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第三章 空から視る世界

高度一万。


〈ヴァルキュリア〉は、戦闘機形態のまま、薄い大気の層を滑るように飛んでいた。


眼下には、見渡す限りの大地が広がっている。緑の平原、蛇行する大河、白雪を頂く山脈。元の世界では、こんな高度から見える地表は、たいてい焼け焦げているか、廃墟になっているかのどちらかだった。


ここは、違う。


生きている世界だ。


「……だからって、まともな世界とは限らねえけどな」


玲は呟き、しばらく封印していた機能のスイッチに、指をかけた。


コックピットの片隅に、これまで沈黙していた小さなパネルがある。彼が、自分の弱さを認めたくなくて、ずっと切っていた機能だった。


支援AI機能。


戦友を失いすぎた玲が、「機械に話しかける癖がつくのが嫌で」最低限のモードに落としていた、機体の頭脳。


玲は、迷った末に――それを、起動した。


『――支援AI〈ノルン〉、再起動します』


落ち着いた、女性的な合成音声が、コックピットに満ちた。


『おはようございます、パイロット。スリープモードからの復帰を確認。……前回のフル稼働から、一四二時間が経過しています』


「一四二時間か。……ずいぶん、いろいろあったぜ」


『環境ログを解析しました。大気組成、重力定数、恒星スペクトル――いずれも、出撃前のデータと一致しません。結論を述べます。現在地は、元いた星系ではありません』


「ああ。わかってる」


『さらに、機体周辺で複数回、未知のエネルギー反応を観測しています。物理法則の枠組みで説明がつきません。仮称として、これを〈異常エネルギー〉と分類します』


「魔法、だよ。この世界じゃ、そう呼ぶらしい」


『……マホウ』


ノルンは、わずかに沈黙した。


『記録します。当機の科学体系では未定義の現象。今後、観測を継続します。――パイロット。あなたは、相当に異常な状況に置かれているようですね』


「異常なのは、状況だけじゃねえよ」


玲は、操縦桿を握り直した。


「だが、ちょうどいい。お前が起きたなら、仕事だ、ノルン。――この世界を、上から、丸ごと測ってくれ」




『観測を開始します』


ノルンの宣言とともに、〈ヴァルキュリア〉のセンサー群が一斉に展開した。


長距離レーダーが地形を走査し、赤外線センサーが熱源を拾い、光学センサーが地表を高解像度で撮影していく。本来は敵戦力を捕捉するための装備が、今は未知の世界を解き明かす目となる。


コックピットのディスプレイに、立体の地図が、少しずつ描かれていった。


『地形マッピング、完了率三〇パーセント……五〇パーセント……』


「人の集まってる場所を、優先して拾え。都市、街道、農地。文明の形が見たい」


『了解。熱源と人工構造物の密度から、居住地を推定します』


地図の上に、光点が灯っていく。大小さまざまな都市。それらを結ぶ街道。耕作された農地のパターン。


そして――その分布には、明らかな偏りがあった。


「……妙だな」


玲が、最初に気づいたのは、それだった。


「ノルン。都市の構造、解析できるか。誰がどこに住んでるか、わかるくらいの解像度で」


『可能です。光学データと熱分布を統合します』


ディスプレイが、一つの都市を拡大した。先日まで玲がいた、あの城の城下町だ。


そこに見えたのは――くっきりと分かれた、二つの世界だった。


都市の中心、城に近い区画。広い邸宅、整然とした街並み、明るい灯り。


そして、その外周。びっしりと密集した粗末な家々、狭い路地、暗がり。


『居住区が、明確に二層に分離しています』とノルンが報告する。『中心部の人口密度は低く、構造物は大型かつ高品質。外縁部は人口密度が極めて高く、構造物は小型かつ簡素。……階級による居住地の分断、と推定されます』


「外縁部のほうは、どうだ。暮らしぶりは」


『熱源の分布から推定します。外縁部の住居の多くは、夜間も暖房の反応が乏しい。一方で、外縁部から中心部へ向かう人の移動が、早朝と深夜に集中して観測されます』


「……つまり」


『外縁部の住人が、中心部へ働きに行き、夜遅くに帰る。中心部の住人は、移動しない。――労働の方向が、一方通行です』


玲は、ディスプレイを見つめたまま、しばらく動かなかった。


リルの顔が、浮かんだ。


すり切れたエプロン。粗末な麻のワンピース。「台所の」と名乗った少女。彼女はきっと、あの外縁部の、暖房もろくにない家から、毎朝あの城へ通っていた。


「リルも、あそこにいたんだな」




『パイロット。一つ、興味深いデータがあります』


ノルンが、観測を続けながら言った。


『先ほどの〈異常エネルギー〉――あなたが「魔法」と呼んだ現象。その反応源を、人口分布と重ね合わせました』


ディスプレイに、二つのデータが重なる。異常エネルギーの反応点と、都市の階級分布。


結果は、あまりにも明白だった。


『異常エネルギー反応は、ほぼ完全に、中心部の住人に集中しています。外縁部の住人からは、ほとんど検出されません』


「……魔法が使えるかどうかで、住む場所が分かれてる、ってことか」


『そう解釈できます。仮説を提示します。――この社会では、魔法という能力の有無が、階級を決定している。魔法を持つ者が支配し、持たざる者が労働を担う』


玲の手が、操縦桿の上で、ぎゅっと握られた。


セオドールの言葉を、思い出す。


――使い魔に余計な情けをかけた、薄汚い台所女。


あの王子にとって、リルは人ですらなかった。魔法を持たぬ、ただの「労働力」。消耗品。だから、自分の保身のために、躊躇いもなく消した。


それは、あの王子個人の異常さだと、玲は思おうとしていた。


だが――違った。


「異常なのは、あいつじゃねえ」


玲は、低く呟いた。


「この世界が、そういうふうに、できてやがるんだ」


魔法を持つ少数が、持たない多数を踏みつけて成り立つ社会。リルの死は、その仕組みの中で起きた、無数の出来事のひとつにすぎない。今この瞬間も、あの外縁部のどこかで、別のリルが、別のセオドールに、同じ目に遭っているのかもしれない。


そう思うと、胸の奥が、また冷たく灼けた。




『観測範囲を拡大します』とノルンが告げた。『この国家の全体像、および周辺国家を把握します』


〈ヴァルキュリア〉が高度を上げ、より広域を捉えていく。地図が、さらに広がった。


『分析結果を報告します』


ノルンの声が、淡々と、世界の輪郭を描き出していく。


『あなたが召喚された国家――便宜上〈アシュフォード〉と呼称します。これは、小規模国家です。国土面積、推定人口ともに、周辺国家の中では下位。経済基盤は、観測した限り、魔法による生産と、階級制による労働力の集約――いわば、搾取的な労働経済に依存していると推定されます』


「搾取で、ようやく回ってる小国、か」


『はい。そして――この大陸には、それを遥かに上回る規模の国家が、複数存在します』


ディスプレイの地図に、巨大な領域が、いくつも浮かび上がった。


『北方に、広大な版図を持つ大国が一つ。電磁的・異常エネルギー的な活動量が突出しており、軍事力・経済力ともに大陸最大規模と推定されます。西方に、海洋に面した交易国家。南方に、山岳地帯を支配する軍事国家らしき反応。――これら大国の周囲に、アシュフォードのような中小国家が、衛星のように点在しています』


玲は、地図全体を見渡した。


巨大な国々が大陸を分け合い、その隙間で、小さな国々が、それぞれの理屈で生き延びている。アシュフォードは、その小さな国の一つにすぎない。


「世界の縮図だな」


玲は、苦笑した。


「でかい奴が小さい奴を従えて、小さい奴は、もっと小さい者を踏みつける。どこの世界でも、変わらねえ」


『感傷を排して言えば』とノルンが続ける。『パイロット。当機の現状を報告すべきです』


「……ああ。聞かせろ」


『推進燃料、残り六二パーセント。実体弾薬、残り一八パーセント。ミサイル、残数ゼロ。当機は、補給を前提とした兵器です。この世界に、当機に適合する補給インフラは――存在しません』


玲は、わずかに息を吐いた。


わかっていたことだった。あの城を破壊し、竜を墜とし、ここまで飛んできた。〈ヴァルキュリア〉は無敵に見えるが、それは「弾と燃料がある限り」の話だ。


「つまり、俺は」


『はい。あなた一人と、当機一機だけでは――この世界の、どの大国とも、長期的には戦えません。いずれ、必ず、止まります』


鋼鉄の騎士は、永遠ではない。


たった一機で世界を相手取れるほど、現実は甘くない。それは、十年戦ってきた玲が、誰よりもよく知っていることだった。




長い沈黙の後、玲は、ゆっくりと口を開いた。


「なあ、ノルン」


『はい』


「俺はずっと、命令されて飛んできた。守るべきものは、いつも誰かが決めてくれてた。故郷だ、人類だ、作戦だ、ってな」


『記録しています』


「でも、もう誰も命令しちゃくれねえ。守るべきものも、もう、上から降ってこねえ」


玲は、眼下の都市を――その外縁部の、暗い区画を見つめた。


「だから、今度は、俺が決める」


ディスプレイの中で、無数の小さな家々が、ひしめいている。暖房もなく、夜遅くまで働き、それでも踏みつけられたまま生きている人々。


その中の誰かが、リルのように、誰かにパンを焼いている。


「この世界は、魔法を持つ奴が、持たない奴を食い物にして回ってる。リルを殺したのは、あの王子一人じゃねえ。この仕組みそのものだ」


『その認識は、観測データと整合します』


「なら――俺が手を貸すべきなのは、上にいる連中じゃねえ」


玲の目に、再びあの、戦場の光が宿った。だが、それは第一章で竜を墜とした時の光とも、第二章で城を砕いた時の光とも、また違っていた。


復讐の炎ではない。


もっと冷たく、もっと遠くを見据えた、戦略家の目だった。


「踏みつけられてる側だ。この国に不満を持ってる、持たざる連中。あいつらに、接触する」


『理由を伺っても? 感傷だけでは、戦略になりません』


「感傷半分、計算半分だよ」


玲は、はっきりと答えた。


「一機で大国とは戦えない。お前がそう言った。なら、味方がいる。それも、たくさんいる側がいい。――この世界の人口の大半は、踏みつけられてる側だ。数なら、向こうにある」


『……合理的です』とノルンが認めた。『被支配階層は、潜在的な兵力・労働力・情報網を持ちます。彼らが組織化されていないのは、武力と、希望を、奪われているからです』


「武力なら、ここにある」


玲は、操縦桿を軽く叩いた。


「希望のほうは――まあ、これから作るしかねえな」


『一点、警告します。パイロット』


ノルンの声が、わずかに硬くなった。


『あなたが手を貸せば、彼らは戦いに巻き込まれます。今は踏みつけられていても、生きてはいる人々が、です。あなたの介入は、彼らに自由をもたらすかもしれませんが――同時に、新たな死者を、生むかもしれません』


玲は、目を閉じた。


リルの最後の笑顔が、浮かんだ。「レイさまが、空を飛んでるとこ、かっこよかったな」と言って、消えていった少女。


彼女は、踏みつけられたまま、何も知らずに死んだ。


戦うことすら、許されなかった。


「ノルン」


玲は、目を開けた。


「踏みつけられたまま、何も知らずに死ぬのと、戦って死ぬのと。――選ぶ権利くらいは、あいつらにあっていいはずだ」


「俺は、その選択肢を、運んでいく。押し付けはしねえ。決めるのは、あいつら自身だ」


『……記録しました』


ノルンは、少しの間を置いて、続けた。


『一つだけ、訂正させてください、パイロット。先ほど、あなたは「希望はこれから作るしかない」と言いました』


「ああ」


『訂正します。――希望は、もう、生まれているかもしれません。竜から救われ、城を砕いた鋼の騎士の噂は、すでに人々の間を駆け巡っているはずです。恐怖としてだけでなく、おそらく――「権力に逆らえる存在がいる」という、証拠として』


玲は、ふっと、笑った。


恐怖の刻印として刻んだものが、別の誰かには、希望に見えるかもしれない。


皮肉なものだ。だが――悪くない。




〈ヴァルキュリア〉は、機首を、地表へと向けた。


降下していく。あの城下町の――中心部ではなく、外縁部の、密集した暗い区画へ。


リルが暮らしていたかもしれない、踏みつけられた人々の住む、その場所へ。


「ノルン。降下地点の周辺、人の少ない場所を探せ。いきなり鋼鉄の巨人が降りてきたら、パニックになる」


『了解。郊外に、放棄された採石場を確認。半径一キロ以内に居住反応はありません。接近する人間は、徒歩でないと到達できない地形です』


「上等だ。そこに降りる」


機体が、雲を抜けていく。緑の大地が、見る間に近づいてくる。


玲は、操縦桿を握りながら、自分自身に言い聞かせるように、呟いた。


「ここからは、撃つだけじゃ済まねえ。言葉で、人を動かさなきゃならねえ。……柄じゃねえな」


『その通りです。あなたは交渉に向いていません。観測データが示しています』


「……お前、起こすんじゃなかったかもな」


『冗談です。パイロット。九・二パーセントの確率で』


「冗談に確率つけんな」


軽口を叩きながら、それでも玲の手は、震えていなかった。


十年間、空で、敵を墜とし続けてきた男。


その彼が今、初めて――地に降り、踏みつけられた者たちの前に立とうとしている。


剣を交えるためではなく。


味方を、得るために。


異世界の大地に、鋼の影が、ゆっくりと舞い降りていく。


人類最後のエースの戦いは、ここから――空の戦争から、地上の革命へと、その姿を変えていく。


その第一歩が、今、踏み出された。


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