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16_灰になる誓い

※今回のお話には、拉致・監禁・暴力被害を示唆する描写が含まれます。

苦手な方はご注意ください。





 窓の外から聞こえるはずの王都の喧騒は、この薄汚れた宿屋の一室までは届かなかった。

 鼻をつく安っぽい酒の匂いと、男たちの脂汗、そして――わたしの身体から滲み出る、おぞましい外の気配。


 つい数刻前まで、わたしは幸せの絶頂にいた。

 レインハルト様との間に授かった、愛しい第一子のためのベビー用品を選び、穏やかな午後の光の中を歩いていたのです。

 それが、路地裏から現れた数人の男たちに引きずり込まれ、抗う術もなくこの監獄のような部屋へ連れ込まれました。


 ――それでも、わたしの身体に流れる異質な血は、極限の恐怖の中で、わたし自身の意思とは無関係に暴走してしまったのです。

 その時わたしは初めて、自分の中に眠るものの恐ろしさを、心の底から理解しました。



 視界が滲む。


 息が上手く吸えない。


 叫び声は喉の奥で潰れ、外の世界へ届かない。


 ただ、自分の中の何かが制御を失って荒れ狂い、取り返しのつかないことが起きているのだという感覚だけが、確かに残っていました。






 どれほどの時間が過ぎたのでしょうか。

 やがて部屋の空気が変わりました。

 男たちの足音が鈍り、声が途切れ、誰かが咳き込み、床に膝をつく音が続いた。




 ――そして。



 部屋の扉が、凄まじい衝撃と共に粉砕されました。


「……見つけたぞ」


 立ち込める土煙の中に立っていたのは、わたしがこの世で最も愛し、そして最も畏れる夫、レインハルト様でした。

 彼は、わたしの指に輝くイエローダイヤモンドの結婚指輪を触媒に、空間を捻じ曲げてここまで辿り着いたのです。


 レインハルト様の瞳には、かつての知性や清廉さは微塵も残っていませんでした。

 そこにあるのは、底知れない暗黒と、触れるものすべてを灰にするような、静かな殺意。


 部屋の床には、五人の男たちが転がっていた。

 彼らはすでに身動きもできない有様でした。

 顔色は土のように悪く、生気はほとんど残っていないように見えました。


 わたしの身体が――わたしの血が、彼らを、奪い尽くしてしまったのだ。



「……魔力の欠片もない、ただの人間じゃないか。その分際で、よくも……よくも僕の妻を……っ!」


 低い声が震える。

 絶望が、怒りの形を借りているのだと分かった。


 彼が一歩踏み出すだけで、ミシミシと空気が軋む。

 魔力が、刃のように尖っている。


 レインハルト様は、足元に転がる男を冷ややかに見下ろし、今にも息の根を止めてしまいそうなほどの殺気を放ちました。

 その場の空気が張り詰め、わたしは思わず悲鳴を上げます。


「やめてぇっ! レインハルト様ぁ……っ、殺さないで……っ、これ以上、手を汚さないでくださいませ……っ!」


 わたしは、震える声で叫びました。

 こんな者たちのために、この方の手を、この方の魂を、これ以上汚してほしくなかったのです。


 レインハルト様は、ピクリと肩を揺らしました。

 理性が飛んだ、濁った瞳がわたしを捉えます。


「……ああ、君の前で血は見せたくはないかな……。シャル、今、綺麗にしてあげるからね」


 彼は幽霊のような足取りで近づき、わたしの身体に手をかざしました。

 温かな魔力が降り注ぎ、肌に貼り付いた不快な感触が、塵のように消えていく。

 傷む箇所が、静かに塞がれていく。

 わたしが「わたし」に戻っていく。


 けれど、どれほど癒やされても、一度踏み荒らされた感覚だけは消えてくれませんでした。

 肌の奥にまで刻み込まれた恐怖が、わたしはもう元のわたしではいられないのだと、冷たく囁いてくるのです。

 守られ、綺麗に戻されていくほどに、壊された瞬間の無力さだけが、かえって鮮明に胸を抉りました。


 そのうえで、この身が勝手に『捕食』へ傾いたことが、わたしにはたまらなく惨めで、恐ろしくて、涙すらうまく零せなかったのです。


 

 そして、彼の表情は晴れませんでした。

 むしろ、さらに深く、暗い絶望へと沈んでいくようでした。


「……はぁ……、ひどいな……」


 レインハルト様の声は、怒りと悲しみで震えていました。

 繊細な指使いで、わたしの身体を労わりながら浄化の魔法を幾重にも重ねて注いでいく。


 わたしは、床に散らばった男たちの残骸を見つめながら、激しい罪悪感に襲われました。

 彼らはわたしを奪おうとして、逆にわたしに全てを吸い取られ、最後にはレインハルト様の魔力によって、このままでは完全に命を奪われてしまう。


「レインハルト様、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」


 わたしの謝罪すら、今の彼には届きませんでした。


 レインハルト様は膝をつき、わたしの額にそっと自身のそれを寄せました。

 指先は震えているのに、抱き寄せる腕だけが不自然なほど強い。


「……大丈夫だ、シャル。もう終わった。これで元通りだ……。君は綺麗だ……。」


 わたしは、声にならない息を漏らしました。

 元通り。

 わたしは綺麗で、守られている。

 その安堵の裏で、別の事実が胸を刺す。


 ――わたしは、魔物だ。

 そして、わたしを守るためなら、彼は何にでもなれる。


 レインハルト様が短く詠唱すると、空間が歪み、闇が口を開けました。

 彼はわたしを抱き上げ、その裂け目へと足を踏み入れる。


 最後に見えたのは、薄汚れた部屋の床に転がる五つの影。

 それは罰だったのか、報いだったのか。

 わたしには、もう考えられなかった。








 ***




 翌朝、そこには――。

 ただ異様な静けさと、何かが起きたとしか思えない痕跡だけが残されていた。






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