腹が減る世界
授業の終わりを告げる鐘が鳴った。
教室に残っていた生徒たちが、待ってましたとばかりに席を立つ。椅子を蹴る音と話し声が重なり、廊下へ続く扉へ流れていった。
その中で、智春だけは机に突っ伏したまま動かなかった。
「獣人の群れより、文字の方が強いやんけ……」
顔の横には、子ども向けの文字練習のプリントが置かれている。
隣の席で教科書を閉じたブレアが、その惨状へ涼しい目を向ける。
「魔法を消すより難しかったみたいね」
「うるさい。今は優しくしてくれ」
机へ頬を押しつけたまま返す智春へ、エリックが声をかけた。
「それでは、寮へ行きましょうか」
「腹減った……」
「食堂も寮の敷地にありますよ」
智春は机から勢いよく顔を上げた。
「それを先に言えや!」
その変わり身の早さに呆れるブレアを連れ、三人は教室を後にした。
三人は正門を抜け、夕暮れの中を歩く。寮は学園の外れ、街の南西に位置する旧兵舎跡にあった。
「そういえば、寮来るの初めてやな」
「登校前に荷物とかは置きに来なかったんですか?」
「荷物なんかないしな。王国からの馬車降りて、そのまま学園や」
「智春くんらしいですね」
エリックは笑って受け流すと、少し後ろを歩いていたブレアへ振り返った。
「そういえば、ブレアさんも寮なんですか?」
「ええ。こっちの方が都合よくてね……」
言葉を濁したブレアへ、智春は眉を上げる。
「なんや、寮以外にもあるんか?」
「ヴォルノクライは多種族の共存都市ですから」
エリックが前方へ視線を戻した。
「種族ごとに暮らしやすい環境も違います。それぞれの生活区域で宿を借り、そこから通っている生徒もいますよ」
「へぇ。街も早く見に行きたいな」
「週末にでも行きましょうか」
「明日行けばええやろ」
「明日は学校ですよ」
「そんなん行かんでええやろ!」
当然のように言い切った智春へ、ブレアの目が細められた。
「文字も読めない人が何を言っているのよ。ちゃんとポンク先生に教えてもらいなさい」
「それは言うなや……」
軽口を叩き合っているうちに、寮が見えてきた。
横へ長い赤レンガ造りの建物が二つ、夕暮れの先にどっしりと沈んでいる。黒ずんだ赤い壁には小さな窓が等間隔に並んでいる。
その奥には、煙突から湯気を吐く建物がある。窓から料理の匂いが漂い、食器の触れ合う音が聞こえてきた。
智春の足が自然にそちらへ向く。
「食堂は後よ」
ブレアが智春の学ランの袖を掴んで引き戻した。
「右が男子寮、左が女子寮。奥が共用食堂よ。浴場と洗濯場は、それぞれの寮にあるわ」
智春は引かれるまま、二棟の寮を見上げた。
「寮まで赤いレンガやねんな」
「建てられたのは数百年前ですからね」
エリックも視線を上げる。
「当時はこれが主流だったんでしょう。この辺りには、同じ造りの建物が多いですし」
「まあ、なんでもええわ」
智春は興味を失ったように大きく伸びをすると、再び奥の食堂へ目を向けた。
「とにかく食堂でなんか食べようで」
「食事と喧嘩しか頭にないのね……」
「今さらやろ」
ため息をつくブレアの横で、エリックが男子寮の入口を示した。
「智春くん。とりあえず部屋を先に見に行きませんか? 夜は少し用事があるので、その前に部屋だけ案内しておきます」
「そうなんか? ほな、しゃあないな」
「鍵を受け取って場所を教えるだけですから。僕は夕食後に失礼しますね」
「じゃあ、私は食堂で待っているわ。エリック、お願いね」
「分かりました」
先に食堂へ向かうブレアを見送り、二人は男子寮へ入った。
受付で鍵を受け取って廊下を進み、案内されたのは一階の一番奥にある部屋だった。
鍵を回して扉を開けると、一人用のベッドと机、椅子、背の低い収納棚が置かれていた。壁際には小さな洗面台が備えられ、棚の中には畳まれた着替えやタオルなどが収められている。
「随分さっぱりしとるな」
「寮費と最低限の備品は、王国側が支払いを済ませています。必要なものは自分で買い足すように、とのことです」
「ほんま至れり尽くせりやな。やっぱり裏あるやろ、あのジジイ」
智春は窓を押し開け、ポケットから煙草を取り出した。口へ咥えたところで、壁に貼られていた紙をエリックが指差す。
「室内は禁煙ですよ」
「読めへん規則は、存在してへんのと同じやろ」
火を点けた煙草の先が赤く灯り、吐き出された煙が開いた窓へ流れていく。
エリックは何も言わずに部屋の扉を閉めた。
先ほどまで浮かべていた人当たりのいい笑みは、いつの間にか消えている。
「智春くん……」
エリックは椅子を机から引き出して腰を下ろすと、窓辺に立つ智春へ真っ直ぐな目を向けた。
「真剣な顔してどないしてん」
「智春くんは、原還の盟についてどこまで聞いていますか?」
「あぁ。この学園か街に潜り込んどるかもしれんから調べろって言われただけや。あとはブレアとお前、勇者を頼れ、ぐらいやな」
智春は煙を吐きながら、思い出すように視線を上げた。
「……それだけですか?」
エリックの顔に浮かんだものが呆れではないことに気づき、智春は煙草を口元から離した。
「なんや。ほかにもあんのか?」
「この世界へ来たばかりの智春くんには、原還の盟の規模がまだ見えていないみたいですね」
エリックは足を組んで話を続けた。
「人間の王が、魔族の姫の力を借りた。分かりますか?」
「ブレアのことか?」
「ええ。つい数百年前まで殺し合っていた相手に、頭を下げてでも人を出してほしいと頼んだんです」
智春の指に挟まれた煙草から、灰が細く伸びていく。
「それほどの組織だということです」
窓の外では、食堂へ向かう生徒たちが楽しそうに声を上げていた。その足音が遠ざかるのを待つように、エリックはわずかに間を空けた。
「各国が合同で追い始めてもう何年になるか。それでも、幹部の名前一つ挙がっていません」
「一人もか?」
「はい。掴めたのは組織の名前と、この都市に構成員が潜伏しているかもしれないという情報だけです。それすらも、あえて掴まされた情報かもしれません」
「ほな、なんも分かってへんのと同じやんけ」
「組織の姿は見えません。ですが、薬物の密輸や失踪事件だけは確かに増えている」
静かな声のまま、エリックは智春へ目を戻した。
「それが、原還の盟です」
智春は窓枠へ肩を預け、煙草の灰を外へ落とした。
「各国が手ぇ組んでも無理なもん、俺ら三人でどうにかせえ言うんか?」
「藁にもすがる思いでしょうね」
「そないヤバい連中なんか」
智春の声から、先ほどまでの軽さが少しだけ薄れていた。
「とにかく、これからは自重してください。相手が生徒とは限りません。教師かもしれない。寮の職員かもしれない」
閉じられた扉へ一度だけ目を向けた。
「僕たちが調べ始める前から、向こうはこちらを見ているかもしれません」
忠告を聞きながら、智春は朝からの自分の行動を頭の中で振り返った。
「もう手遅れちゃうか?」
「これ以上、悪化させないようにお願いします」
「善処はするわ」
「期待できない返事ですね」
エリックの顔に、わずかにいつもの笑みが戻った。
智春は短くなった煙草を窓の外へ突き出し、灰を払いながら尋ねる。
「王が言うとった勇者は? 頼れるんか」
「さあ。あの人は、何を考えているのか分かりませんから」
「勇者やのに?」
「勇者だから、ですかね」
智春が何かを聞き返そうとしたところで、腹の奥から低い音が鳴った。
「腹の虫には勝てませんね。食堂でブレアさんが待っていますよ」
「せやな。先に腹ごしらえするか」
智春は短くなった煙草を窓枠へ押しつけて火を消した。
二人が食堂へ入ると、夕食を取る生徒たちの声と料理の熱気が押し寄せてきた。
長い卓を人間と魔族が挟み、背の低いドワーフたちが濃い色の飲み物を片手に大声で笑い、その足元には体格に合わせて作られた低い椅子が並んでいた。
先に席を確保していたブレアと合流した智春は、入口近くの壁に並んだ献立札を見上げた。
「どれが肉や」
ブレアは席を立って献立札の前まで来ると、上から順に指で示した。
「はぁ。大きな肉料理に、野菜のスープとパン。これでいい?」
「一番でかいの頼むわ」
料理を受け取った智春は、卓へ着くなり大きな骨付き肉へかぶりついた。
ブレアがスープを一口運び、向かいに座ったエリックがパンを食べやすい大きさへ割っている。
その間に、智春の皿から肉が消えていた。最後に残ったパンをまとめて口へ押し込む。
空になった皿を前に置かれ、ブレアの手が止まった。
「……もう食べたの?」
「腹減りすぎて味分からんかったわ。もう一個取ってくる」
返事を待たずに席を立ち、ほどなくして先ほどより大きな皿を抱えて戻ってくる。
二皿目も、三人の会話がまともに始まらないうちに空になった。
三度目に注文口へ立った智春を、食堂職員が怪訝そうに見上げた。
「同じものを、もう一つ?」
「いや、二つくれ」
「……二つ?」
「足らんかもしれんから、パンも増やしてくれ」
職員はしばらく智春の腹と顔を見比べていたが、列が詰まり始めると諦めたように料理を用意した。
再び席についた智春は肉を一口で頬張り、スープを口へ流し込んだ。
「やっぱり飯も味がよう分からんな」
「それだけ食べておいて、何を言っているのよ」
ブレアは積み上がった皿の横から、呆れた顔を覗かせる。
「不味いわけちゃうで。この世界、空気がずっとスパイス臭いやろ」
「スパイス?」
「タバコもそうや。こっち来てから、ずっと変な匂いしとる」
パンを取ろうとしていたエリックの手が、卓の上で止まった。
「空気そのものに、匂いを感じるんですか?」
「せや。お前ら気にならんのか?」
ブレアは周囲の空気を確かめるように鼻を動かした。
「料理の匂いならするけれど、よく分からないわ」
「僕もです」
「まあ、そのうち慣れるやろ」
智春はあっさりと話を切り上げ、また料理へ手を伸ばした。
積み上がった皿が顔を半分ほど隠し始めた頃、とうとう堪えきれなくなったブレアが身を乗り出す。
「あなたの胃袋、どこに繋がっているの?」
「知らん。こっち来てから、腹減ってしゃあないねん」
やがて食堂職員が伝票を持ってくると、ブレアは卓に積まれた皿と智春を交互に見比べた。
「そんなに食べて、ちゃんと払えるんでしょうね」
「クソ王から金はもらってるで」
智春は学ランの内側から革袋を取り出し、卓の上で逆さにした。
大小さまざまな硬貨が転がり、一枚が皿の縁へ当たって乾いた音を立てる。その中から一番大きな硬貨を摘まみ上げた。
「これで足りるか?」
「払いすぎです」
即座に止めたエリックへ、智春は硬貨をそのまま押しつけた。
「お前らには世話になりそうやからな。出しとくから払っといてくれ」
「それは学園生活と調査のために渡された活動費でしょう」
「必要経費や」
智春は最後に残っていたパンを口へ放り込み、背もたれへ深く体を預けた。
「ふぅ。これでやっと、ちょっと落ち着いたな」
満足そうに腹を撫でてから、欠伸を一つ漏らす。
「食ったら眠いわ」
「子どもみたいね」
「ほな、俺もう戻るで」
ブレアたちの返事も待たず、智春は席から立ち上がった。
「ちゃんと歯を磨くのよ」
「ガキ扱いすんな!」
食堂中へ響く声を残し、智春の背中が出口の向こうへ消えていく。
その姿を見送ったブレアは、卓に残された皿の山へ目を移し、長く息を吐いた。
「はぁ……大丈夫かしら……」
「まあ、大丈夫でしょう」
エリックは智春から預かった硬貨を革袋へ戻し、食事代に必要な分だけを選び取った。
「朝の騒動は僕も見ていましたが、戦闘力だけは期待してよさそうです」
「それだけね……」
自分の部屋へ戻った智春は、学ランを脱いで椅子の背へ引っ掛けた。
満腹になった腹を撫でながら白いTシャツの裾を持ち上げると、肌を斜めに走る古い傷痕が覗いた。
指先が一度だけその上をなぞり、すぐに裾を離してベッドへ仰向けに倒れ込んだ。
「えらいおもろいとこに来てもたな……」
智春は瞼を閉じた。
その口元は、勝手に緩んでいた。
「自重せえ、か。……無理そうやな」




