第22話 裏山王国と呼ばれた日
第22話 裏山王国と呼ばれた日
初夏の陽射しが町を照らしていた。
裏山自治領の朝は美しかった。
果樹並木ではジューンベリーの赤い実が風に揺れ、オリーブの葉は銀色に光る。
道路は綺麗に掃き清められ、排水溝には落ち葉一枚浮いていない。
市場では焼きたてのパンの香りが漂っていた。
学校へ向かう子供達の笑い声。
診療所へ散歩がてら通う老人達。
荷馬車を引く商人達。
活気に満ちている。
その朝。
アニエスは裏山を掘っていた。
相変わらずである。
薄い麻のシャツ。
丈夫な作業ズボン。
軍手。
首には汗拭き用のタオル。
そして手には鍬。
世界有数の大富豪。
自治領代表。
商会総代表。
それら全てを無視した格好だった。
「うーん」
鍬を振る。
ざくっ。
土の匂いが立ち上る。
初夏の風が気持ちいい。
「やっぱり畑は落ち着く」
本人は幸せだった。
そこへギルバートがやって来る。
「探したぞ」
「なあに?」
「会議だ」
「嫌」
即答だった。
「嫌じゃない」
「畑が忙しい」
「領地も忙しい」
アニエスは不満そうな顔になる。
だが結局連れて行かれた。
商会本館。
大会議室。
今日は珍しく各地の代表者が集まっていた。
老人会。
婦人会。
子供会。
農業ギルド。
商人ギルド。
鍛冶師ギルド。
学校。
診療所。
ありとあらゆる団体の代表である。
会議室には焼きたてのスコーンと紅茶が並んでいた。
甘い香りが漂う。
婦人会の代表が微笑む。
「今年も赤ちゃんが増えました」
診療所の院長が頷く。
「母子ともに健康です」
農業ギルドの代表も笑顔だった。
「今年は過去最高の収穫です」
商人達も負けていない。
「交易量が昨年の二倍です」
報告が続く。
学校長が立ち上がった。
「今年の卒業生です」
机の上に資料が置かれる。
読み書き。
計算。
職業教育。
多くの若者達が技術を身につけていた。
アニエスは嬉しくなった。
「すごい」
心からそう思った。
その時だった。
窓の外から子供達の声が聞こえてきた。
「裏山王国ばんざーい!」
会議室が静まる。
アニエスが固まる。
「今なんて言った?」
ギルバートが笑いを堪えている。
窓の外では子供達が走り回っていた。
「裏山王国だー!」
「王国だー!」
「アニエス様ばんざーい!」
アニエスは頭を抱えた。
「違う違う違う」
会議室が笑いに包まれる。
老人会の代表が言った。
「最近そう呼ばれておるんです」
「なんで?」
「住みたい人が多いからですな」
商人ギルドの代表も頷く。
「他領から来た商人達が言い始めました」
「豊かで安全」
「仕事がある」
「病院がある」
「学校がある」
「老人も子供も大切にされる」
次々と声が上がる。
アニエスはますます困った。
「そんな大げさな」
婦人会の代表が笑った。
「大げさじゃありませんよ」
窓から見える景色を指差す。
石畳の道路。
果樹並木。
市場。
学校。
共同浴場。
診療所。
図書館。
そこには確かに人々の暮らしがあった。
昼。
会議が終わる。
アニエスは市場へ向かった。
少し照れくさかった。
「王国って」
ぶつぶつ言いながら歩く。
市場では今日も賑わっている。
パン屋では焼きたてのアップルパイ。
魚屋では新鮮な川魚。
果物屋にはイチジクが山積みだった。
「あ、アニエス様!」
子供達が駆け寄ってくる。
「見て!」
手には学校のノート。
綺麗な字が並んでいる。
「上手」
アニエスは褒めた。
子供達が嬉しそうに笑う。
さらに歩く。
共同浴場の前では老人達が将棋を指していた。
「おう」
「元気?」
「元気じゃ」
みんな笑っている。
診療所の前では若い母親が赤ん坊を抱いていた。
赤ん坊は気持ち良さそうに眠っている。
アニエスは思わず微笑んだ。
夕方。
収穫祭が始まった。
広場には長いテーブルが並ぶ。
ローストチキン。
野菜の煮込み。
焼きたてのパン。
イチジクのタルト。
ブルーベリーパイ。
果実酒。
香ばしい匂いが漂う。
人々は歌い。
笑い。
食べる。
誰もが幸せそうだった。
夕焼けが町を黄金色に染める。
その時。
旅人の一人が言った。
「本当に王国みたいだな」
周囲が笑う。
「裏山王国だ」
「その通り」
「裏山王国ばんざい!」
歓声が上がる。
アニエスは真っ赤になった。
「やめてよ」
「領主様!」
「違うって」
「裏山女王様!」
「もっと違う!」
みんな大笑いだった。
やがて。
夕陽が沈み始める。
高台の上。
アニエスは鍬を肩に担いで町を見下ろしていた。
家々の灯り。
市場の明かり。
学校。
病院。
果樹並木。
どれも温かい。
ギルバートが隣に立つ。
「どうだ」
「何が?」
「王国」
アニエスはしばらく考えた。
そして。
照れくさそうに笑う。
「国を作ったつもりはないの」
風が吹く。
果樹の葉が揺れる。
遠くで子供達の笑い声が聞こえた。
アニエスは町を見つめる。
優しい目だった。
「ただ」
小さく息を吸う。
「みんなが暮らしやすい場所にしたかっただけ」
その言葉にギルバートは静かに頷いた。
夕焼けが消える。
町の灯りが夜空に輝く。
裏山自治領。
いつしか人々は親しみを込めて呼ぶようになった。
裏山王国。
それは王のいる国ではない。
誰か一人のための国でもない。
そこに暮らすすべての人のための場所だった。
そして今日も。
アニエスは明日の畑仕事を考えながら、幸せそうに鍬を担いで家路につくのである。




