第九章 希望の天秤
「……9公1民、だと?」
バルトロ城の広大な執務室。グラハム伯爵が逃げ遅れて残していった財政原帳をめくりながら、玲は低く、地を這うような声で呟いた。
「ああ。それがこの地方……いや、アシュフォード王国における『持たざる者』の標準さ」
隣に立つジーナが、苦々しく腕を組んだ。
「麦を十束収穫したら、九束は領主に召し上げられる。民の手元に残るのは、わずか一束。それも、翌年の種籾や、城への労役の道具代を引かれれば、実質的に手元には何も残らない。だからみんな、年中飢えて、うつむいて泥をすするしかねえんだ」
魔法を持つ貴族たちの贅沢な暮らしは、民の血を限界まで絞り出すことで成り立っていた。あの王子の城で、リルが粗末な麻のワンピース一枚で、暖房もない部屋で働いていた理由が、この一冊の帳簿にすべて凝縮されていた。
玲は帳簿を乱暴に閉じ、長机に放り投げた。
「こんなものは奴隷の帳簿だ。社会の体を成してねえ。――ジーナ、今日限りでこの税制を廃止する」
「廃止って、あんた……じゃあ、代わりにどうするんだい? 城の維持や、私たちの武器、兵たちの食い扶持はどうやって賄う?」
「これを使う」
玲が指を鳴らすと、空中にあの半透明の品書き――〈補給市〉が展開された。天文学的な数字に膨れ上がった点数が、青白く明滅している。
「城の維持費も、食料も、薬も、必要なものはすべて俺の『店』から出す。民から無理に吸い上げる必要はどこにもない。――今日から、新しい法律を作る。持てる者から多くを取り、持たざる者を助ける。『累進課税制度』だ」
玲が提示した新しい税制の骨子は、ジーナをはじめとするレジスタンスの幹部たちを驚天動地させた。
富を持つ旧貴族の残党や大商人からは、その資産に応じて段階的に税を徴収する。一方で、土地を失っていた小作農や、その日暮らしの労働者たちからは、税を極限まで免除、あるいは軽減する。
「計算上、領地全体の平均税率は、これまでの真逆になる」
耳元で、ノルンが淡々とシミュレーション結果を告げた。
『富の再分配を最適化した場合、実質的な税率は「1公9民」へと移行します。民の手元に収穫の九割が残る計算です。当機の科学体系における近代国家の黎明期に用いられた、極めて民衆に有利な経済モデルと言えます』
「1公、9民……!?」
ジーナは目を丸くし、何度も数字を頭の中で反芻した。
「おいおい、正気かい頭目。そんなことをしたら、民は飢えるどころか、一冬で誰もが小太りになるぞ。貴族の連中が見たら、卒倒して泡を吹くような数字だ」
「吹かせておけ」と玲は冷徹に言った。「元々、あいつらが奪いすぎていただけだ。本来あるべき場所へ、富を戻す。ジーナ、すぐに街へ布告を出せ」
「……わかったよ。本当に、あんたについていくと、退屈だけはしなさそうだ」
ジーナは呆れ顔の中にも、隠しきれない興奮を滲ませて執務室を飛び出していった。
バルトロ地方の全域に、臨時の触れ役たちが放たれ、新しい税制の布告が読み上げられた。
最初、街の広場に集まった民たちは、誰もその言葉を信じようとはしなかった。
「9公1民が、1公9民になる……?」
「馬鹿な、そんな美味い話があるか。どうせ、後からもっと重い罰金をふんだくるための貴族の罠だ」
民たちは互いに顔を見合わせ、怯え、新しい「鋼の頭目」の真意を疑った。踏みつけられ、騙され続けてきた彼らにとって、権力者からの「無償の恩恵」ほど恐ろしいものはなかったからだ。
しかし、その疑念は、最初の徴税の日に完全に吹き飛んだ。
城から派遣されたレジスタンスの兵たちは、民の家に押し入ることも、隠した麦を暴くこともしなかった。それどころか、貧しい家庭の帳簿を確認すると、紙切れ一枚を渡し、笑顔で「お前の家は免税だ。残った麦は全部、子供たちに食わせてやれ」と言い残して去っていった。
本当に、手元に九割の富が残った。
それどころか、玲が〈補給市〉から無尽蔵に投下する生活物資や農耕道具により、市場には安価で質の良い物品が溢れ返った。
「本当だ……本当に、お上が俺たちから何も奪わない……!」
「それどころか、病気の子供に薬までくれた……!」
絶望の泥の中にいた民たちの顔に、生まれて初めて、心からの笑顔が咲いた。
街のあちこちで歓声が上がり、夜には誰からともなく、玲の優しさを称える歌が歌われ始めた。
「鋼の領主様、万歳!」
「神崎玲様こそ、俺たちのまことの主だ!」
かつてグラハム伯爵を恐れ、うつむいて歩いていた民たちが、今や自発的にバルトロ城を仰ぎ見、玲を新たな「領主」として熱狂的に崇拝し始めていた。
「だから、俺を領主と呼ぶなと言っている」
城のテラスで、街の明かりと民たちの歌声を見下ろしながら、玲は不機嫌そうに眉をひそめた。
「いいじゃないか、みんなあんたに感謝してるんだ」ジーナが酒杯を片手に、からかうように笑う。「三十年、誰も成し遂げられなかった奇跡を、あんたはたった数日でやってのけたんだ。みんな、あんたのためなら命だって投げ出す覚悟さ」
「俺が欲しいのは、俺のために命を捨てる奴隷じゃない。第六章でも言ったはずだ。自分の足で立つ、自由な民だ」
玲はフッとため息をつき、夜空を見上げた。高度一万メートルでは、今日も無人機〈フギン〉の群れが、絶対不可欠な「盾」として銀翼を光らせて巡回している。
「牙と盾は、俺とノルンが引き受ける。だからジーナ、お前たちはその内側で、本当の行政を動かせ」
「ああ、分かっているさ」
ジーナの目は、すでに冗談を言っているそれではなかった。
玲の圧倒的な庇護のもと、レジスタンスは単なる武力集団から、公正な社会を整備するための「政府」へと脱皮を始めていた。
ジーナたちを中心とした臨時の行政組織は、旧貴族の不当な特権を次々と剥奪し、奴隷制を廃止。身分に関わらず意見を述べられる公正な裁判制度の基盤を、一つずつ丁寧に作り上げていった。
不当に奪われる恐怖がない社会。
頑張って働けば、働いた分だけ自分と家族が豊かになる社会。
それは、かつてこの世界のどこにも存在しなかった、あまりにも眩しい「希望」の形だった。
バルトロ地方は、急速に形を変えていった。
活気に満ちた市場、飢えを知らない子供たちの笑い声、そして夜空を静かに守る鋼鉄の守護者たち。
だが、この「公正な社会」の誕生は、同時に、周囲の世界に対する最大級の宣戦布告でもあった。
アシュフォード王国の他領の民たちが、バルトロ地方の噂を聞きつけ、国境の目を盗んで続々と亡命を試み始めていたのだ。
「あそこへ行けば、飢えずに済む」「鋼の領主様が、魔法から守ってくれる」という噂は、風に乗って瞬く間に大陸へと広がっていった。
それは、魔法の有無で民を支配してきた既存の貴族たちにとって、己の権力の根底を揺るがす「最悪の疫病」に他ならなかった。
絶対不可侵の空の下、美しく回り始めた革命の歯車。
しかし、その輝きが強ければ強いほど、影から迫る暗雲もまた、深く、巨大なものとなっていく。
持たざる者が豊かになることを、決して許さない「世界の理」が、今、その牙を剥こうとしていた。




