二人の笑み
智春はブレアに場所を聞き職員室へ向かうと、入口近くの机に座っていた事務員が顔を上げた。
「転入生の方ですね。書類を確認しますので、少々お待ちください」
事務員は転入書類を受け取ると、素早く内容へ目を通した。それから職員室の奥を見渡し、書類を軽く持ち上げる。
「ポンク先生! 転入生が来ていますよ!」
「えっ、もう来たんですか?」
奥の机から、一人の教師が慌てて立ち上がった。
跳ねた癖毛に丸い眼鏡。
椅子へ足を引っかけながらこちらへ駆け寄り、受け取ろうとした書類を数枚床へ落とした。しゃがんで紙を拾い集める間に丸眼鏡が鼻先までずり落ちていた。
「彼が嶽山智春くんです。ポンク先生の受け持つクラスへ編入することになっています」
「ああ、そうだったね……。ええと、嶽山くん。担任のポンク・レシーです。よろしくね」
「頼りなさそうな先生やな」
「それ本人に言うかな……」
ポンクは拾い集めた書類を胸へ抱え、ずり落ちた眼鏡を押し上げた。
「それじゃあ、教室まで案内するね」
ポンクは智春を連れて職員室を出た。
曲がったネクタイを何度も直しているが、肩をすぼめて歩くたびに少しずつ位置がずれていく。
智春はその頼りない背中を眺めながら、廊下を進んだ。
「嶽山くん、ここがあなたの教室です。……できれば、暴れないでね」
「できればな」
教室に入った瞬間、智春は眉を上げた。
机と椅子は四十人分ほど並んでいる。だが、座っている生徒は十人にも満たなかった。
窓際で頬杖をついている者。机に足を乗せて寝ている者。教科書を開きもせず、仲間と賭け事をしている者。
空席の多さを除いても、授業を受ける空気ではない。
「えらい少ないやんけ」
ポンクは黒板の前に立ち、困ったように笑った。
「みんな、授業になるとどこかへ行っちゃうからね……」
智春が教室を見渡すと、窓際の席にブレアの姿があった。
「なんや、一緒のクラスやったんか」
ブレアは椅子へ座ったまま、ため息を落とした。
「はぁ。騒がしくなりそうね……」
ポンクは二人を見比べ、少し首を傾げた。
「知り合いなの? じゃあ、嶽山くんはブレアさんの隣の席で。朝の騒動で、みんな嶽山くんのことは知っていると思うから……早速、授業を始めましょう」
智春は指定された席へ向かわず、そのまま教室の後ろへ歩き出した。
ポンクの眼鏡がまた鼻先までずり落ちる。
「嶽山くん! どこへ行くの?」
智春は片手を上げ、そのまま教室を出ようとした。
「すまんな、先生。今さら退屈な授業なんか聞いてられんわ」
ポンクは困った顔のまま、眼鏡を押し上げた。
「別にいいけど……嶽山くん、この世界の字は読めるの?」
その言葉に智春の足が止まった。
ゆっくりと振り返り、ポンクの前までずかずかと歩み寄る。
「あ? 馬鹿にしとんかい! 字くらい……」
配ろうとしていたプリントを、智春は乱暴に奪い取った。
胸の前で広げ、上から下まで目を通す。
そこには、見たこともない文字が並んでいた。線と点が複雑に絡まり、途中で枝分かれしている。どこからどこまでが一文字なのかすら分からない。
智春は黙って紙を裏返した。
裏も同じだった。
「なんやこれ。落書きか?」
「ほら……転生者の嶽山くんは、会話はできるみたいだけど、文字は全然でしょう?」
智春はプリントを握りしめ、肩は小刻みに震えていた。
「今日は小学生レベルの授業にするから。座ってくれないかな……?」
「……くそっ!!!」
智春はそのままどすどすと席へ戻り、椅子を乱暴に引いて座った。
隣のブレアが横目で見て、呆れたように言う。
「あなたは何がしたいの? 馬鹿なの?」
智春はプリントを机へ叩きつけ、顔を逸らした。
「……うるさい」
教室に残っていた生徒たちが、そのやり取りを見て笑った。遠慮のない笑い声が、空席だらけの教室へ響く。
「笑うなや!」
智春はプリントを丸め、勢いよく投げた。
丸めた紙は、笑っていた生徒の額へ当たり、床へ転がった。
生徒が椅子を蹴って立ち上がる。
「あ? やんのか、こら!」
智春も立ち上がり、机を押しのけた。
「上等や! かかってこい!」
「字も読めねぇくせに、いきがってんじゃねえぞ!」
「それは言うなや!!!」
智春は拳を腹へ叩き込み、前屈みになった顔を殴り上げる。
生徒は背後の机へ倒れ込み、椅子を巻き込みながら床へ転がった。それでもすぐに起き上がり、智春へ飛びかかる。
二人の拳が飛び交い、机と椅子が次々と押し退けられていった。
ポンクは黒板の前で肩を落としていた。
「はぁ……」
「先生、止めなくていいんですか?」
ブレアが尋ねると、ポンクは声を潜めた。
「いいでしょ。止めに入ったら、僕なんか殺されちゃうから」
ブレアは頭を抱えるように額へ手を当てた。
「なんでこの学園の教師になったのよ……」
授業終了後。
智春は机に伏して泣いていた。
「一時間やって、一文字も分からんかった……」
教室の後ろでは、智春と喧嘩をした生徒がボコボコにされ気を失っている。
そのそばでポンクがしゃがみ込み、指先でつついていた。生徒が小さくうめき声を漏らし、呼吸があることを確かめると、胸を撫で下ろしていた。
一方の智春は、机の上へ頭をつけたまま、肩を小さく揺らしている。
そこへ、一人の生徒が声をかけた。
「嶽山智春くん……ですよね?」
「あ?」
智春が顔を上げると、黒髪に眼鏡をかけた、妙に整った顔立ちの少年が立っていた。
細身の身体に、乱れのない制服。顔には穏やかな笑みが浮かび、眼鏡の奥から黒い瞳がこちらを見ている。
「転校初日から、随分と印象的でしたね。ここまで目立てる方は、なかなかいませんよ」
「なんや、お前も喧嘩売ってるんか?」
少年は両手を軽く上げ、首を振った。
「まさか。僕はエリック・ネッカー」
エリックは柔らかな笑顔を崩さないまま身を屈め、智春の耳元へ顔を寄せる。
「僕も王国から派遣された調査員です。君が暴走しないよう、見張るように言われています」
「お前が三人目の調査員か!」
智春の声が教室中へ響いた。
残っていた生徒たちが一斉にこちらを振り向き、その声に反応したブレアが勢いよく椅子から立ち上がる。
「ちょっと!」
エリックは笑顔のまま、人差し指を唇の前へ立てた。
「声が大きいですよ。僕たちが、それぞれの国から調査員として派遣されていることは、内密でお願いします」
智春は周囲から集まった視線にようやく気づき、ばつが悪そうに頭をかいた。
「そうなんか。すまんな」
「考えたら分かるでしょ」
エリックは二人のやり取りを見て小さく笑い、肩をすくめた。
「本当に、元気な人ですね」
「それ褒めとんか?」
「ええ、心の底から」
ブレアはエリックの前へ立ち、右手を差し出した。
「私はブレアよ。よろしくね、エリック」
エリックは差し出された手を軽く握り返し、それから頭を下げた。
「存じていますよ、姫」
ブレアの眉がわずかに動いた。
「姫はやめて」
「ははは、すみません。あと、僕は戦闘はそこまでなので、戦力としては期待しないでください」
智春はエリックをじっと見つめた。
智春に睨まれても、眼鏡の奥の目は静かなままだった。
「それ……ほんまか?」
「ええ。とにかく、これからはあまり目立たないようにお願いしたい。特に獣人族を相手にするのは面倒です」
智春が顎を上げる。
「あいつらが?」
「はい。獣人族は数が多いですから。この学園で最大規模の派閥を形成しています」
エリックは周囲へ聞こえないよう、少しだけ声を落とした。
「その長が、二年生のハリス・トルマン。勇者様と並ぶ猛者ですね」
「そいつ、強いんか?」
「少なくとも、あなたよりは」
智春の口元が上がる。
「へぇ」
「そして、先ほど獣人たちを止めた銀狼の獣人が、ドワイト・アイゼン。荒くればかりが集まる獣人族の中で、一年生のトップに立つ男です」
智春の脳裏に、群れの中から現れた銀狼の姿が浮かんだ。
視線をぶつけた瞬間に感じた、他の連中とは明らかに違う圧力も覚えている。
「あいつか……。なかなかやばそうな奴やったな」
エリックは言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「まあ、ブレアさんと行動していれば、獣人たちも簡単には事を起こしてこないと思いますが……刺激しない方がいいですね」
「なんや、含みのある言い方しやがって」
智春は頬杖をつき、窓の向こうにある巨大な赤レンガの塔を見上げた。
「アイゼンに、トルマンか。楽しみやな」
智春の口元が、ゆっくりと吊り上がった。
ブレアがその横顔を見て眉をひそめる。
「何度も言うけれど、次は助けないからね」
智春は窓の外を見たまま、両手を上げた。
「分かった、分かった」
エリックは眼鏡の位置を直しながら、浮かれた智春を静かに見つめていた。
同じ頃。
体育館の大扉が開いた。
汗と獣の体臭に、煙草の煙が混ざった空気が、外へ押し出される。
古い床には、爪で引き裂かれた跡や、拳で砕かれた窪みが無数に残っていた。一年生から三年生まで、学園にいる獣人たちが体育館の至る所に集まっている。
アイゼンは後ろに仲間を従えたまま、体育館の奥へ進んだ。それを避けるように、獣人たちが左右へ分かれる。
一番奥のステージには、巨大なバイソンの獣人が座っていた。
二メートル近い巨体を窮屈そうに椅子へ沈め、太い指で煙草を挟んでいる。濃い褐色の毛並みの下では、制服が張り裂けそうなほど胸板が盛り上がっていた。
「戻ったか、アイゼン」
アイゼンが立ち止まり、後ろにいた一年生たちも一斉に足を揃えた。
「はい、トルマンさん。すみません、止めるのが遅れました」
学年の違う獣人すら黙らせるアイゼンが、トルマンの前では真っ直ぐに背筋を伸ばし、頭を下げていた。
「一年坊どもが、あの姫に喧嘩を売るところだったんだって?」
「はい……」
トルマンが立ち上がり、床を軋ませながらアイゼンの前まで歩いた。
次の瞬間、太い拳が腹へめり込んだ。
「ぐっ!」
アイゼンは腹を押さえて膝をついた。鈍い音が体育館へ響いたが、周囲にいる獣人は誰一人として動かなかった。
「めんどくせぇな。今は魔族とやり合ってる暇はねぇんだ」
トルマンは倒れたアイゼンを見下ろし、煙草の煙を吐いた。
「一年坊の管理はお前に任せたんだ。ちゃんとやりやがれ」
アイゼンは震える脚を押さえつけ、ゆっくりと立ち上がった。背筋を伸ばし、もう一度トルマンへ頭を下げる。
「はい……すいません」
トルマンは興味を失ったように背を向け、椅子へ戻った。新しい煙草を咥え、指先に火を灯した。
「で? その調子に乗った転校生はどうする気だ?」
アイゼンは顔を上げた。
その脳裏に、大勢の獣人に囲まれながら、それでも怯まずに笑っていた人間の姿が浮かぶ。
「俺がやってもよろしいでしょうか」
「ああ。好きにしろ。俺が出るまでもねぇ。あいつにあやをつけられても面倒だしな」
「ありがとうございます」
トルマンは煙を吐き、指先で煙草を軽く持ち替えた。
「ただし、獣人族の面子は潰すなよ」
「はい」
アイゼンの口元が、ゆっくりと歪む。
「……あの転校生は俺が殺します」




