第二章 灰の王子
「神崎玲、ただいまより、反逆する。――この鉄屑は、てめえの玩具じゃねえ!」
その宣言の後、城に流れたのは、長い沈黙だった。
騎士たちは剣を抜くべきか迷い、魔導士たちは杖を構えたまま動けず、民は息を呑んで鋼鉄の巨人を見上げていた。誰の目にも明らかだった――今この瞬間、城の運命を握っているのは、王族ではなく、あの鋼の騎士なのだと。
セオドールも、それを理解していた。
だからこそ、彼は最悪の選択をした。
「……っ、ふ、ふざけるな……っ」
杖を握る手が震えている。契約紋でいくら玲を灼いても、〈ヴァルキュリア〉はびくともしない。痛みでは、もう縛れない。王族の権威でも、もう縛れない。
追い詰められた小さな獣のように、セオドールの目が、忙しなく辺りを泳いだ。
そして――その目が、中庭の片隅で立ち尽くす、ひとりの少女を捉えた。
リルだった。
セオドールの顔に、醜い理解が広がっていく。
「……そうか。そういうことか」
彼は、玲が地下牢で口にした言葉を覚えていた。
――リルがいる。あの子が泣いてる城を、見殺しにしたくないだけだ。
「鉄屑が反逆したのは……お前のせいだな、小娘」
「……え」
リルが、青ざめた。
「使い魔に余計な情けをかけた、薄汚い台所女。お前がいるから、あれは僕に逆らうのだろう。ならば――」
「やめろ」
玲の声が、外部スピーカーから漏れた。初めて、その声に焦りが滲んでいた。
「やめろ、セオドール。その子は関係ない」
「関係なくは、ない」
セオドールが、杖をリルに向けた。
「お前の弱みは、その子だ。……ならば、弱みを断てば、お前はまた僕のものに戻る。違うか?」
「やめろッ!! 」
〈ヴァルキュリア〉が動いた。リルとセオドールの間に割り込もうと、巨体が地を蹴る。
だが――鋼鉄は、速くても。
魔法は、もっと速かった。
セオドールの杖の先で、白い光が爆ぜた。
それは音もなく宙を走り、まっすぐにリルの胸を貫いた。
リルは、声を上げなかった。
ただ、何が起きたのかわからない、というような、あどけない顔のまま――ゆっくりと、後ろへ倒れていった。
差し出すように伸ばされた小さな手の中には、布に包んだパンが、まだ握られていた。
きっと、また持ってきてくれたのだ。地下牢にいるはずの玲のために。彼がもうそこにいないことも知らず、いつものように、台所からこっそりと。
「リル!!! 」
〈ヴァルキュリア〉が、滑り込むように地に伏せた。鋼鉄の巨大な手のひらが、倒れていく少女の体を、地面に触れる寸前で、そっと受け止める。
ハッチが開く。玲は転がり落ちるように機体を降り、鋼鉄の手のひらの上へ駆け上がった。
「リル、リル、おい、しっかりしろ! 」
少女の体を抱き起こす。胸の傷は――もう、玲が幾度となく戦場で見てきたものだった。手の施しようがない、と一目でわかってしまう、あの傷だった。
「レイ、さま……」
リルの唇が、かすかに動いた。
「来て、くれた……地下牢、出られたんですね……よかった……」
「喋るな。喋るな、いいから、」
「あのね……パン、また……焼いたんです……今度の、は……ちょっと上手に、できたから……食べて、ほしくて……」
「ああ。ああ、食う。食うから。だから――」
「……レイさまが、空を、飛んでるとこ……かっこ、よかったな……」
少女が、笑った。
竜の群れを蹴散らした鋼鉄の騎士を見上げて、口を押さえていた、あの時のように。
そして、その小さな笑みを浮かべたまま――リルの手から、力が抜けた。
布包みが、鋼鉄の手のひらの上に、ことりと落ちた。
玲は、動かなくなった少女を抱いたまま、しばらく――何も言えなかった。
風が吹いた。リルの髪を、わずかに揺らした。
それきり、彼女は二度と、動かなかった。
「……たかが、使い魔の機嫌取りひとつで」
地上から、セオドールの声がした。
恐怖を押し殺すように、それでも勝ち誇ったように、震える声で。
「これで、お前の弱みは消えた。さあ、もう逆らう理由はないだろう、鉄屑。元の通り、僕に――」
玲は、顔を上げなかった。
ただ、静かに、リルの体を鋼鉄の手のひらの上に横たえた。落ちた布包みを拾い、彼女の胸の上に、そっと戻してやった。
「……レイさまが、空を飛んでるとこ、かっこよかったな、か」
呟きは、誰にも聞こえなかった。
「最後に見せられたのが、空じゃなくて……これか」
玲は立ち上がった。
その顔には――もう、何の感情も浮かんでいなかった。
怒りでも、悲しみでもない。十年の戦場でも、ついぞ越えなかった一線を、今しがた越えてしまった人間の顔。
ただ、無だった。
「セオドール」
玲は、コックピットに戻りながら、その名を呼んだ。
「お前は今、戦争で死ぬべきだった兵士でも、覚悟を決めた大人でもなく――ただ、パンを焼いていた子どもを殺した」
ハッチが閉じる。
「人を殺すのは、初めてじゃない。十年やってきた。何百と墜とした。だがな、セオドール」
〈ヴァルキュリア〉が、立ち上がった。
リルを乗せた手のひらを、傷つけぬよう、そっと地に下ろしてから。
「あれは全部、戦場だった。撃たなきゃ撃たれる、そういう場所での話だった。俺はずっと、それを言い訳にして、自分は人殺しじゃない、兵士だと、そう思い込んで飛んできた」
機体の単眼が、赤く灯った。
「お前は今、その言い訳を、俺から奪った」
「な……何を、言って……」
「初めてだ。――守るためじゃなく、許せないから、人を殺すのは」
セオドールが、逃げ出した。
杖を投げ捨て、王族の威厳もかなぐり捨てて、城の中へと、転がるように。
「衛兵! 騎士団! あれを止めろ! 殺せ! 殺せえ!! 」
騎士たちが動いた。だが、彼らの動きには、もう先ほどの忠誠はなかった。主君が何をしたのか、全員が見ていた。それでも命令だからと槍を構える者もいれば、剣を下ろして後ずさる者もいた。
玲は、彼らには目もくれなかった。
〈ヴァルキュリア〉が、城へ向かって歩き出す。一歩ごとに、大地が揺れる。
魔導士たちが炎の魔法を放った。火球が機体に着弾し、装甲の表面で爆ぜる。だが、対空ミサイルの直撃にすら耐える装甲が、その程度で傷つくはずもなかった。
玲は淡々と、機関砲の照準を、城の尖塔に合わせた。
セオドールが逃げ込んだ、王族の居館。
「逃げ場なんて、ねえよ」
引き金を、引いた。
轟音。尖塔が、根元から砕け散った。石材が雨のように降り注ぎ、悲鳴が上がる。
玲は、止まらなかった。
城壁を、鋼鉄の拳で打ち砕く。物見櫓を、なぎ倒す。城門を、踏み潰す。逃げ惑う兵士たちの足元を撃ち、武器を捨てて逃げる者は追わず――ただ、王子の城そのものを、徹底的に、解体していった。
それは、殺戮ではなかった。
破壊だった。
「見ておけ」
外部スピーカーから、玲の声が、崩れゆく城に響き渡る。
「これが、人ひとりの命を、自分の都合で消した代償だ」
「王族の権威がどうした。城がどうした。お前たちが守ってきたもの全部、鋼鉄の前では、これだけ脆い」
尖塔が、また一つ崩れる。
「覚えておけ。今日この城を見た者は、全員、語り継げ。――あの鋼の騎士に逆らうな、と。あいつの大事なものに、手を出すな、と」
それは、恐怖の刻印だった。
二度と、誰も――リルのような子どもを、自分の保身のために殺せないように。
その傲慢が、どれほどの破滅を招くのかを、世界に刻みつけるための。
セオドールは、崩れた居館の瓦礫の中で見つかった。
逃げ切れなかったのだ。玲が、逃がさなかった。
〈ヴァルキュリア〉の巨大な影が、瓦礫の上に倒れ込んだ少年の上に落ちる。鋼鉄の手が、ゆっくりと、その小さな体を地面に押さえつけた。潰すのではなく――逃げられないように。
「……っ、た、助けて……っ、僕は、王族だぞ……っ、僕を殺せば、王国が、お前を……っ」
「ああ。追ってくるだろうな」
玲は、静かに答えた。
「王国だろうが、帝国だろうが、竜だろうが、何だって追ってくればいい。俺は十年、世界の終わりと戦ってきた。今さら、ひとつふたつ国が増えたところで、どうってことはねえ」
「ま、待て、話せばわかる……っ、地位をやる、金をやる、女でも何でも……っ」
「いらねえよ」
機体の単眼が、瓦礫に這いつくばる少年を、冷たく見下ろした。
「お前が俺にくれてやれるもんで、欲しいものなんて、もう何ひとつ残ってねえ」
「……っ」
「あの子が焼いたパンを、もう一度あいつの手から受け取ること。それだけが、俺の欲しかったものだった。お前が、それを消した」
鋼鉄の手に、力がこもる。
「だから――終わりだ、セオドール」
セオドールが、最後に何か叫んだ。
その声は、鋼鉄が落ちる音に、かき消された。
灰の王子の物語は、そこで途絶えた。
城は、もう見慣れた城ではなかった。
崩れた石材と、立ち上る煙と、呆然と立ち尽くす生存者たちの群れ。それだけが残された。
〈ヴァルキュリア〉は、その廃墟の中心に、静かに佇んでいた。
玲はコックピットを降り、リルを横たえた草原へと戻った。
少女は、まるで眠っているようだった。胸の上には、彼女が最後まで握っていた布包みが置かれている。
玲は膝をつき、その包みを、そっと開いた。
中には、小さなパンが二つ、入っていた。
不格好で、片方は少し焦げていて。でも、確かに、誰かが心を込めて焼いたとわかる、そんなパンだった。
「……ちょっと上手にできた、か」
玲は、そのパンを、ひとつ手に取った。
そして――ひと口、かじった。
味なんて、わからなかった。
涙が、止まらなかったから。
十年間、仲間の死にも、故郷の崩壊にも、ついぞ流れなかった涙が、今、異世界の草原で、子どものパンの味と一緒に、際限なくこぼれ落ちた。
「……旨いよ。リル」
声が、震えた。
「すげえ、旨い。……ちゃんと、上手に焼けてた。お前は、すげえよ」
風が吹いた。
煙が流れ、空が見えた。燃えていない、青い空。リルが「かっこよかった」と言ってくれた、あの空。
玲は、パンを食べ終えると、立ち上がった。
生存者たちは、誰も近づいてこなかった。鋼の騎士の悲しみに触れることを、恐れるように。それでいい、と玲は思った。恐れられて、いい。もう、誰の使い魔でもない。誰の玩具でもない。
「行こうぜ、相棒」
〈ヴァルキュリア〉が、再び目を覚ます。
戦闘機形態へ。咆哮を上げて、鋼鉄が天へと駆け上がる。
眼下で、廃墟と化した城が、見る間に小さくなっていく。やがて地平線の彼方へと消えていく。
玲は、操縦桿を握り、行き先のない空へと機首を向けた。
帰る場所は、元の世界にも、この世界にもない。
待ってくれる者は、もういない。
それでも、飛ぶ。
飛ぶことしか、できないから。そして――今はもう一つ、理由ができた。
「二度と」
玲は、誰にともなく、呟いた。
「二度と、目の前で、あんな顔で笑う奴を、死なせやしねえ」
それは、誓いだった。
リルへの。そして、これから出会うかもしれない、誰かへの。
異世界の青空に、たった一機、鋼の影が走る。
人類最後のエースの、本当の戦いは――故郷を遠く離れたこの空で、ようやく、始まったばかりだった。




