26_脳を溶かす、至高の囁き
柱の陰から、わたしは見てしまいました。
レインハルト様の目の前に立つ、亜麻色の髪に翠の瞳を持つ美しい女性を。
彼女は、熱っぽい眼差しでレインハルト様を見上げ、その指先に触れていました。
その瞬間、わたしの胸の奥を、ちりりと小さな火花が走りました。
あんなに近くで、しかも女性から親しげに触れられているお姿を見るのは、わたしの心臓にとってあまりに毒が強すぎます。
すると、レインハルト様が彼女を壁際へと優しく追い詰め、その耳元に顔を寄せました。
(……えっ?)
何事か、熱っぽく囁くわたしの愛する夫。
その女性は、一瞬にして顔を真っ赤に染め、まるで魂を抜き取られたような、恍惚とした表情で立ち尽くしていました。
そしてそのまま、視点の定まらないふらふらとした足取りで、わたしに気づくこともなく大広間を去っていきました。
あんなに上気した顔をさせて……一体、何を仰ったのかしら。
「……レインハルト様」
「あ、あぁ、シャル……! 大丈夫だ、な、なんでもない。……そ、それより、本館に来るなんて、何かあったのかい?」
わたしが姿を現すと、レインハルト様は目に見えて慌てたように魔力を解き、いつもの蕩けるような優しい笑顔で駆け寄ってきました。
「あなたに、会いたくなっただけですわ」
わたしは、少しだけ頬を膨らませて彼を見上げました。
レインハルト様は、わたしの肩を抱き寄せようとしますが、わたしはその胸元を小さな手でそっと押し返しました。
「あなた、まさか……?」
「……な、なんだい、シャル」
「さっきの女性の耳元で、とても熱っぽく囁いておりませんでしたこと? ……わたし、見てしまいましたわ」
「っ……。いや、あれは少し……注意をしていただけで。公務上の、その、マナーの問題というか……」
しどろもどろになるレインハルト様。
最強の魔導師ともあろうお方が、わたし一人の視線にこれほどまでに狼狽えていらっしゃる。
そのお姿はとても愛おしいけれど、胸の奥のもやもやは、すぐには消えてくれませんでした。
「レインハルト様。……わたし、浮気は許すタイプですの」
「――は?」
レインハルト様は、鳩が豆鉄砲を食ったようなお顔で固まりました。
彼から精気も魔力も吸い上げ、彼のすべてを奪っているわたしが、浮気ひとつ許せずして何なのでしょうか。
「でも、嫉妬はしますわ。……今の、あの方にされたみたいに、わたしにもしてくださいまし。……いえ、あの方よりももっと、熱く……!」
自分でも驚くほど子どもじみたわがまま。
けれど、あの方が見せていたあの“恍惚とした表情”が、レインハルト様の言葉によってもたらされたものだとしたら……。
それを自分以外の女性が知っていることが、たまらなく寂しかったのです。
「……シャル。本気かい? ここは大広間だよ」
「今すぐですわ!! ……わたし、悲しいんですの……っ」
潤んだ瞳で訴えると、レインハルト様は観念したように短く溜息をつきました。
次の瞬間、彼の黄金の瞳がどろりと甘い、執着の熱を帯びてわたしを射抜きました。
「……分かった。……君がそう望むなら、たっぷりと思い知らせてあげるよ、シャル」
レインハルト様の大きな掌がわたしの腰を抱き寄せ、大きなお腹を気遣いながらも、逃げられない強さで壁際へと導きました。
彼の纏う白檀の香りと、濃密な魔力の気配。
耳元に唇が触れるか触れないかの距離で、彼の甘く、低い声が響きました。
「……あの方に教えたのは『恐怖』だ。だが、君には……僕の『愛』だけを刻み込んであげるよ」
「……っ……」
「……愛おしいシャル。僕の魔力をこんなにも悦び、吸い尽くそうとする君は、世界で一番贅沢で、罪深い宝石だよ」
その声は、ただの音ではありませんでした。
レインハルト様が練り上げた膨大な魔力が、彼の言葉に乗ってわたしの鼓膜を震わせ、神経を一本ずつなぞるようにして脳髄へと直接流れ込んできます。
「……もっと僕を吸い取ってごらん。君が僕を欲しがって吸い付いてくるのが、愛おしくてたまらないんだ……」
「あ……、ぁ……っ」
「……愛しているよ、シャルロット。……君の魂も、美しい顔も身体も、このお腹の子どもたちも……すべては僕のものだ。一生、僕の腕の中で蕩けていればいい。……他の誰のことも、考えられなくなるくらいに……」
意地悪く、わたしの胎内に直接響くような、重厚な音の振動。
身体中が熱を持ち、指先が震える。
「……君のその罪深い唇から溢れる吐息を、もっと僕に頂戴。……二人で、この地獄の深淵にどこまでも堕ちていこう」
「……ん、……あっ……」
「……逃げようとしても無駄だよ。君の身体の隅々まで、僕の魔力が浸透して離さない。……もう、僕の印がないと呼吸すらできなくなっているだろう?」
「……っ!…………」
それは、わたしの淫魔の血を沸騰させ、身体の奥底までを甘い痺れで満たしていく、“呪縛”のような愛の言葉。
あまりの甘い陶酔に膝から力が抜け、わたしは彼の腕の中で、とろりと溶けるように崩れ落ちました。
「おっと。……ふふ、すごいね、シャル。僕の言葉だけで、こんなに可愛らしく鳴いてくれるなんて」
レインハルト様は、わたしの身体を支えながら顎を持ち上げ、熱っぽく潤んだわたしの瞳を覗き込みました。
視界が白く霞み、頭の中には彼の声の余韻だけが鳴り響いている。
亜麻色の髪の女性がどうだとか、そんなことはもう、どうでもよくなってしまう。
「……これでも、まだ足りないかい?」
「あ……、あぁ……っ。……レインハルト様……、もっと……、もっとくださいまし……」
「……ああ、喜んで。……別宮へ戻ろう。……今夜は、君が僕の名前以外、何も思い出せなくなるまで愛してあげるからね」
レインハルト様は満足げに微笑むと、わたしを軽々と横抱きにしました。
わたしは、彼の首筋に顔を埋め、彼の心音を聞きながら、至福の眠りへと誘われるように目を閉じました。
最強の魔導師が、わたし一人のために作ってくれる、ヴァルテンベルクという名の檻。
その中で、わたしは明日も、世界で一番幸せな囚われの淑女として生きていくのです。
第三幕、ここまでお付き合いくださり本当にありがとうございました。
今幕は、シャルロットとレインハルトの関係がさらに濃く、深く、そして危うく絡み合っていく幕になりました。
守られているはずなのに逃げ場がなく、閉じ込められているはずなのに幸福でもある。
そんな、甘さと執着、愛と支配の境目がいよいよ曖昧になっていく様子を書きたかった章でもあります。
レインハルトにとってシャルロットは、守るべき最愛の妻であると同時に、自分を狂わせる唯一の存在でもあり、
シャルにとってレインハルトは、恐ろしくも絶対的に安心できる「檻」そのものになっていく。
その危うい均衡が、この先どう揺らいでいくのか、引き続き見届けていただけたら嬉しいです。
次幕では、双子が誕生し、ふたりを取り巻く世界もさらに大きく動いていく予定です。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。




