28_僕は君の奴隷でいい
ようやくお暇し、馬車に乗り込むと、レインハルト様は深く座席へ身を預け、長く息を吐かれました。
「今日は、紛争のお話が大半でしたわね」
わたしがそっと口を開くと、レインハルト様は窓の外を見たまま、低く答えました。
「……ノルディアとベルツの件か。気になるのは分かるが、我が国は国土も戦力も大陸一だ。当面は心配ないだろう」
「……はい」
そう返しながらも、胸の奥には小さな棘のような違和感が残りました。
(当面は……、なのですね)
レインハルト様がそう仰るのなら、きっと現実的にはそうなのでしょう。
けれど、その「当面」という一言だけが、どうしても静かに胸に引っかかって離れませんでした。
馬車は石畳を軽く揺れながら進んでいきます。
隣に座る彼は、なおも窓の外へ視線を向けたまま、彫像のように動きません。
けれど、耳たぶだけが隠しきれないほど赤く染まっているのを見て、わたしは思わず小さく微笑んでしまいました。
「……レインハルト様? あの、そんなに怒らなくても……。ナタリア殿下も、悪気はなかったと思いますわ」
わたしがそっとお袖を引くと、レインハルト様は短く息を呑み、ようやくこちらを向きました。
その黄金の瞳は、羞恥と独占欲が混ざり合った、見たこともないほど複雑な熱を帯びています。
「……悪気がない? シャル、君は分かっていない。……僕が王家の人間の前で、君の『奴隷』だの『手のひらで転がされている』だのと言われたんだぞ。……しかも、あながち間違いではないというのが、一番の屈辱だ」
「まあ、わたし、貴方を転がしているつもりなんて……」
「現に転がっているさ! 君が少し首を傾げるだけで、僕は王都を焼き尽くす準備だって始めてしまう。……ナタリアの奴、余計なことを……。あんな暗示をかけるんじゃなかった」
その言葉に、わたしは思わず瞬きをしました。
レインハルト様は、いつも堂々としていて、誰よりも強く、誰よりも理知的です。
その彼が、こんなふうに本気で打ちひしがれた声音を漏らすなんて。
レインハルト様は自分の黒髪を掻き乱し、ついに耐えきれないといった様子で、わたしの腰を抱き寄せてご自身の胸元にわたしの頭を埋めました。
「あっ、……レインハルト様!?」
「静かに。……シャル、さっきナタリアが言っていたことを覚えているかい?」
彼の低い声が、わたしの耳元で微かに震えています。
それは怒りではなく、もっと……もっと熱い、期待に満ちた震え。
「『支配の極意』、だったかな。……彼女は、僕が君に跪いていると言った。……だったら、責任を取ってもらおうか」
「……責任、ですか?」
「ああ。……今ここで、僕に実演して見せてくれ。君がどうやって、この僕を『平伏』させているのかを」
レインハルト様の指先が、わたしの顎をくいと持ち上げました。
至近距離で見つめる彼の瞳は、獲物を前にした獣のようでありながら、主人の命令を待つ忠犬のような危うい光を湛えています。
「……さあ、シャル。僕を『支配』してごらん。……君のその小さな唇で。その、甘い魔力で」
わたしは、真っ赤になって彼を見つめ返しました。
いつもは彼に導かれ、彼に愛されるがままのわたし。
けれど、今この狭い馬車の中で、レインハルト様は本気でわたしに「主導権」を渡そうとしていらっしゃいます。
(……支配の、極意……)
わたしは勇気を出して、彼の首筋にそっと手を回しました。
指先から伝わる、彼の激しい鼓動。
王国最強の魔導師が、わたしの手のひらの中で、こんなにも激しく、脆く、脈打っている。
「……こう、かしら?」
わたしは背伸びをするようにして、彼の耳元に唇を寄せました。
ナタリア殿下がされたように……いいえ、彼がわたしにいつもしてくれるように。
魔力など使わなくても、ただ愛おしさを込めて、その名前を囁きます。
「……レインハルト様。……大好きですわ。わたしの、騎士様……」
そして、彼の唇に、羽が触れるような軽い口付けを落としました。
「……っ、…………シャル」
レインハルト様の喉が大きく鳴りました。
次の瞬間、彼の瞳から理性の色が完全に消え去り、わたしは座席へと押し倒されていました。
「……だめだ、そんなのは反則だ。……君のその『無自覚な支配』こそが、僕にとって最大の毒だというのに……!」
「あっ……、レインハルト様……っ」
「……分かった。……僕は君の奴隷でいい。一生、君のその甘い声に縛られて、地獄まで付き合ってあげるよ。……だから、今夜は覚悟しておいて。……君が『支配』した男が、どれほど君を求めて狂うのかを、その身に刻み込んであげるから」
馬車が大きく揺れる中、彼の唇がわたしのすべてを塞ぎました。
ナタリア殿下の言葉通り、わたしはもしかしたら、この最強の男を一番残酷な方法で……愛という名で、完全に支配してしまっているのかもしれません。
幸せな絶望に包まれながら、わたしは彼の濃厚な魔力の中に、とろりと溶けていきました。
今はこんなにも温かいのに。
こんなにも満たされているのに。
それでも、幸福の輪郭に沿うように、かすかな不安が消えずに残っている。
その正体を、わたしはまだ知りませんでした。




