第一章 召喚された鉄屑
目を開けると、空が違った。
青い。燃えていない。雲が、白い。
「……は?」
玲はコックピットの中にいた。〈ヴァルキュリア〉は人型のまま、緑の草原に膝をついている。装甲のあちこちに被弾痕は残っているが、致命傷の感触が消えていた。墜ちていたはずだ。海に叩きつけられるはずだった。
なのに、ここは――どこだ。
ハッチを開けて顔を出す。風が頬を撫でる。土と草の匂い。硝煙の混じらない、生まれて初めて嗅ぐような清潔な空気だった。
そして玲は、自分の機体を取り囲む人垣に気づいた。
甲冑。ローブ。剣。槍。中世の絵本から抜け出してきたような格好の連中が、十数人。みな、青ざめた顔で〈ヴァルキュリア〉を見上げ、武器を構えている。
その中心に、ひとりの少年が立っていた。
歳は十五、六。金の髪を撫でつけ、白絹に金糸の刺繍をあしらった上着を着ている。指輪をいくつも嵌めた手に、宝石の埋まった杖を握っていた。顔立ちは整っているが、それを台無しにするほど傲慢に唇を歪めている。
少年は杖の先を玲に突きつけ、よく通る声で言い放った。
「我が召喚に応えよ、僕の僕よ! 偉大なる第三王子セオドール・ヴァン・アシュフォードの使い魔となる栄誉を授ける!」
「……使い魔?」
「跪け! そして名を名乗れ! ……む、それはなんだ、鉄の巨人か? ふん、魔導鎧の出来損ないにしては大きいが、まあいい。僕の使い魔にふさわしい器ではある」
玲は混乱していた。言葉が、わかる。明らかに知らない言語のはずなのに、意味が頭に直接入ってくる。
「待て、状況がわからない。ここはどこだ。俺は墜ちて――」
「口を慎め!」
セオドールと名乗った少年が、杖を振った。
刹那、玲の右腕に灼けるような痛みが走った。手の甲に、見たこともない紋様が浮かび上がっていく。光り、肉に刻まれ、焼き付くように定着する。
「ぐ……っ、なんだこれは!」
「使い魔の契約紋だ。それが刻まれた以上、お前はもう僕のものだ。命令には絶対服従。逆らえば――こうなる」
セオドールが軽く杖を振っただけで、紋様が再び発熱した。今度は痛みが全身を貫いた。玲はコックピットの縁を掴んで、辛うじて崩れ落ちるのを堪える。
「……っ、てめえ……」
「ははっ、いい声で鳴くじゃないか。さあ降りてこい、鉄屑。お前の主人に挨拶をさせてやる」
玲の中で、何かが冷えていくのを感じた。
十年の戦場で、彼は多くの上官に従ってきた。理不尽な命令も飲んできた。仲間を見殺しにする作戦にも、歯を食いしばって従った。それが軍人だと思っていた。
だが――これは、違う。
これは、命令じゃない。
ただの、嗜虐だ。
連れて行かれたのは、丘の上にそびえる白亜の城だった。
正確には、連れて行かれたのは玲ひとりで、〈ヴァルキュリア〉は草原に放置された。「あんな鉄の塊、動かんだろう」とセオドールは鼻で笑った。動く、と玲は言わなかった。言う義理もなかった。
城内で、玲は薄汚れた地下の一室に押し込められた。藁の寝床。鉄格子。水の入った木桶がひとつ。
「ここがお前の部屋だ。光栄に思え」
「……囚人かよ」
「使い魔だ。賢い使い魔は、与えられたものに感謝する」
セオドールはそう言い残して去った。鉄格子が施錠される音が、やけに大きく響いた。
玲は藁の上に座り込み、右手の甲に刻まれた紋様を見つめた。触れると、まだ熱を持っているように感じる。
異世界。召喚。使い魔。
荒唐無稽だが、状況証拠は揃いすぎている。あの空、あの空気、あの言葉。そして何より――この紋様の痛みが、すべてが現実だと告げていた。
「……生き延びた、と言えるのか、これは」
戦場で死にかけ、気がつけば別の檻の中。皮肉なものだ。
その夜、食事は与えられなかった。
翌日も、セオドールは現れなかった。
代わりにやってきたのは、ひとりの少女だった。
「……あの。これ、よかったら」
鉄格子の隙間から、布に包んだパンと、小さなチーズの塊が差し入れられた。
玲が顔を上げると、十二、三歳ほどの少女が立っていた。粗末な麻のワンピース。すり切れたエプロン。城の使用人だろう。怯えたような、それでいて懸命に勇気を振り絞ったような目をしていた。
「……いいのか。主人に怒られるぞ」
「セオドール様は……使い魔の方に食事を出すと、無駄遣いだって。でも、あの、わたし、あなたが二日も何も食べてないの、見てられなくて」
玲はしばらくその少女を見つめてから、ゆっくりとパンを受け取った。
「……ありがとう。助かる」
少女は、その言葉に小さく目を見開いた。まるで、礼を言われることに慣れていないかのように。
「名前は?」
「……リル、です。台所の」
「リルか。俺は玲。神崎玲」
「カンザキ……レイ、さま」
「様はいらない。使い魔だぞ、俺は」
玲が口の端で笑うと、リルもおずおずと微笑んだ。
その小さな微笑みを見て、玲はふと、墜落の瞬間に抱いた子どもじみた願いを思い出した。
――誰かに「お前のおかげで助かった」と、言われてみたかった。
叶わなかったその願いの代わりに、今、目の前の少女が「見てられなくて」と言って、パンを差し出してくれている。
くだらない。たかがパン一切れだ。
それでも玲は、その一切れを、十年で食ったどんな飯よりも旨いと感じてしまった。
事態が動いたのは、それから三日後だった。
城が、慌ただしくなった。兵士が駆け回り、鐘が鳴り、女たちが泣き始める。
リルが鉄格子に駆け寄ってきた。顔が真っ青だった。
「レイさま、たいへんなんです……っ。隣の領の軍が、攻めてきて……っ。竜です、飛竜の群れが空から……!」
「飛竜」
「城の魔導士たちも、騎士団も、ぜんぜん歯が立たなくて……。このままじゃ、城が……みんながっ」
そのとき、地下牢の扉が乱暴に開いた。
セオドールだった。だが三日前の傲慢さは消え失せ、髪を振り乱し、目を血走らせている。
「鉄屑! 貴様、戦えるんだろう!? あの鉄の巨人で、竜を墜とせ!」
「……命令か?」
「命令だ! 契約だ! 逆らえばどうなるか、わかっているな!」
セオドールが杖を掲げる。紋様が、また熱を持ち始める。
玲は、痛みに耐えながら――静かに笑った。
「いいぜ。戦ってやる」
「な……素直じゃないか。さすが僕の――」
「だが、お前の命令だからじゃない」
玲は立ち上がり、鉄格子を握った。その目には、地下牢に来てから初めての、戦場の男の光が宿っていた。
「リルがいる。あの子が泣いてる城を、見殺しにしたくないだけだ」
「な、何を……っ」
「契約紋がどうした。痛みがどうした。俺は十年、もっと痛いものを背負って飛んできた。お前みたいなガキの遊びに、俺の操縦桿は握れねえよ」
玲はセオドールを押しのけ、地下牢を出た。引き止める声を背に、彼は城の外へ、草原へと駆けた。
放置された〈ヴァルキュリア〉が、朝日を浴びて佇んでいる。
「待たせたな、相棒」
コックピットに滑り込む。慣れた感触。生体認証。起動シークエンス。眠っていた鋼鉄の魂が、唸りを上げて目を覚ます。
ディスプレイに、空を埋め尽くす飛竜の群れが映った。数十。城の上空を旋回し、火を吐き、騎士たちを薙ぎ払っている。
玲は操縦桿を握り、深く息を吸った。
「人類最後のエースが、竜退治ってか。……上等だ」
〈ヴァルキュリア〉が大地を蹴った。人型から、戦闘機形態へ。雷鳴のような加速で、鋼鉄の騎士が天へと舞い上がる。
異世界の青空に、初めて――ジェットエンジンの咆哮が轟いた。
戦いは、一方的だった。
飛竜は速い。だが、音速には遠く及ばない。〈ヴァルキュリア〉は群れの中を縫うように飛び、機関砲で次々と竜を撃ち落としていく。火を吐こうとする竜の懐に潜り込み、空中で人型に変形し、装甲の拳で叩き伏せる。
城壁の上で、騎士たちが呆然と空を見上げていた。魔導士たちが、ありえないものを見る目で言葉を失っていた。
「な……なんだ、あれは……」
「鋼の、騎士……?」
「飛竜が……あんなに、容易く……」
リルは、城の中庭から空を仰いでいた。鋼鉄の機体が陽光を弾き、竜たちを蹴散らしていく。彼女は、その機体が誰のものか、すぐにわかった。
「レイさま……っ」
最後の一頭が、断末魔を上げて谷に墜ちていく。
空が、静まった。
〈ヴァルキュリア〉が城の前にゆっくりと降り立つ。人型の鋼鉄の巨人が、片膝をつき、辺りを睥睨する。
歓声が、上がった。
「勝った……勝ったぞ……!」
「あの鋼の騎士のおかげだ……!」
「我らは、助かったのだ……!」
その歓声の中、玲はコックピットの中で、静かに目を閉じていた。
――お前のおかげで助かった。
直接そう言われたわけではない。だが、城を満たすその声は、確かに、玲が十年間ずっと聞きたかった言葉だった。
胸の奥が、じんと熱くなる。
それは、契約紋の痛みとは、まるで違う熱だった。
だが――その熱を、踏みにじる者がいた。
「やったぞ! 見たか! 僕の使い魔だ! 僕が召喚した使い魔が、竜を退治したのだ!」
城門から飛び出してきたセオドールが、両手を広げて叫んだ。
「皆、頭が高い! これは僕の力だ! 第三王子セオドール・ヴァン・アシュフォードの、偉大なる召喚術の成果だ!」
歓声が、戸惑いに変わる。
「鉄屑! 降りてこい! 民にお前の主人を披露してやる! 跪け、そして僕の手の甲に口づけをして、忠誠を――」
玲は、コックピットの中で目を開けた。
外部スピーカーのスイッチに、指をかける。
そして、〈ヴァルキュリア〉が――立ち上がった。
ゆっくりと。城を、人々を、そしてセオドールを見下ろすように。全高十数メートルの鋼鉄の巨人が、傲慢な王子の前に、影を落とす。
「な……っ、何をしている、鉄屑! 跪けと言っただろう!」
セオドールが杖を掲げ、契約紋を発動させる。
玲の右手に、灼熱が走った。
激痛だった。今までで、いちばん強い。
だが――玲は、操縦桿から手を離さなかった。
「言ったはずだぜ」
外部スピーカーから、鋼鉄越しの声が、戦場全体に響き渡る。
「お前の命令で動いてるんじゃない、ってな」
「黙れ! 契約だ! お前は僕の使い魔だ! 絶対服従の――」
「契約?」
〈ヴァルキュリア〉の鋼鉄の腕が、ゆっくりと持ち上がった。
「俺はな、セオドール。十年間、命令される側だった。理不尽な命令も、間違った作戦も、全部飲んで飛んできた。なぜだと思う」
「な、何を……」
「その先に、守りたいものがあると、信じてたからだ」
機体の指が、セオドールの眼前に突きつけられる。彼の小さな体が、鋼鉄の指一本の前で、震えていた。
「だがお前の命令の先には、何もねえ。お前の見栄と、お前の保身と、お前の傲慢しかねえ。そんなもののために操縦桿を握るほど、俺は安い兵士じゃねえんだよ」
「貴様……っ、王族に向かって……っ!」
セオドールが、半狂乱で杖を振り続ける。契約紋が、玲の腕を、肩を、全身を灼く。だが玲は、笑っていた。
「ああ、痛えよ。すげえ痛え。――それがどうした」
玲は、ゆっくりと右手を掲げた。契約紋の刻まれた、その手を。
「この程度の痛みで縛れると思ったのが、お前の間違いだ」
そして玲は、外部スピーカーに向かって、はっきりと宣言した。
「神崎玲、ただいまより、反逆する。――この鉄屑は、てめえの玩具じゃねえ」
城が、静まり返った。
王子の使い魔が、王子に牙を剥いた。
その異常な光景を前に、騎士も、魔導士も、民も、誰ひとり動けなかった。
ただひとり、中庭のリルだけが――こみ上げる何かを堪えるように、両手で口を押さえ、鋼鉄の騎士を見上げていた。
「……レイ、さま……」
異世界の青空の下。
人類最後のエースパイロットの、長い反逆の戦線が――今、幕を開けた。




