核なき器
医務室の中央に並ぶベッドの一つで、智春は意識を失っていた。
切り裂かれた学ランとシャツは腹部が大きく開き、深い傷から溢れた血が腰の下までシーツを濡らしている。顔からは血の気が失われ、呼吸も浅い。
ベッドを囲むブレア、エリック、パットンの誰にも、普段の余裕はなかった。
「先生は、まだ来ないの!?」
ブレアが苛立たしげに扉を振り返る。
その声に応えるように、廊下から足音が近づいてきた。
「もう。転校してすぐに、こんなになるまで喧嘩するなんて」
扉を開けた女は、困ったように笑っていた。
腰まで届く銀白の髪。白衣の下には、身体の線に沿う黒いドレスを纏っている。青い瞳と、髪の間から伸びたエルフ特有の長い耳。片手には革張りの診療鞄を提げていた。
「モーラナ先生! 早くしてください!」
「はいはい。そんなに怒鳴らなくても聞こえてるわよ」
モーラナは鞄を机へ置き、智春の血に染まった腹部を目にした途端、顔から笑みが消えた。
「……全員、少し下がって」
三人を退かせ、傷口へ片手をかざす。
細い指の間に青白い光が灯った。
光が智春の腹部を包み込み、脈打つたびに医務室の壁へ淡い影を揺らす。
しかし、裂けた傷口は閉じない。
流れ続ける血も、弱まる気配がなかった。
「先生……?」
「静かにして」
モーラナは眉を寄せ、もう一方の手も智春の腹へ向けた。
一度目よりも強い光が溢れる。
光が医務室を青白く染め上げ、パットンたちは眩しさに目を細めた。
それでも、何も変わらなかった。
初めて、モーラナの声に焦りが滲んだ。
「どういうこと? 魔法が効いてない……?」
ブレアの顔から血の気が引く。
「そんな……治せないんですか?」
「そんなこと言ってないわ!」
モーラナはすぐにガーゼを取り、流れ続ける血を塞ぐように傷へ押し当てた。
「魔法で塞がらないなら、直接縫い合わせるしかないわ。ブレア、上から二段目にある青い瓶と、ガーゼを全部取ってきて!」
「わ、分かりました!」
「パットン、傷口を押さえるのを代わってちょうだい! 絶対に手を離さないで!」
「ええ、任せなさい」
パットンの大きな掌が、モーラナに代わってガーゼを押さえ込んだ。
血に濡れた手を離したモーラナは、すぐにエリックへ顔を向ける。
「エリックは輸血の準備をして。たしか、棚の下に細い管と針、それから空の瓶があったはずよ」
「はい」
三人が動く間に、モーラナは鞄から針と糸を取り出した。指先に灯した青白い炎で一つずつ炙り、ベッド脇の台へ並べていく。
戻ってきたブレアから青い瓶とガーゼを受け取る。
「先生、これでいい?」
「ええ。それをガーゼへ染み込ませて、傷の周りの血を拭って。パットンは少しずつ押さえる場所をずらして」
「ええ」
ブレアが青い液体を染み込ませたガーゼで血を拭っていく。露わになった傷を見て、モーラナの表情が険しくなった。
「出血が多すぎる……縫合と同時に血を入れるわ。麻酔は……いらないわね! すぐに始めるわよ!」
輸血の器具を整えていたエリックが、手元を見つめたまま口を開いた。
「先生、輸血用の血はどうするんです?」
「私の魔法は、触れた血液と同じものを生成できる。量も足りるはずよ」
エリックが眉をひそめる。
「魔法で生成された血液は、智春くんに正しく作用するんでしょうか……」
モーラナの手が止まった。
「そんなのやってみないと分からないでしょう! やらなければ、この子は死ぬだけよ!」
モーラナは血の染みたガーゼへ指先で触れた。
「メディツィン・ブルート」
指先に赤い雫が生まれた。
雫は次々と溢れ、掌の上で量を増していく。
「エリック、瓶を!」
「はい!」
生成された血が空の瓶を満たしていく。モーラナはそれを細い管へつなぎ、智春の腕へ針を通した。
「始めるわよ」
青白いランタンの下で、四人の影が忙しく動いた。
針が傷口を行き来する。血に染まったガーゼが何度も取り替えられ、生成された血が細い管を通って智春の腕へ流れ込んでいった。
どれだけ時間が経ったのか、誰にも分からなかった。
やがてモーラナは最後の糸を切り、縫い合わせた腹へ厚い布を当てる。その上から包帯を幾重にも巻き、ようやく手を止めた。
「終わったの……?」
ブレアの声は掠れていた。
「縫合はね」
「先生……智春は……」
「分からないわ」
モーラナは眠り続ける智春へ視線を落とした。
「魔法が効かない人間なんて、私も初めて見たから……生成した血が、この子の中で正常に働いている保証もない」
「そんな……」
「今は、この子を信じて待つしかないわね……」
その時、壁に掛けられたランタンの炎が、風もないのに揺れた。
「なに……?」
医務室を照らしていた青白い炎が、端から順に細く痩せていく。
「先生、智春くんが……!」
エリックの声に、モーラナがベッドへ顔を戻した。青い瞳が大きく見開かれる。
「これは……!?」
放課後。
重い瞼が、ゆっくりと開いた。
最初に見えたのは、見覚えのない白い天井だった。
壁に沿って木製のベッドが並び、棚には色とりどりの液体が入った瓶が詰め込まれている。鼻をつく薬草の青臭さに、甘い香りが混じっていた。
「どこや……」
起き上がろうとした途端、腹の奥に鈍い痛みが走った。
「いてっ……」
思わず顔をしかめ、視線を落とす。
腹には厚い包帯が巻かれ、その端から縫合の跡が僅かに覗いていた。そのすぐ横には、ナイフで抉ったような古い傷跡が残っていた。
「……起きたのね」
声の方へ顔を向けると、ベッドの横にブレアが立っていた。腕を組み、こちらを見下ろしている。
その後ろにエリック。そして、パットンが椅子に腰かけて足を組んでいた。
「ブレア……ここは?」
「医務室よ。気絶したあんたを、パットンが運んでくれたの」
「そうか……」
智春は枕へ頭を預け直した。
白い天井を見つめたまま、小さく呟く。
「俺、負けたんか……」
誰も、すぐには答えなかった。
「これで気が済んだかしら」
ブレアがベッドへ一歩近づいた。
「獣人たちとは私が話をつけるわ。あんたに手を出さないようにさせる。だから、あんたも──」
「無理や」
ブレアの言葉が途切れた。
「えっ?」
「このまま黙って大人しくしとく? ケツを女に拭いてもらう? そんなん、死んでもごめんや」
「智春くん……」
エリックが静かに割って入る。
「気持ちは……まあ、まったく分からないですが。でも、今は調査に専念しませんか? この学園の恐ろしさも分かったでしょう?」
「調査?」
パットンが首を傾げた。
「あっ……パットンさんがいたんでしたね」
「気にしないで続けてちょうだい」
パットンは涼しい顔で脚を組み直した。
「転校生と姫様が仲良くしてるなんて、何かあるとは思ってたわ。他言はしないから」
「……信じますね」
エリックは小さく息を吐き、智春へ向き直る。
「どうですか、智春くん」
「すまんな、エリック」
智春は目を閉じたまま答えた。
「お前の言うてることが正しいのは分かる。でも無理や。俺を殴ったあの牛をしばかな、気が済まへん」
「ちょっと、智春!」
ブレアが声を上げた、その時だった。
「ふふ、起きたのね」
扉が静かに開き、モーラナが医務室へ入ってきた。
「初めまして。私はヘクセ・モーラナ。この学園の保健医よ」
「嶽山智春や」
「知ってるわ。獣人族の子たちと派手にやったみたいね?」
「俺は売られた喧嘩を買っただけや」
「ふふ、元気ね」
モーラナは智春の包帯へ指を添え、血が滲んでいないかを確かめる。
「でも、無茶は駄目よ。あなた、回復魔法も効かなかったんだから。本当に死ぬところだったのよ?」
智春の眉が上がった。
「回復魔法も効かんのか俺……」
ブレアが一歩前へ出る。
「先生……智春に魔法が効かない理由、分かりますか?」
モーラナは少し考えるように、視線を宙へ向けた。
「私にも詳しくは分からないわね……おそらく、核が関係していると思うんだけど」
「核?」
「この世界で生まれた者は皆、空気中の魔力を取り込み、扱うための器官を持っているの。それが『魔導核』よ」
智春は黙って自分の腹を見下ろす。
「種族によって大きさや機能は多少異なるけど……智春くんには、それがないの」
ブレアの赤い瞳が、信じられないものを見るように智春へ向けられる。
「そんなこと、聞いたことがないわ……でも、魔法が効かないのは少し納得がいったわ」
「核がないなら、魔力による攻撃が効かないのも……想像はできます」
エリックの声には、隠しきれない戸惑いが混じっていた。
「でも、そんなことあり得るの?」
「私も聞いたことがないわね」
モーラナは少し考えてから付け加えた。
「二年生の凱人くんに聞いてみたらどう?」
「凱人?」
「二年生の勇者ですよ」
エリックが智春へ説明する。
「智春くんと同じ、人間の転生者です。何か知っているかもしれません」
「凱人さんも、アイゼン様に負けず劣らずのイケメンよ♡」
パットンが頬へ手を添え、嬉しそうに割り込んだ。
「黙ってなさい」
ブレアが一言で切り捨て、ベッドの智春へ向き直る。
「とにかく、今は安静にして。今後、騒ぎを起こさないこと。分かった?」
「だから無理やって」
智春は両手をベッドへつき、ゆっくりと身体を起こした。
「いてっ……やっぱ少し痛むな」
智春は腹を押さえたまま、エリックへ顔を向ける。
「あいつらの居場所、教えろ」
エリックの表情が固まる。
「もしかして……」
「ああ。今から行って、あの牛しばいてくるわ」
「ふざけないで!」
ブレアの声が医務室へ響いた。
「あんた、本当に死にかけたのよ!」
「せやから生きてるやろ」
「そういう問題じゃない!」
智春が床へ足をつけたところで、椅子の軋む音がした。
パットンが立ち上がっていた。
「智春ちゃん、行くなら付き合うわよ」
「パットン? なんであなたが獣人たちと戦うのよ!」
智春の口元に笑みが浮かんだ。
「なんや、乙女は守ってもらうんちゃうんか?」
「ふふ、母性に目覚めたの。あなたのこと、放っておけないわ」
パットンは胸へ手を当て、誇らしげに顎を上げる。
「それに、私何かおかしなこと言ったかしら? ここは力が正義、天下のマルボルク学園でしょ?」
細めた目から、先ほどまでの軽さが消えた。
「あんな奴が獣人たちを束ねてるなんて我慢できないわ。この際だから、私があの派閥をもらっちゃおうと思ってねぇ」
「でも、あの数をまともに相手するのは……」
エリックが眉をひそめる。
智春は傷を庇いながらも立ち上がり、パットンの隣へ並んだ。
「数なんか関係ないやろ。背中預けれる奴が一人おったら十分や。なあ、パト子?」
「いつの間にそんな仲良くなったのよ、あんたたち」
「あら、時間なんか関係ないわ。気に入った子の横に立ちたいのは当然でしょ? あと……」
パットンの視線が、ゆっくりとエリックへ移る。
「あんたも来なさい。来たらご褒美にチューしてあげるわ♡」
「罰ゲームじゃないですか」
「じゃあ、来なかったらチューするわよ!」
パットンが身体を屈め、エリックの頬へ唇を近づける。
「わ、分かった! 行く! 行きますから!」
椅子を蹴る勢いで後ずさったエリックを見て、智春が声を上げて笑った。
ブレアは深く息を吐いた。
「なんなの……なんなのよあんたたち……」
額に手を当て、もう一度息を吐く。
そして、顔を上げた。
「死ぬなら勝手に死になさい! 私はもう助けないからね!」
ブレアは扉を乱暴に開け、医務室を飛び出していった。足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。
「追いかけなくていいの?」
パットンが扉を見ながら尋ねる。
「まあ、今は喧嘩が先やな。行こか」
智春が歩き出す。
腹の傷が疼いたが、足は止めなかった。
「智春くん」
部屋を出ようとする三人の前に、モーラナが立ち塞がった。その青い瞳は、智春を真っ直ぐに見ている。
「あなた、本当に行くつもり?」
「ああ」
「次は……死ぬかもしれないわよ?」
「かもしれんな」
「覚悟は?」
「しつこいなあ」
智春は目を細め、モーラナを見返した。
先ほどまで浮かべていた笑みは、もうどこにもない。
「どいてくれ、先生。無茶して遊ぶのは、子供の特権やろ」
モーラナは何も言わず、その目を見つめ続けた。やがて肩の力を抜き、静かに道を開ける。
「……ふふ。気に入ったわ、智春くん」
智春が横を通り過ぎると、後ろから柔らかな声がかかった。
「生きて帰ってくるのよ。生きてさえいれば、私が絶対に治してあげるから」
智春は振り返らずに片手を軽く上げた。
「ああ、すぐ戻ってくるわ。あのアホのアイゼンと、牛を引きずってな」
扉が開き、三人の足音が廊下へ消えていく。
静けさを取り戻した医務室で、モーラナは一人、棚へ置いてあった小瓶を手に取った。
赤い液体を光へ透かしながら、ゆっくりと口元を吊り上げる。
「良い器になりそうね……」




