第1話 愛さなくて結構です、お幸せに!
第1話 愛さなくて結構です、お幸せに!
王立学園の卒業記念パーティーは、まばゆい光に満ちていた。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアには何百もの魔石灯が埋め込まれ、金色の光が大広間を照らしている。磨き上げられた大理石の床には貴族たちの姿が映り込み、色とりどりのドレスが花畑のように揺れていた。
焼きたてのローストビーフの香り。
果実酒の甘い匂い。
楽団が奏でる優雅な弦楽器の音色。
誰もが笑顔を浮かべ、未来を語り合う華やかな夜だった。
その中心に立つアニエス・ルヴェールは、静かにワイングラスを傾けていた。
深い紺色のドレスは公爵令嬢にふさわしい最高級品だ。銀糸の刺繍が星空のように裾へ散り、腰まで伸びた蜂蜜色の髪には真珠の髪飾りが輝いている。
だが本人は少し疲れていた。
いや、かなり疲れていた。
ここ十年。
王太子妃教育。
外交。
礼法。
歴史。
法律。
経済。
舞踏。
語学。
毎日毎日勉強勉強勉強。
朝から晩まで勉強。
たまの休日ですら王宮行事。
山で遊ぶこともできない。
畑仕事もできない。
虫取りも禁止。
泥遊びなど論外。
田舎育ちのアニエスには苦行そのものだった。
(ああ……帰りたい)
心の中でため息をつく。
(裏山で土いじりしたい……)
その時だった。
「アニエス・ルヴェール!」
よく通る男の声が響いた。
広間が静まり返る。
アニエスは顔を上げた。
王太子レナードだった。
隣には桃色のドレスを着た少女がいる。
最近やたらと見かける男爵令嬢ミリアだ。
レナードは大勢の前へ進み出る。
そして高らかに宣言した。
「私は真実の愛を見つけた!」
ざわり。
会場が揺れる。
アニエスは瞬きをした。
ああ、来た。
ついに来た。
なんとなく察していた。
最近レナードは妙によそよそしかったのだ。
「お前との婚約を破棄する!」
悲鳴にも似た声が上がる。
令嬢たちが口元を押さえた。
貴族たちが顔を見合わせる。
だがアニエスは内心で歓声を上げていた。
(やったああああああ!)
自由だ。
自由が来た。
ついに来た。
王妃教育から解放される。
報告書地獄から解放される。
毎週の礼法試験から解放される。
「そして私はミリアを愛している!」
(どうぞどうぞ)
「お前など愛さなくて結構だ!」
(ありがとうございます!)
「さらにルヴェール家は王家への不敬が認められた!」
(え?)
そこだけ少し引っかかった。
聞いていない。
だがレナードは止まらない。
「よって爵位を剥奪!」
広間が騒然となる。
「国外追放とする!」
しんと静まり返った。
誰もがアニエスを見る。
泣き崩れると思ったのだろう。
怒り狂うと思ったのだろう。
だが。
アニエスはゆっくり微笑んだ。
「承知いたしました」
今度は別の意味で会場がざわついた。
レナードが目を丸くする。
「……何?」
「承知いたしました、と申し上げました」
「異議はないのか?」
「ございません」
「なぜだ!」
思わず叫んだレナードに、アニエスは首を傾げた。
「なぜ、と言われましても」
「婚約破棄だぞ!」
「はい」
「追放だぞ!」
「はい」
「平民だぞ!」
「はい」
「なぜ平然としている!」
アニエスは少し考えた。
そして正直に答えた。
「むしろ嬉しいです」
「は?」
「自由になれますので」
会場が静まり返る。
ミリアですら口を開けている。
アニエスは続けた。
「レナード殿下は愛する方と結ばれるのでしょう?」
「あ、ああ」
「でしたら素晴らしいことです」
「いや、しかし……」
「私も自由になります」
心からそう思った。
その瞬間だった。
くつくつ、と笑い声が漏れた。
公爵である父だった。
「ははは……」
「お父様?」
「まったく、お前らしい」
父は額を押さえながら笑う。
「アニエス」
「はい」
「好きに生きろ」
その言葉だけで十分だった。
胸の奥が温かくなる。
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。
そして踵を返した。
誰も止められなかった。
その夜。
アニエスは王都を出た。
豪華な馬車ではない。
小さな荷馬車だった。
ドレスも着替えた。
動きやすい麻のシャツ。
茶色のズボン。
革のブーツ。
久しぶりの服装だった。
締め付けるコルセットもない。
重たい宝石もない。
風が気持ちいい。
窓を開けると夜の匂いが流れ込んできた。
湿った草の香り。
遠くの森の香り。
星空の下を馬車が進む。
「自由だあ……」
ぽつりと呟く。
涙が出そうになった。
悲しいからではない。
嬉しいからだ。
三日後。
最果ての村へ到着した。
懐かしい山並み。
透き通る川。
若葉の匂い。
鳥たちの鳴き声。
風が木々を揺らし、さらさらと葉擦れの音を奏でている。
「帰ってきたー!」
アニエスは思わず叫んだ。
村の老人たちが笑う。
「おお、アニエス嬢ちゃんだ!」
「帰ってきたのか!」
「腹減ってるだろ!」
気付けば食卓に引っ張り込まれていた。
大皿には焼きたての黒パン。
野菜たっぷりのスープ。
燻製肉。
山羊のチーズ。
一口食べる。
懐かしい味だった。
王宮料理より何倍も美味しい。
「おいしい……」
思わず呟く。
老人たちが笑う。
「そりゃよかった!」
その夜。
満腹になったアニエスは実家の裏庭へ出た。
月明かりが裏山を照らしている。
風が頬を撫でた。
その時だった。
「あれ?」
山の奥。
地面の下。
何かがおかしい。
魔力の流れが異常に濃い。
まるで巨大な川が地下を流れているようだった。
アニエスは目を細める。
地脈を読む力は昔から得意だった。
だからこそわかる。
普通ではない。
「なんだろう?」
好奇心が湧く。
明日、少し掘ってみよう。
暇だし。
畑でも作ろうかな。
そんな軽い気持ちだった。
まさかその裏山が、王国中をひっくり返す宝の山だとは。
この時のアニエスは、まだ夢にも思っていなかった。




