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こんなことなら、マルクとの話し合いなど後回しにすればよかった。あんな戯言を聞かされるくらいなら。
何も分からないまま、ざらつく思いのまま、ヒューベルトに接するくらいなら、少しでも状況を聞いた方が気持ちは落ち着くのではと思った私が馬鹿だった。私も、相当動揺していたらしい。
短い時間で積もった精神的疲労を押し隠し、息子が待つ部屋へと急ぐ。ただでさえ、普段の夕食の時間を過ぎているのだ。
歩きながら、客人たちは別室でもてなしているとアンが報告しにきた。
取り敢えず、そちらの対応は明日以降でも考えよう。今後の、シューリヒト子爵家に関わる事案だから。
「遅くなってごめんなさい、ヒュー。お腹空いたでしょう?」
「いいえ、母上。だいじょうぶです」
席についていた息子は、何事もなかったかのようににこりと笑う。言葉遣いも、表情もだんだん貴族らしくなってきた。
私は、笑顔を作ることができているだろうか。少し、自信がない。
いや、そんな不安や心配などの心の揺れは、端々に現れる。せめて今日が終わるまでは、息子のことだけを考えよう。
私も着席し、使用人たちに目で合図して準備をさせる。
「…父上は」
そういえば、マルクが来ていない。まさか、向こうに行ったの?
マルクの予定通りに進まなかったから、事情を説明しに行ったとか?
夫の言い分では、彼の娘の存在は、私たち家族が喜ぶべきもので、歓迎されると思っていたようだから。
そして、アリッサのためだったとも。
「…そのうち来ると思うわ。先に始めましょう?」
「…はい」
あちらにいるなら、もうそれでもいい。アリッサとしては正直、今日はもう顔を見たくない。
しかし、息子の誕生日だ。顔を見せないということはないだろう。別室に用意したのは、2人分の夕食であるし。
ただ、息子のために耐えようと思う。
マルクが持ち込んだ、特大の厄介事が片付くまでは。
切り替えよう。残り少なくなった今日という日を、息子の誕生日を祝うために。
「──みんな、グラスは持ったかしら?」
ぐるりと見回すと、屋敷の使用人たちは皆、笑顔で頷いた。
本来、使用人と食事などを共にすることはないが、誕生日だけは特別に、グラスを持ってもらうことにしている。
「改めて。──お誕生日おめでとう、ヒューベルト。あなたが生まれてきてくれたこと、健やかに育ってくれていること、何よりも嬉しいわ。私の元に生まれてくれて、ありがとう」
乾杯!の合図で、グラスを一斉に掲げ、口に含む。
しゅわしゅわとした泡立ちと口当たりが爽やかな、私好みなスパークリングワイン。もちろん、息子の分はアルコール成分のない、リンゴジュースだ。
スパークリングワイン自体、酒成分が低めなので、使用人たちには1杯だけ付き合ってもらい、後は仕事に戻ってもらう。
グラスを片付け、侍女の1人が部屋を出ようと扉を開けたとき、ようやくマルクが姿を見せた。
「なんだ、僕がまだなのに、先に始めちゃったのか?」
やっと来たのかと息をついたところで、アリッサは固まった。
「お父さーん、リーズどこにすわったらいいー?」
「ここ、ヒューの近くに座ったらいいよ。ほら、ダーシャも座って座って」
着替えたらしい、リーズとダーシャを、マルクが伴ってきたからだ。
ダーシャは質素なワンピースからドレスに。
リーズもまた。
「…っ! 奥様、あれは…!」
「…アン」
気付いたらしいアンが顔色を変えた。
私も、一目で気付いた。
怒りを目に宿すアンを、首を振ることで制止する。今は、何より優先すべきは、息子だと。
悔し気にぐっと黙るアンは、憎しみさえ籠った目をマルクに向けている。
「ヒュー、誕生日おめでとう! やっぱり2人とも連れてきたよ!」
「…お祝いのことば、ありがとうございます」
「何だ、固いなあ。もっと子供らしくはしゃいでもいいのに」
「……」
「ほら、リーズを見てごらん? あんなに嬉しそうにして」
わあ!と歓声を上げながら、私たち家族に用意されていた食事を遠慮なく貪っているリーズとダーシャ。
テーブルマナーは、思っていた以上にひどく、目も当てられない。マナー以前の問題だった。
スプーンもフォークもナイフも満足に使えず、しまいには手づかみしている。
衝撃の連続で食事を楽しむどころではなかったというのに、完全に食欲も失せた。
それでも、何とかヒューベルトが食事を終えるまで耐え、息子を送り届けてから、私室に戻った。
今日中にやっておかねばならないことある。部屋に鍵を掛け、アリッサは机に向かった。
シューリヒト前子爵夫妻、私の実家のメレフ子爵家に簡単な事情説明を記した手紙を。
あまり近いと支障があるだろうということで、前子爵夫妻は領地の隅の方に居を構えている。それでも、隣の領地のメレフ子爵家の人間よりは、こちらに着くのは早いだろう。
実家も弟に代替わりしているから、父母に伝えてもらい、来てもらうまでにきっと半日程度。
それから、弁護士と書記官の手配も同時にしなくては。
最低限のことを終え、扉の前で待機していたアンに、朝一でこれらを届けるようにと数通の封書を託す。
受け取ったアンは、走り出す勢いで姿を消し、すぐに戻ってきた。
近くにいたらしい、ジェフに渡してきたと。
ジェフは、マルクが今夜はあちらで過ごすという伝言を受け取ったらしい。そんなこと、今更どうでもいい。
「奥様。…アリッサ様」
「……アン」
部屋にはもうアンとアリッサの2人だけ。結婚以来、頑なに”奥様”と呼んできたアンが、私の名前を呼ぶのは久しぶりだった。
「もういいんです。もう、誰もいません」
「……」
「ここにいるのは、私とアリッサ様だけです」
「……っ」
ここには、ヒューベルトもマルクも、他の使用人もいない。いるのは、長年、私の傍にいて、私を見守ってくれた、私の。
「……アン……」
張りつめていた糸が、切れる。
堰き止めていた、堪えていた涙が溢れてきた。
ずっと我慢してきたものが、溢れ出し。
ただ、縋った。
「……どぉしてえ…っ!!」
アンに縋りついて、アリッサは泣く。
ぐるぐると渦巻いていた、怒りと哀しみを吐き出すように。
「どうしてよ…っ! なんでっなんで、浮気なんか…!!
何がっ…なにが、わたしのためよっ…! わたしのために、ほかの女と浮気した、だなんて…!! こどもまで、うませて…っ…それでも、わたしを、あいしてる、だなんて…っそれに、それにぃ…!!」
ヒューベルトを祝うために訪れたとき、ダーシャとリーズが纏っていたドレス。あれは、どちらもアリッサのものだ。
『お嬢様、そちらもお持ちになるのですか?』
『ええ。これだけは持っていきたいの』
『そちらのドレスはともかく、こちらは』
『そうね、今の私にはもう袖を通すことはできないけれど』
ダーシャの緑のドレスは、アリッサの母からの贈り物。
リーズの水色のドレスは、アリッサがマルクと初めて逢ったときに着ていた記念のもの。
どちらも、大切にしていたものだった。大切に、保管していたものだ。
『──…大事な、思い出のドレスなの』
どちらも、今日の2人が、食事の際に汚して、台無しにしてしまった。
「う…あああああああぁあぁぁぁ…っ!!」
マルクはアリッサを裏切っただけではなかった。
思い出までも、踏み躙ったのだ。




