あなたは、もう、衝動で城を壊した兵士ではないはずです。あなたが今、堪えるべき理由は――あの城で、あなた自身が誓ったことの中に、あるはずです』
(……ああ)
二度と、目の前で笑う奴を死なせない。
あの誓いを、本当に果たすために。
たった一人を救う激情ではなく、千人を救う冷徹さを、選ばなければならない。
玲は――目を閉じ、ゆっくりと、腰を下ろした。
倒れた男は、やがて、震える足で立ち上がり、魔導士に何度も頭を下げながら、去っていった。生きてはいた。少なくとも、今日は。
(……すまねえ)
玲は、心の中で、見ず知らずのその男に詫びた。
(今日は、助けてやれねえ。だが、近いうちに必ず――お前たちが、二度とああやって頭を下げなくて済むようにする)
それが、彼にできる、唯一の償いだった。
その夜、玲は、採石場へ戻った。
岩陰に伏せた〈ヴァルキュリア〉のコックピットに腰を落ち着け、彼は、今日得たすべての情報を、ノルンと共に整理した。
「整理するぞ、ノルン」
『はい。記録します』
「一つ。この国は、魔法を持つ貴族が、持たない民を搾取して成り立つ階級社会。これは、わかってた」
『はい』
「二つ。だが、貴族も一枚岩じゃねえ。派閥がある。中には――民に、まだ多少は優しい派閥もあるらしい」
『酒場の会話から、複数回、言及がありました。ただし』
「ああ。その派閥は、ものすごく、小さい」
玲は、ディスプレイに、今日聞き集めた情報の断片を並べた。
民に優しい貴族の一派は、確かに存在する。だが彼らは少数で、力もなく、苛烈な多数派の中で、肩身を狭くして生きている。下手をすれば、自分たちが粛清される側だ。だから、表立って民を守ることもできない。
「三つ。民の側にも、抵抗はある。レジスタンス、反乱。だが、ことごとく魔法で潰されてる。特に、搾取のひどい領地ほど、反乱が多くて――鎮圧も、激しい」
『はい。彼らには、魔法に対抗する力が、決定的に欠けています』
「で、四つ目だ」
玲は、ディスプレイに映る三つの要素を――小さな良心的貴族、潰され続けるレジスタンス、そして自分の機体を――じっと見つめた。
「この三つは、それぞれ単独じゃ、何の力もねえ。優しい貴族は、力がなくて潰される。レジスタンスは、魔法に勝てなくて潰される。俺は、一機きりで、燃料も弾も有限だ」
玲の目が、鋭く細められた。
「だが――噛み合わせたら、どうだ」
『……続けてください』
「レジスタンスに足りねえのは、魔法に勝てる力だ。それは、俺が埋められる。俺が、あいつらの牙になる」
「優しい貴族に足りねえのは、力と、それを使う口実だ。それも、俺が――というか、組織化されたレジスタンスが、埋められる。あいつらを、表の顔にする」
「そして俺に足りねえのは、数と、土地と、補給だ。それは、民とレジスタンスが、埋めてくれる」
ディスプレイの上で、三つの要素が、一本の線で結ばれていく。
「レジスタンスを、乗っ取る。バラバラに潰されてる連中を、一つにまとめて、俺の指揮下に置く。そして、民に優しい貴族を、懐柔する。あいつらを担ぎ上げて、革命の旗印にする」
玲は、低く、宣言した。
「――この国を、獲る」
コックピットに、しばしの沈黙が流れた。
『パイロット』とノルンが、静かに口を開いた。『確認します。あなたは今、「征服」を口にしました。城を一つ壊した兵士ではなく――国家を一つ、奪い取ろうとしている。それは、あなたが憎んだ「上から踏みつける者」に、あなた自身が、なるということでもあります』
玲は、その問いに、すぐには答えなかった。
ノルンの言うことは、正しい。国を獲るということは、頂点に立つということだ。それは、彼がリルの仇として砕いた、あの構造の頂点に、自分が座ることでもある。
だが――。
「ノルン。俺は、玉座が欲しいわけじゃねえ」
玲は、ゆっくりと答えた。
「踏みつける構造そのものを、ぶっ壊したいんだ。だがな、ぶっ壊した後に、何もなけりゃ、ただの無秩序だ。もっとひどい誰かが、新しく踏みつける側に回るだけだ。だから――壊すなら、その後に、別のものを建てなきゃならねえ」
「そのために、一度は、頂点を獲る。獲って、構造を作り変えて、それから――退く」
『退ける、と? 権力を手にした者が、それを手放した例は、歴史上、極めて稀です』
「だろうな」
玲は、苦く笑った。
「だから、お前がいるんだろ、ノルン。俺が、踏みつける側に堕ちそうになったら――遠慮なく、撃ち落としてくれ」
『……記録しました。条件付きで、了承します』
ノルンの声には、わずかな――ごくわずかな、温度があった。
「上等だ」
玲は、操縦桿を軽く叩いた。
採石場の闇の中で、鋼鉄の騎士が、静かに息づいている。
明日からの戦いは、空のそれとは違う。人の心を読み、組織を束ね、敵の派閥を切り崩す、地を這うような戦いだ。
柄ではない。だが、やるしかない。
リルの焼いたパンの味を、忘れないために。
うつむいて歩く者たちが、いつか、空を見上げられるように。
「まずは――レジスタンスを、見つけるところからだな」
異世界の夜空に、月が二つ、昇っていた。
地を這う者となった鋼の騎士の、長い長い革命の戦いが――今、その第一手を、指そうとしていた。




