第十二章 辺境の灯火
アシュフォード王国の最果て、険しい山々に囲まれた超辺境の地。そこに、地図に辛うじて名前が載る程度の小さな領地――ローウェル男爵領があった。
「……今月の帳簿も、やっぱり真っ赤だな」
古びた執務室で、ローウェル家の現当主である若い男爵、アレン・ローウェルは、すり切れた机の上でため息をついた。
彼のまとう上着はあちこちに継ぎ当てがされ、貴族の正装というよりは、うだつの上がらない平民の衣服に近かった。男爵という爵位こそ持っているものの、その暮らしぶりは王都の中央騎士はおろか、裕福な大商人の使用人よりも困窮しているのが実情だった。
屋敷の屋根は雨漏りがし、日々の食事は薄いスープと硬い麦パン。それが、この領地を治める主の日常だった。
しかし、ローウェル家の人々は、代々驚くほど優しい性格をしていた。
「アレン様、また木こりのトトさんの家でお子さんが生まれたそうです。ですが、あそこは冬の蓄えが足りなくて……」
「そうか。なら、うちの蔵にある干し肉と小麦を少し分けてやってくれ」
「ですが、アレン様。それをやれば、来週の私たちの分の小麦が……」
「いいんだ。飢えて死ぬ子供を見るよりは、僕たちの腹が少し鳴るくらいの方がずっとマシさ」
亡くなった先代の父親も、絵に描いたような領民思いの男だった。
領民が困っていれば自分の財産を惜しみなく分け与え、病人が出れば町から高い薬を借金してまで買い与えた。その結果、ローウェル家には莫大な借金が残り、財政は完全に火の車となっていた。
中央の苛烈な貴族たちからは「民に優しい無能な派閥」と嘲笑され、その派閥の中でもさらに一番小さく、発言権すらない弱小領主。それが彼らの立ち位置だった。
それでもアレンは、「領民を家族と思え」という先代からの言い伝えを頑なに守り、文句一つ言わずに細々と暮らしていた。
そんなアレンは、自分がまさか王家の正統な最高位の血筋(長男筋)であるなど、露ほども知らなかった。
ただ、父が病で亡くなる間際、彼に手渡した一本の古びた鍵のことだけは覚えている。
『アレン、私が死んだら、この鍵で書庫の奥にある隠し棚の本を読みなさい。そこに、我が家のすべてが記されている……』
父はそう言って息を引き取った。
アレンは言われた通り、書庫の奥から埃を被った重厚な一冊の古文書を見つけ出した。しかし、辺境育ちのアレンには宮廷で使われるような難解な古い文字を読むほどの教養がなく、数ページめくっただけで頭が痛くなり、そのまま机の引き出しの奥に仕舞い込んでしまっていた。
「どうせ、何百年も前の先祖の退屈な日記か何かだろう」
アレンはそう思い、鍵のことも本の内容も、日々の生活の忙しさの中に埋もれさせていた。
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彼にとって、華やかな「王都」の存在は、おとぎ話の絵本の中の世界に等しかった。
行ったこともなければ、行くための旅費すらない。雲の上の魔法を操る高貴な貴族たちが、きらびやかな城でどんな暮らしをしているのか、アレンには想像もつかなかった。
「僕には、この小さな山奥の村があれば十分さ」
アレンは窓の外を眺めた。
痩せた畑を耕す領民たちが、アレンの姿を見つけて親しげに手を振ってくる。アレンも笑顔でそれに応えた。
地位も、名誉も、贅沢な暮らしもいらない。
ただ、大切な家族と、この優しい領民たちが、明日も飢えずに細々と生きていければそれでいい。アレンは心からそう願っていた。自分たちが歴史の裏に隠された「本物の王」であるなどとは、夢にも思わずに。
だが、その静かな辺境の日常に、変革の足音が近づいていた。
バルトロ地方を制圧し、絶対不可侵の空を手に入れた「鋼の頭目」神崎玲。
彼が率いる千二百人の革命軍の次なる一手が、この何も知らない心優しい青年男爵の元へと、まっすぐに向けられようとしていた。
運命の歯車が、山奥の小さな領地を巻き込んで激しく回り始めようとしていた。




