奪われた決着
アイゼンは口元に残った血を舐め、深く息を吸い込んだ。
膨らんだ胸が大きく上下するたびに、体の奥で血と魔力が逆流するように混ざり合う。
銀灰の毛並みが逆立っていく。
黒い爪が伸び、瞳の色が深くなる。
吐き出す息は獣のように荒く、喉の奥には低い唸り声が混じっていた。
智春が眉を上げた。
「それがお前の本気か?」
「ああ。お前、もう終わりだぜ」
「言うやんけ。来いや!」
智春は腰を落とし、拳を構えた。
アイゼンの足元で地面が弾ける。
次の瞬間。
智春の視界からアイゼンが消えた。
「なっ──」
爪が閃いた瞬間、空気が裂けて音を置き去りにした。
腹に熱い線が走った。
学ランが裂け、遅れて血が噴き出す。
智春は膝をつき、傷口を押さえようとした手まで赤く染めながら、その場へ倒れ込んだ。
(全く見えんかった……)
見上げた先で、アイゼンは荒い息を吐きながら立っていた。伸びた爪からは、智春の血が滴っている。
「終わりだな、智春。面白かったぜ」
「智春!」
ブレアの叫び声が広場に響いた。
駆け出しかけた彼女の隣で、エリックが険しい顔を浮かべる。
「僕にも見えませんでした……」
パットンはアイゼンと倒れた智春を交互に見つめ、複雑そうに眉を寄せた。
「アイゼン様はさすがね。智春ちゃんは……生きてるかしら」
アイゼンは大きく息を吐いた。逆立っていた毛並みが落ち着き、伸びた爪も元の長さへ戻っていく。
「早く医務室に連れてってやれ。たぶん、死にはしねぇだろ」
パットンへ視線を向ける。
「パットン! 運んでやれ」
「はい♡」
返事を聞いたアイゼンは、智春へ背を向けた。
「起きたら言っとけ。次にこの学園へ姿を見せたら……その先を見せてやる」
「待てや……」
背後から聞こえた声に、アイゼンの足が止まった。
「なっ……」
振り返った先で、智春がゆっくりと立ち上がろうとしていた。
腹から流れた血が足元へ落ちている。腕を震わせながら、傾きかけた体を無理やり起こす。
ようやく立ち上がった智春は、傷口を片手で押さえながらアイゼンを睨んだ。
「喧嘩相手に背中見せんなって言うたよな? どこまでも甘いやつやで」
「お前……死にてぇのか?」
「は? そんなわけないやろ。まぁ、一回死んどるけどな」
口の中に溜まった血を吐き捨てる。
「死ぬより舐められる方が我慢ならんだけや」
智春は傷口から手を離し、拳を握った。
「死ぬまで遊ぶ言うたのお前やろ。ほら、来いや。まだ死んでへんぞ?」
アイゼンは目を見開いていた。
やがて牙を剥き、高らかに笑い始める。
「はっはっは!」
笑いが止まり、声が低く落ちる。
「殺してやる……本当に殺してやるよ! 智春!」
二人が互いに踏み出そうとした時。
「あぁ? まだやってんのか?」
智春の後ろから、聞き慣れない声がした。
「あ?」
振り向いた瞬間、巨大な拳が智春の頬を捉えた。爆発音と共に衝撃が一気に広がる。
智春の体が広場を横切って吹き飛び、そのまま校舎の壁へ叩きつけられた。壁にひびが走り、崩れたレンガと一緒に地面へ落ちた。
舞い上がった土煙が風に流されていく。その中から智春が立ち上がる気配はなかった。
煙の向こうから、重い足音が近づいてくる。
全身を覆う濃い褐色の毛並み。
制服の上からでもはっきりと分かるほど盛り上がった胸板と、異様に広い肩幅。
太い首の上から緩やかに曲がった二本の角。
獣人族を統べる二年生。
ハリス・トルマン。
「智春っ!」
ブレアが智春に駆け寄り、エリックもすぐに後を追う。
智春は白目を剥いたまま、呼びかけにも反応しなかった。
トルマンはゆっくりと歩き、アイゼンの前で立ち止まった。
「タイマンか。……甘いな、アイゼン」
「トルマンさん……」
アイゼンの腹へ、トルマンの拳が突き刺さった。
「ぐふっ……!」
アイゼンは腹を抱え、その場へ膝をつく。
「雑魚に手こずってんじゃねえよ。今はあんなガキに構ってる暇はねぇんだ」
痛みを堪えながら立ち上がったアイゼンは、口元を拭い、俯いたまま答えた。
「……すいません」
トルマンは舌打ちし、校舎を見上げた。
屋上や渡り廊下から、騒ぎを見下ろすいくつかの人影がある。
「あいつらの前で醜態を晒しやがって」
そして、振り返り低く告げた。
「行くぞ」
「おう!」
トルマンを先頭に、獣人の群れが引き上げていく。
「待ちなさいよ」
パットンが前へ出た。
先ほどまでの甘い笑みを消し、トルマンの背中を見据えている。
「あなた……獣人としての誇りもないのね」
トルマンが足を止め、ゆっくりと振り返った。
「いや、忘れたの間違いかしら?」
「はっ。そんなもんでこの学園が獲れるかよ」
パットンの前まで歩み寄り、巨体同士を突き合わせた。
「同族のよしみで、お前は勘弁しといてやる。ただ……」
声が低くなる。
「次、俺に舐めた口を聞いたら……どうなるか分かってるか?」
パットンは微笑んだ。
だが、その目はまったく笑っていない。
「あら、どうなるのかしら。今試してみてもいいけどねぇ」
「面白い野郎だ。その気があるなら来いよ。歓迎してやるから」
「誰が野郎よ」
トルマンは興味を失ったように踵を返した。
その視線が、智春の傍らに立つブレアと重なった。
「あなた、恥ずかしくないの?」
「あ?」
トルマンが面倒そうに肩を回す。
「はぁ……今年の一年は本当に舐めたやつばっかだな。お前もこの場でやってもいいんだぜ?」
「やれるもんならやってみなさい」
ブレアは冷たい目で睨み返した。
「私の兄を恐れて、どうせできないでしょう」
トルマンの目が鋭く細められる。
「お前も、兄貴も、そのうち殺してやるよ。楽しみに待ってな」
それ以上は相手にせず、トルマンは歩き出した。獣人たちも次々と後へ続き、広場を埋めていた群れが正門の方へ流れていく。
その中を、アイゼンも腹を押さえながら歩いていた。
広場を出る直前、その足が止まる。
一度だけ振り返った先では、ブレアが智春の名を呼び、エリックが倒れた体へ手を伸ばしていた。パットンも傍らへ膝をつき、いつもの笑みを消している。
アイゼンは拳を強く握りしめた。
(智春……すまねぇ)




