最上級の獲物
智春の拳がアイゼンの顔に叩き込まれ、体が傾き後退した。
咥えていた煙草は、石畳の上で赤い火の粉を散らしている。口の端から流れた血を拭いもせず、アイゼンは智春を真っ直ぐに睨んだ。
「テメェ……」
智春は殴った拳を軽く振り、肩をすくめる。
「なに喧嘩相手に背中向けとんねん。時間くれたり条件出したり、思ったより甘いやつやな」
アイゼンの目が細くなった。
「それが答えなんだな?」
「まぁ……」
智春は獣人たちを見回し、誰にも届かない声で続けた。
「数に頼らな喧嘩できんやつらの頭やしな。俺の買い被りやったかな」
右手を前へ出し、挑発するように指先を二度曲げる。
「ほら、こいや」
「なめやがって……」
アイゼンが動くより早く、周囲の獣人たちが走り出した。
「テメェ! アイゼンさんになにしてやがんだ!」
怒号を上げた獣人たちが、一斉に智春へ襲いかかった。
智春は笑ってその群れへ踏み込み、先頭の一人を蹴り倒す。
だが、倒れた獣人を踏み越えて、後ろから次々と新たな獣人が押し寄せる。
「始まっちゃいましたね」
少し離れた場所で、エリックが眼鏡を押し上げた。
「止めなくていいんですか?」
「はぁ。助けるのは一度だけよ。忠告もちゃんとしたしね。まぁ骨ぐらいは拾ってあげようかしら」
「では、僕もそんな感じで」
その時、ブレアの口元がわずかに緩んだ。
「残念。あのバカはそれを許してくれないみたいよ」
ブレアはそう言うと、翼を広げて軽く飛び上がり、距離を取った。
「えっ?」
乱戦の中で、智春が獣人の襟首を掴んでいた。腰を捻り、エリックへ向かって勢いよく放り投げる。
「おらぁ! エリック、行ったぞ!」
「なっ!」
飛んできた獣人を、エリックは反射的に蹴り上げた。
宙を舞った仲間を見て、周囲の獣人たちが一斉にエリックへ顔を向ける。
「お前もやんのか!」
左右から二人の獣人が迫る。エリックは正面から飛んできた拳を腕で逸らし、もう一人の顎を蹴り抜いた。
「智春くん! 君は本当にめちゃくちゃだ!」
「はっは! おもろいやろ!」
「おもろくない!」
少し離れた場所で眺めていたパットンが、胸へ手を添えた。
「ふふ。あの子、好きなタイプね♡」
乱戦の外。
アイゼンは静かに俯いていた。
動かずに、ただ、その場に立っている。
その頭の中で、さっきからひとつの問いが回っている。
(なんなんだこいつは……)
数に怯まない。
選択肢を与えても意味がない。
退くどころか、笑いながら暴れる。
(こいつは……)
そこで、アイゼンは気づいた。
口の端が、自然と上がっていた。
(最上級の獲物だ)
「はっはっは……!」
突然響いた笑い声に、乱戦が止まった。
獣人たちが戸惑いながら振り返る。
「アイゼン……さん?」
アイゼンは一歩前へ出た。
「お前ら、手ぇ出すな。今からこいつとタイマンでケリつける」
「でも、アイゼンさん……」
「口答えするやつは殺す。どけ」
獣人たちが左右へ退き、智春まで一本の道が開く。エリックを囲んでいた連中も慌てて離れ、彼は乱れた襟を直しながら息を吐いた。
智春は切れた口元を親指で拭った。
「やっと出てきたか」
「ああ、待たせたな」
アイゼンは智春の前で足を止めた。
「異物……いや、智春」
「別にええ。それより会話長いわ」
智春が拳を握る。
「ほら、かかってこい」
アイゼンは腰を落とし、片足をわずかに後ろへ引いた。
「いくぜ?」
石畳を蹴る音がした。
真正面から迫り来るアイゼンに、智春はタイミングを合わせて拳を振り下ろす。
だが、その拳は空を切った。
そして背後から声。
「どこ見てんだよ」
智春は振り向きざまに裏拳を放つが、そこにはすでにアイゼンの姿はなかった。
「遅ぇ」
その直後、智春の腹に膝がめり込み、視界が反転する。
「ぐっ……」
智春の足が地面を滑り後退する。
腹を押さえ、歯を食いしばる。
息を一つ吐いてから、アイゼンに殴りかかる。
だが、アイゼンは軽く避け、その流れのまま顎へ掌底を叩き込んだ。
智春は無理やり踏みとどまろうとするが、その隙を逃さずアイゼンの蹴りが太ももに突き刺さる。
智春は思わず膝をついた。
ガラ空きになった顔面へ、アイゼンの蹴りが容赦なく叩き込まれた。
智春は吹っ飛び、背中から地面に落ちた。
獣人たちから歓声が上がった。
智春は頬の内側に溜まった血を吐き、ゆっくりと立ち上がる。
(こいつ速すぎる……)
顎の奥には鈍い痺れが残り、視界もまだわずかに揺れている。それでも、口元には笑みが浮かんでいた。
「やるやんけ。お前とは、とことんやったるわ」
アイゼンの呼吸は乱れていない。
「もっと来いよ、智春。死ぬまで遊ぼうぜ?」
智春が血を吐き捨て、再び地面を蹴る。
同時に踏み込んだはずだった。
だが、先に届いたのはアイゼンの拳だった。
顎を打たれて頭が仰け反る。
脇腹へ蹴りを受け、腰が折れたら頬を打たれる。
智春は一旦距離を取ろうと後ろへ跳ぶが、追撃は止まらない。
アイゼンの拳が連続で繰り出され、腕で受け、捌き、押し返そうとするが間に合わない。
アイゼンの拳が肉を叩くたび、血と唾が宙に散った。智春は口の端から血を垂らし、頬が腫れ、目の周りが赤く染まっている。
「くそ! ちょこまかと……調子に乗んなよ……」
苛立ちに任せ、智春は拳を大きく振りかぶった。
「このクソ犬がぁ!」
智春は拳を力任せに振り下ろした。
アイゼンは目を細め、瞬時に後ろへ跳んだ。
拳が振り下ろされた石畳は深く凹み、そこから亀裂が走る。砕けた石片が跳ね、周囲の獣人たちが思わず後ずさった。
「な、なんだあの威力……」
「普通じゃねぇ……」
少し離れた場所で、パットンが目を丸くする。
「あら、すごいわね。あの子何者なの?」
ブレアは、土煙の向こうを見据えたまま静かに返す。
「本当に、何者なのかしらね」
エリックは顎に手を当てて言う。
「智春くんに対しては謎が多いですね。魔力への耐性、あの身体能力……」
ブレアが小さく息を吐く。
「転生者は謎ばかりね」
アイゼンは砕けた石畳へ目を落とし、口元を歪める。
「確かに、当たったらただじゃ済まねぇな」
智春を見据え、牙を見せた。
「まぁ、当たったらな」
次の瞬間、アイゼンが再度仕掛けた。
数発繰り出し、即座に離れる。
踏み込んでは離れ、離れたと思えば横、そして背後に回る。
智春の拳が空を切るたび、アイゼンの拳と蹴りだけが確実に届く。
「くそがぁ!!」
その一瞬。
智春は、わざと腹を開いた。
アイゼンの拳が突き刺さる。
だが──それを、智春は掴んでいた。
「捕まえたぞボケ」
「しま──」
「どつくで」
智春の拳が、ゆっくりと、構えられる。
周囲の空気が、妙に静まった。
獣人たちの息も、誰かの唾を飲む音も、そこで一度止まる。
次の瞬間。
空気が爆ぜるほどの一撃が、真正面からアイゼンを捉えた。
「がはッ……!」
口から血が吹き出し、地面に叩きつけられた。
「まだ終わらんぞ」
智春は腕を離さず、アイゼンの腕を引っ張り無理やり起こす。
そのまま、腹へ拳を何度も叩き込んだ。
「ぐふっ……」
それでもアイゼンは踏みとどまった。
顔面を狙った次の拳を、身を沈めてかわした。
そのまま掴まれている腕を下に引き、智春の重心を崩したところを脚で刈る。
智春が倒れ、まだ掴んでいる腕にアイゼンの蹴りが迫る。
智春は腕を離して蹴りを回避し、そのまま飛び起き距離を取った。
「はぁ……はぁ……」
荒い息が漏れたのは、アイゼンの方だった。
智春も鳩尾を押さえ、息を整えながら笑った。
「お前、おもろいやつやな」
アイゼンは口元の血を親指で拭い、同じように笑った。
「お前もな……なら、もっと面白いもん見せてや




