番外編_王宮での昼食会 『奴隷公爵』
昨夜の「嵐」のような出来事から一夜が明け、ヴァルテンベルク公爵邸には穏やかな春の朝光が降り注いでいました。
腰まで届く薄紫色の髪を侍女に整えてもらいながら、鏡の中に映る自分を見つめます。
昨夜、レインハルト様が馬車、そして寝室で執拗に刻み込んだ「愛の証」が、首筋や肩口に淡い赤みを残していました。
それを隠すように少し襟の高いドレスを選び、わたしは一息ついてから朝食の席へと向かいました。
ダイニングルームへ足を踏み入れると、そこにはすでに義父であるライオネル公が席に着いていらっしゃいました。
普段、別宮にいらっしゃることは稀なのに、わざわざどうなさったのかしら……?
閣下は悠然と朝刊を広げていらっしゃいましたが、わたしの姿を認めると、その黄金の瞳にいたずらっぽい光を湛えて微笑みました。
「……おはよう、シャルロット。昨夜はなかなか、賑やかな夜だったようだな」
「あ……、おはようございます、お義父様。……賑やか、と言いますと……」
わたしは頬が熱くなるのを感じました。
王宮でのナタリア殿下の騒動のことかしら。
それとも、屋敷に戻ってからの……。
その時、背後から冷徹な、けれどどこか焦燥を含んだ足音が響きました。
レインハルト様です。
彼は公爵家嫡男としての隙のない礼装に身を包み、峻厳な表情でわたしの隣に腰を下ろしました。
「おはよう、父上。……朝から下らない軽口を叩くのはやめていただきたい」
「ほう、軽口か。……王宮から届いた早馬の報告によれば、ナタリア王女が『シャルロット様親衛隊』の結成を宣言し、国王陛下にヴァルテンベルクへの常駐を直訴して泣き喚いているそうだが?」
「っ……!?」
レインハルト様の手元で、銀のフォークが微かにしなりました。
黄金の魔力がパチパチと火花を散らし、室内の温度が急激に上昇していくのを感じます。
ライオネル閣下は、息子が今にも爆発しそうなのを楽しんでいるかのように、さらにニヤニヤと口角を上げました。
「それだけではないぞ。昨夜の馬車の中……そして深夜の別宮。……我らヴァルテンベルクの魔導師は耳が良いのだ。……お前がシャルロット嬢に『支配の極意を見せてくれ』と泣きついていたなどという噂が、もし社交界に漏れたらどうなるだろうな?」
「――――父上!!!」
ドォォォォォン!!!
凄まじい魔圧がダイニングを揺らしました。
レインハルト様が立ち上がると同時に、彼の背後から黄金の魔力が翼のように広がり、テーブルの上のティーカップがガタガタと震え始めました。
「……あんな暗示をかけなければよかった!! あの子の頭がこれほどまでにお花畑だとは計算外だったんだ!! ……それに、深夜のことは……それは……っ!!」
「ほう、否定はせんのだな? 『僕は君の奴隷でいい』……だったか? ククッ、最強の魔導師も、嫁の尻に敷かれては形無しだな」
「平伏しているのは僕の愛であって、力ではない!! 僕は彼女を愛しているからこそ、彼女の指先一つで世界を滅ぼす覚悟があると言っているんだ!!」
レインハルト様の絶叫とともに、ついに彼の手元にあったクリスタルグラスがパリンと音を立てて砕け散りました。
沸騰した彼の魔力が、もはや物理的な破壊を伴い始めています。
「……レインハルト様」
わたしは、熱を帯びた彼の右手を、そっと両手で包み込みました。
荒れ狂っていた魔力が、わたしの掌が触れた瞬間に、まるで魔法が解けたかのように霧散していきます。
「あ……、シャル……」
「……お父様も、あまりレインハルト様をいじめないでくださいまし。……レインハルト様、お紅茶が沸騰してしまっていますわ。……落ち着いて、わたしを見てくださる?」
わたしが少し首を傾げて、困ったように微笑むと、レインハルト様は「っ……」と言葉を詰まらせ、そのまま力なく椅子に座り込みました。
頬を真っ赤に染め、先ほどまでの威厳はどこへやら、捨てられた仔犬のような目をしてわたしを見つめています。
「……ほら、見ろ」
ライオネル閣下が、満足げにティーカップを置きました。
「……彼女の一言で、王国最強の魔導師がこれほどまでにおとなしくなる。……ナタリア王女の言うことは、あながち間違いではなかったというわけだ。……シャルロット、この家の『主』は君だよ」
「……父上、今すぐ領地の別邸へ強制転移して差し上げましょうか?」
「ククッ、これ以上居座ると本当に灰にされそうだな。……さらばだ、若き『奴隷』公爵。……シャルロット、息子をあまり甘やかしすぎるなよ」
閣下は上機嫌で立ち上がると、風のようにダイニングを去っていきました。
残されたのは、気まずい沈黙と、壊れたグラス。
そして、耳まで真っ赤にして俯いているレインハルト様でした。
「……レインハルト様?」
「…………シャル。……僕は、君に支配されているつもりはないんだ。……ただ、君が微笑むだけで、僕の中のすべての魔法が君に従ってしまうだけで……」
彼はわたしの手を強く握り返し、その指先に縋るように口付けを落としました。
黄金の瞳には、隠しきれない独占欲と、それを上回る深い、深い情愛。
「……父上の言ったことは、忘れてくれ。……僕は、君の『主』であり続けたいんだ。……たとえ、君の指先一本で僕の全人生が書き換えられてしまうのだとしても……」
「ふふっ。……存じておりますわ、レインハルト様。……わたしも、貴方のそんなところが……大好きですのよ?」
わたしがそう囁くと、彼は再び片手で顔を覆い、今度は幸せそうな溜息をつきながら、わたしを抱き寄せました。
どうやら、ナタリア殿下の「暴走」の余波は、この屋敷のいたるところに甘く不穏な火種を残していくことになりそうですわ。




