赤い家
家が赤く見えるのは、
夕方だけだった。
西日が差すからではない。
壁が赤いわけでもない。
屋根は黒。
外壁は灰色。
築五十年ほどの、
どこにでもある二階建てだった。
ただ、
午後五時を過ぎると、
窓の内側が赤くなる。
照明ではない。
カーテンでもない。
ガラスの向こうに、
赤い何かが満ちている。
近所の人間は、
昔からその家を、
赤い家と呼んでいた。
*
最初の事故は、
七年前。
空き家になった家へ、
不動産会社の社員が入った。
二階の和室を確認していた時、
突然、
階段の位置が分からなくなった。
一階へ下りようとして、
廊下を三十分歩き続けた。
廊下の長さは、
本来六メートルほどしかない。
本人は、
「ずっと真っすぐだった」
と証言した。
二度目。
四年前。
屋根の修繕に入った作業員が、
屋根裏から聞こえる声を追った。
声は、
自分の母親だったという。
母親は、
その時すでに亡くなっていた。
作業員は、
屋根裏から三時間後に発見された。
脱水。
軽度の低体温。
手には、
存在しないはずの赤い糸を握っていた。
三度目。
二年前。
侵入した高校生二人のうち、
一人が戻らなかった。
もう一人は、
玄関から転がるように出てきた。
「中にもう一軒ある」
そう繰り返した。
家の中に、
もう一軒。
何を意味しているのかは、
分からなかった。
行方不明になった高校生は、
今も見つかっていない。
*
それ以降、
家は立入禁止になった。
市が柵を設置。
警告板。
監視カメラ。
異常事案担当による定期観測。
当初、
現象は敷地内だけに留まっていた。
問題は、
一年前からだった。
現象範囲が、
少しずつ広がり始めた。
門。
庭。
歩道。
そして、
今年の春。
公道へ、
二十三センチ。
*
「二十三センチって」
三宅が資料を見る。
「そんな細かく分かるんですか」
市職員が答えた。
「毎月測ってますから」
黒田と三宅は、
赤い家の前にいた。
午前十時。
まだ家は赤くない。
見た目は、
ただの空き家だった。
雑草。
錆びた雨樋。
閉じた雨戸。
庭の隅に、
古い自転車。
三宅が柵を見る。
道路側へ、
白い線が何本も引かれている。
日付。
数値。
一番古い線は、
門の内側。
次。
門の外。
その次。
歩道。
最新の線は、
車道の端へ少しかかっていた。
「これ全部?」
「観測時の境界です」
「広がってる」
「はい」
黒田が聞く。
「何が起きるんです?」
研究員が答える。
「境界を越えると、空間認識に異常が出ます」
「どの程度?」
「個人差があります」
「人によって違う?」
「軽い場合は方向感覚の喪失。重い場合は時間感覚の消失、幻聴、幻視。最悪の場合は帰還できません」
三宅が家を見る。
「高校生みたいに?」
「可能性はあります」
「中にまだいるんですか」
「分かりません」
研究員は、
淡々と言った。
「生存反応は確認されていません」
*
黒田たちが来たのは、
撤去工事のためではなかった。
近隣住民への説明会。
交通規制。
そして、
所有者との面会。
家の所有者は、
野上信一。
六十八歳。
市外在住。
赤い家は、
野上の実家だった。
野上は、
撤去に反対していた。
*
「壊す必要はない」
市役所の会議室。
野上は、
同じ言葉を三度言った。
「柵を広げればいい」
市の担当者が答える。
「現象範囲が公道へ出ています」
「じゃあ道路を少し狭めればいい」
「今後も広がる可能性があります」
「可能性だろ」
「現在も拡大しています」
「止まるかもしれない」
「止まる根拠は確認できていません」
野上は机を叩いた。
「だからって壊すのか」
誰もすぐには答えなかった。
野上は続ける。
「あの家は親父が建てた」
「はい」
「母親もあそこで死んだ」
「はい」
「俺も二十まで住んでた」
担当者が資料を見る。
「お気持ちは分かります」
「分かるわけないだろ」
「そうですね」
担当者は言い直した。
「ただ、現状のまま維持することはできません」
「なぜ」
「人が消えているからです」
野上の顔が止まった。
「それは」
「二年前の件です」
「あれは勝手に入ったんだ」
「そうです」
「立入禁止にしただろ」
「しました」
「なら終わりだ」
「終わっていません」
担当者は、
新しい境界線の図を出した。
「これが先月」
次。
「これが今月」
赤い範囲が、
少しだけ大きくなっている。
野上は見なかった。
「家は壊さない」
それだけ言った。
*
その日の夕方。
黒田と三宅は、
規制線の確認で現場へ戻った。
午後五時十二分。
三宅が家を見る。
「……赤い」
窓の内側が、
薄く光っていた。
赤。
照明とは違う。
深さがある。
ガラスの向こうに、
夕焼けが閉じ込められているようにも見える。
三宅が少し近づく。
「これ、毎日?」
警備員が頷いた。
「だいたい五時過ぎから」
「何時まで?」
「日によります」
黒田が言う。
「近づくなよ」
「分かってます」
赤い窓。
誰もいない。
それでも、
三宅には、
二階の奥に、
何かが立っているように見えた。
「先輩」
「何」
「あそこ」
「どこ」
二階。
右端の窓。
三宅が指差す。
「人いません?」
黒田が見る。
赤いだけだった。
「いない」
「今、いた気がしたんですけど」
「近づくな」
「分かってますって」
三宅は一歩下がった。
*
調査は、
半年以上続いていた。
建物を残したまま、
できる限りのことは試された。
外部からのレーザー測距。
熱画像。
音響。
地中レーダー。
電磁的変化。
土壌。
地下水。
基礎。
建物の振動。
結果。
異常は、
家だけに固定されていなかった。
床下。
基礎。
その下。
深さ三・六メートル付近まで。
赤い家の敷地を中心に、
不定形の領域が広がっていた。
研究員が説明する。
「建物を壊すだけでは足りません」
市担当者。
「どこまで取れば止まる?」
「現時点では、深度四・五メートルまで掘削する必要があると考えています」
「土は?」
「搬出後、隔離環境で検査」
「再利用できる?」
「異常が残らなければ」
「残ったら?」
「処分方法を別途検討します」
土木担当が図面を見る。
「隣地に影響出ます」
「山留め入れます」
「水道管」
「迂回」
「電柱」
「一時移設」
話は、
家の怪異についてではなく、
工事工程について進んだ。
*
研究者の一部は、
撤去に反対した。
「国内でも例が少ない」
「これほど長期に安定して観測できる空間異常は貴重です」
「最低でも一年、追加観測を」
市の担当者が聞く。
「一年後、境界はどこまで広がります?」
「分かりません」
「道路を越える可能性は?」
「あります」
「住宅側へ?」
「あります」
「人が入った場合の安全確保は?」
「保証できません」
「では一年は待てません」
「ただ、破壊すれば二度とデータは取れない」
「人が消える現象も残ります」
研究者は黙った。
「保存できる方法があるなら検討します」
担当者は言った。
「でも、安全を確保できないまま保存はしません」
*
数日後。
テレビで、
赤い家が取り上げられた。
三宅は署の休憩室で見ていた。
『市は来月にも、危険区域の撤去作業へ入る方針です』
画面に、
赤い窓。
規制線。
白い防護服の研究員。
そして、
スタジオ。
三宅が言った。
「あ」
黒田が缶コーヒーを開ける。
「何」
「久世さん」
「また出てるの」
「またって」
画面には、
久世宗一。
『危険性があることは理解しています』
久世は、
いつもと同じ落ち着いた声だった。
『また、周辺住民の安全確保が必要だという点にも異論はありません』
司会者。
『では撤去は妥当ですか』
『私は、少し急いでいると感じます』
久世は、
赤い家の映像を見る。
『我々は、分からないものを前にすると、最終的に「除去」という結論へ向かいがちです』
『しかし、理解できていないものを失わせることもまた、取り返しのつかない判断です』
別の出演者が聞く。
『すでに一人が行方不明です』
『はい』
『公道にも影響が出ている』
『だからこそ、安全と保存を両立する方法を、もう少し時間をかけて探すべきではないでしょうか』
三宅がテレビを見る。
「今回は、ちょっと分かります」
黒田が聞く。
「何が」
「壊したら終わりじゃないですか」
「そうだね」
「貴重なんですよね」
「そうみたいだね」
「じゃあ先輩も反対?」
「何に」
「撤去」
「道路まで来てるんだろ」
「はい」
「じゃあ壊すんじゃない」
「軽いですね」
「俺が決めることじゃないし」
テレビでは、
久世が続けている。
『未知への敬意というのは、何も拝むことではありません』
『分からないからこそ、簡単に失わせない。その慎重さも必要だと思います』
三宅は、
少し考える。
「やっぱり、そんな変なこと言ってないですよね」
黒田が時計を見る。
「休憩終わるよ」
「それ前も言いましたよね」
「時間は毎回来るから」
*
所有者との協議は、
まとまらなかった。
市は、
複数回、
工事計画を提示した。
記録保存。
建材の一部保管。
写真。
図面。
家財の搬出。
希望する遺品の事前確認。
野上は、
すべて拒否した。
「入るな」
それだけだった。
しかし、
現象範囲は止まらなかった。
五月。
車道へ二十三センチ。
六月。
三十一センチ。
七月。
四十六センチ。
そして八月。
道路を歩いていた女性が、
境界へ片足を踏み入れた。
ほんの一歩。
女性は、
その場で止まった。
五分間、
動かなかった。
救急隊が規制区域外から呼びかける。
反応なし。
やがて、
自力で後ろへ下がった。
戻った直後、
女性は泣き出した。
「子供がいた」
そう言った。
女性に、
子供はいなかった。
*
その事故の翌週。
撤去が決まった。
関係機関の手続き。
所有者への通知。
異議申立て。
審査。
危険性。
代替手段。
保存可能性。
周辺への影響。
それらが確認された。
最終的に、
必要な法的手続きが取られ、
市は強制的な除去へ進むことになった。
野上は、
最後まで同意しなかった。
*
工事当日。
午前六時。
道路封鎖。
周辺住民は一時避難。
消防。
救急。
警察。
市職員。
土木業者。
研究員。
報道。
見物人。
それから、
撤去反対を訴える人間が十数人。
黒田と三宅は、
規制線の外にいた。
三宅が看板を持つ。
《この先立入禁止》
「私たち、今日は本当に警備だけですね」
「いいだろ」
「中、見たくないですか」
「見たくない」
「即答」
「消えたくない」
「私もです」
少し離れたところに、
野上が立っていた。
市職員が、
最後の確認をする。
「家財で搬出を希望されるものはありませんか」
「触るな」
「写真記録は残します」
「いらん」
「建材の一部は安全確認後、希望があれば」
「いらん」
野上は、
家だけを見ていた。
*
午前七時。
作業開始。
最初に、
敷地周囲の柵を撤去。
次に、
遠隔操作の小型重機が入る。
無人。
操縦席には誰もいない。
カメラ。
距離計。
温度。
音響。
位置情報。
三宅が少し遠くからモニターを見る。
重機が、
門を越える。
異常なし。
庭。
異常なし。
玄関前。
映像が、
一瞬だけ赤くなる。
研究員が言う。
「映像乱れ」
「停止します?」
「位置は?」
「境界内、〇・八メートル」
重機が止まる。
映像が戻る。
研究員。
「続行可能」
重機のアームが、
玄関庇へ触れる。
音。
木材が割れる。
その瞬間。
家の窓が、
一斉に赤くなった。
朝だった。
夕方ではない。
それでも、
全部の窓が赤い。
三宅が息を呑む。
「……嫌がってるみたいですね」
黒田が見る。
「そう見えるだけかもな」
家の中から、
音がした。
声ではない。
大勢の人間が、
同時に息を吸ったような音。
長く。
深い。
重機のカメラが、
赤に染まる。
研究員が言う。
「操作入力確認」
「反応なし」
「機体位置」
「動いてません」
映像だけが、
揺れている。
数秒。
戻る。
作業責任者が聞く。
「続けます?」
研究員が数値を見る。
「境界拡大なし」
土木担当。
「機体異常なし」
市担当者が責任者を見る。
「安全手順通りで続行してください」
「了解」
重機が再び動く。
*
壁が壊れる。
屋根が落ちる。
二階が崩れる。
赤い光が、
瓦礫の隙間から漏れる。
誰も中へ入らない。
すべて遠隔。
建材は、
少しずつ敷地外へ運び出される。
一つずつ計測。
異常反応あり。
なし。
あり。
なし。
反応の強いものは、
専用コンテナへ。
弱いものは、
別置き。
正午。
家は、
ほぼなくなった。
残ったのは、
基礎。
床下。
赤い光。
それは、
まだ消えていなかった。
三宅が言う。
「家じゃなかったんですね」
「そうみたいだな」
*
午後。
基礎撤去。
コンクリートを砕く。
地面が露出する。
土は、
普通の色だった。
赤くない。
臭いもない。
研究員が地表を測る。
「反応強度、変化なし」
土木担当。
「掘ります」
一メートル。
反応あり。
二メートル。
あり。
三メートル。
あり。
三・五。
低下。
四。
さらに低下。
重機が、
土を掘り続ける。
突然、
カメラ映像に、
部屋が映った。
誰もいないはずの、
赤い和室。
畳。
襖。
古いテレビ。
そして、
部屋の中央に、
一人の少年が立っている。
三宅がモニターを見る。
「……あれ」
誰も喋らない。
少年は、
高校生くらい。
顔は、
よく見えない。
研究員が録画を確認する。
「映像のみ」
作業責任者。
「人?」
「熱反応なし」
「停止?」
市担当者が聞く。
「機体周辺に実体あります?」
「確認できません」
「生体反応?」
「なし」
少年が、
モニターの中で、
こちらを見る。
口が動く。
音はない。
三宅が小さく言った。
「行方不明の子じゃ」
研究員が写真と照合する。
数秒。
「似ています」
野上が、
規制線の外から叫んだ。
「止めろ!」
全員が見る。
「まだいるんだろ!」
野上が規制線へ近づく。
「人がいるじゃないか!」
警官が止める。
「下がってください」
「助けろ!」
三宅もモニターを見る。
少年は、
まだ立っている。
黒田が研究員に聞く。
「助けられるんですか」
「実在しているか分かりません」
「入ったら?」
「危険です」
「外から出す方法」
「確認できていません」
モニターの少年が、
手を上げる。
赤い部屋。
口が動く。
そして、
映像が消えた。
ただの掘削孔へ戻る。
研究員が言う。
「反応強度、下がってます」
土木担当。
「現在深度四・二」
市担当者が聞く。
「追加探索は?」
「映像記録は保存しました」
「人員を入れる必要は?」
研究員は少し黙った。
「現時点では勧めません」
野上の声が、
遠くで響く。
「見殺しにするのか!」
市担当者は、
しばらく掘削孔を見た。
「続行してください」
*
四・五メートル。
反応が、
ほとんど消えた。
四・八。
ゼロ。
別の位置。
ゼロ。
周辺。
ゼロ。
道路側。
ゼロ。
研究員が、
何度も測る。
「現象反応、確認できません」
作業責任者。
「終わり?」
「少なくとも現在は」
土木担当。
「埋め戻します」
誰も拍手しない。
誰も、
勝ったとは言わない。
ただ、
工程表に、
次の作業が書き込まれた。
*
野上は、
最後まで現場にいた。
家はなかった。
地面には、
大きな穴。
その中へ、
新しい土が入れられていく。
市職員が近くへ行く。
「記録写真はお渡しできます」
野上は答えない。
「安全確認済みの家財も、後日」
「家じゃない」
「はい?」
「もう、家じゃない」
野上は、
穴を見る。
「俺が知ってる家は、あんな穴じゃない」
職員は何も言わなかった。
しばらくして、
野上が聞いた。
「あの子は」
「行方不明の方ですか」
「映ってた」
「映像は記録されています」
「いたんだろ」
「分かりません」
野上は、
職員を見る。
「分からないのに埋めるのか」
「はい」
職員は言った。
「分からないまま、人が消える場所を残すことはできません」
野上は、
それ以上何も言わなかった。
*
撤去後。
一か月。
異常なし。
三か月。
異常なし。
半年。
異常なし。
境界線は、
消えた。
歩道も、
車道も、
普通に使われた。
行方不明になった高校生は、
戻らなかった。
映像の少年が、
本人だったのか。
ただの記録だったのか。
幻だったのか。
最後まで、
分からなかった。
*
二年後。
跡地には、
ドラッグストアが建った。
明るい駐車場。
大きな看板。
自動ドア。
《本日ポイント五倍》
三宅は、
パトカーの助手席からそれを見た。
「あ」
黒田が運転している。
「何」
「ここ」
「どこ」
「赤い家あったところ」
黒田が一瞬見る。
「ああ」
「ドラッグストアになったんですね」
「便利じゃん」
「それだけですか」
「何が」
「いや……」
三宅は店を見る。
買い物客が出てくる。
高齢の女性。
親子。
仕事帰りの男。
袋の中に、
洗剤。
ティッシュ。
飲料。
普通の商品。
窓は、
白い照明で明るい。
赤くない。
三宅が言う。
「本当に何もないんですかね」
「今のところ」
「夜になったら?」
「店、十一時までだろ」
「そういう意味じゃなくて」
「異常出たら通報来るよ」
「……そうですね」
信号が青になる。
黒田が車を出す。
ドラッグストアが、
後ろへ遠ざかる。
店の窓には、
夕方の空が映っていた。
赤かった。
ただの、
夕焼けだった。




