消える男
最初に消えたのは、弁当だった。
午前一時十八分。
市中心部。
二十四時間営業のコンビニエンスストア。
夜勤の店員は、レジからそれを見ていた。
弁当売り場。
棚の一番上。
唐揚げ弁当が、
ゆっくりと浮いた。
店員は手を止めた。
弁当が空中を移動する。
高さは、人間が胸の前で持っているくらい。
そのまま通路を進む。
角を曲がる。
見えなくなる。
店員はしばらく動けなかった。
やがて、
「……え」
声が出た。
レジから出る。
弁当売り場。
誰もいない。
床を見る。
何もない。
次の瞬間。
冷蔵ケースから、
ペットボトルの水が一本抜けた。
浮く。
キャップ側が少し上を向く。
そのまま移動していく。
「ちょ、ちょっと!」
店員が追う。
水は入口へ向かう。
自動ドアが開いた。
外は雨だった。
水のボトルが消える。
その直後、
濡れた歩道に、
足跡がついた。
一つ。
二つ。
三つ。
人間の足跡。
ただ、
そこには誰もいなかった。
*
黒田と三宅が店に着いたのは、午前一時三十五分だった。
三宅が防犯カメラの映像を見る。
弁当が浮いている。
水が動く。
自動ドアが開く。
誰も映っていない。
三宅は画面を見たまま言った。
「幽霊ですかね」
「さあ」
黒田は店員から話を聞いていた。
「持って行かれたのは?」
「弁当と、水と……あとパンです」
「他には?」
「下着も多分」
「下着?」
「男性用です。棚からなくなってました」
三宅が振り返る。
「幽霊って下着いるんですかね」
「知らない」
「河原の人はいらなそうですけど」
「比較対象そこなの」
店員は二人を見る。
「こういうの、よくあるんですか」
「透明になる人は、そんなに多くないです」
三宅が答えた。
「でも、いるんですか」
「います」
店員は防犯カメラを見る。
「じゃあ人なんですかね」
黒田が聞く。
「出入口、ここだけです?」
「はい」
「バックヤードは?」
「従業員しか入れません」
「鍵は?」
「掛けてました」
黒田は入口へ行く。
自動ドア。
外。
雨。
歩道。
足跡はほとんど消えていた。
ただ、
一つだけ残っている。
黒田がしゃがむ。
「靴ですね」
三宅も見る。
「二十七くらいですか」
「そのくらい」
「幽霊、靴履くんですかね」
「人じゃないの」
「ですよね」
*
翌朝。
同じ市内で、
似た被害が二件確認された。
一件はコンビニ。
一件はディスカウントストア。
どちらも深夜。
防犯カメラには人影なし。
商品だけが動く。
盗まれたもの。
弁当。
飲料。
市販薬。
靴下。
電池。
携帯充電器。
男性用下着。
それから、
少量の現金。
事件は刑事課へ回った。
黒田と三宅は、最初の店の事情確認と周辺聞き込みを続けた。
三宅が一覧を見る。
「高い物、あんまり取ってないですね」
「そうだな」
「スマホとか化粧品とか、もっと高いのあるのに」
「欲しいもの取ってるんじゃない」
「生活してる?」
「たぶん」
三宅は被害品を見る。
「弁当、水、薬、下着……」
「ホームセンターじゃないんだから」
「でもそんな感じですね」
刑事の一人が近づいてきた。
「こっちは?」
黒田が答える。
「最初の店は出入口以外、侵入痕なしです」
「自動ドアは反応?」
「してます」
「床のセンサーも?」
「店側に確認中です」
刑事は資料を見る。
「透明化能力者の可能性高いな」
三宅が聞く。
「怪異じゃなくて?」
「怪異でも窃盗なら窃盗だけど」
「まあ、そうですよね」
「ただ今回は動きが人間っぽい」
刑事は被害品を指差した。
「薬まで盗んでる」
*
三件目の店舗では、
少しだけ映像が残った。
入口の雨除け。
誰もいない。
自動ドアが開く。
床のマットが、
一瞬沈む。
映像解析担当が静止画にする。
「ここです」
三宅が見る。
「へこんでますね」
「体重はあります」
別の映像。
店舗裏手。
排水溝の水が揺れる。
何もない場所を、
水滴が弾く。
「靴底も濡れてる」
刑事が言う。
「じゃあ完全に物理的な人間ですね」
三宅。
「透明だけど」
「見えないだけだろ」
黒田が言った。
三宅は少し笑った。
「見えないだけって、だいぶ大きいですけど」
「でも足はある」
*
捜査は、
黒田たちの知らないところでも進んでいた。
被害店舗の位置。
時間帯。
盗まれた商品の傾向。
周辺の防犯カメラ。
交通系ICの利用記録。
携帯基地局。
ネットカフェ。
コインランドリー。
空き家。
簡易宿泊所。
似た能力を持つ者の過去の記録。
ただし、
能力者だからという理由だけで、
片端から調べることはできない。
過去に透明化能力の申告歴がある人間は数人いた。
全員、
被害発生時刻の所在が確認された。
それだけで終わった。
三宅が刑事に聞いた。
「能力者名簿みたいなの、あるんですか」
「登録してる人についてはな」
「登録してない人も?」
「いる」
「それって問題じゃないんですか」
「能力持ってるだけなら、必ずしも申告義務ないから」
「危なくないですか」
「包丁持ってる人間、全員登録する?」
三宅は黙る。
刑事が続ける。
「使って何かしたら話は別」
*
四日目。
新しい被害。
今度は駅前の家電量販店。
閉店間際。
高額商品には手を出していない。
モバイルバッテリー。
乾電池。
小型ライト。
イヤホン。
防犯カメラに姿はない。
ただ、
エレベーターの記録が残った。
一階。
扉が開く。
誰もいない。
しかし、
床の重量センサーが七十一キロ増加。
三階で停止。
同じ重量が降りる。
三宅が資料を見る。
「七十一キロ」
「服とか荷物込みだろうけどな」
「身長とか分かります?」
「そこまでは」
「でも男性っぽい?」
「盗まれた下着が全部男性用」
「決め手弱くないですか」
「だからまだ決めてない」
黒田は隣で書類を見ていた。
「先輩、何してるんです?」
「迷子の届け」
「今?」
「今」
三宅は一瞬だけ透明人間の資料を見る。
それから黒田の書類を見る。
「忙しいですね」
「いつもだろ」
*
その日の夕方。
刑事課に一本の連絡が入った。
市内のネットカフェ。
個室から、
誰も出ていないのに、
利用料金だけ未払いになっている。
店員は、
客が入ったこと自体は覚えていた。
三十代くらいの男。
帽子。
マスク。
痩せ型。
入店時は普通に見えていた。
途中から姿が消えた。
防犯カメラには、
男性が個室へ入るところまで映っている。
その後、
出てくる姿はない。
だが、
非常階段の扉が一度だけ開いていた。
個室からは、
空の薬箱が見つかった。
盗難被害にあったものと同じ商品。
会員登録情報。
偽名ではなかった。
男の名前は、
梶原直人。
三十六歳。
無職。
市内在住。
以前は物流会社勤務。
三年前に退職。
透明化能力について、
公的な登録記録はない。
ただ、
元同僚の一人が言った。
「昔から、たまにいなくなる人でした」
刑事が聞く。
「姿が?」
「いや、仕事から」
少し間があった。
「でも一回だけ、倉庫で見たことがあります」
「何を」
「誰もいないのに、台車が動いてた」
「それで?」
「本人に聞いたら、冗談だって」
*
梶原は、三年前まで物流会社の倉庫で働いていた。
能力が初めて現れたのは、その少し前だった。
仕事中、棚の角に腕をぶつけた。
痛みはあった。
だが、腕が見えなかった。
手袋だけが宙に浮いていた。
梶原は慌てて袖をまくった。
腕はそこにあった。
触れる。
動く。
痛む。
ただ、見えない。
数分後には戻った。
それから、疲れた時や強い緊張を感じた時に、身体の一部が消えるようになった。
最初は隠した。
病院へ行っても説明できなかった。
能力者向けの相談窓口があることを知ったのは、半年後だった。
検査を受け、
危険性は低いと判断された。
登録を勧められたが、
梶原は断った。
登録すれば、
会社に知られると思った。
知られれば、
仕事を失うと思った。
実際には、
会社は能力者を理由に解雇することを禁じていた。
ただ、
梶原はその説明を最後まで聞かなかった。
見えないことを知られるのが怖かった。
見えないことを、
便利だと思われるのも嫌だった。
倉庫では、
重い荷物を運ぶ時に姿を消すことがあった。
誰かに見られていると、
手が震えた。
同僚からは、
「またサボってる」
「どこ行った」
と冗談を言われた。
梶原は笑ってごまかした。
だが、
能力を使うたびに、
自分が人間の列から少しずつ外れていくような気がした。
三年前、
フォークリフトの操作中に一度だけ、
視界が大きく乱れた。
自分の身体が消えたのではない。
周囲の棚や床まで、
輪郭を失った。
梶原は急停止した。
事故にはならなかった。
しかし会社は、
安全確認のために彼を事務作業へ回した。
梶原はそれを、
能力が知られたせいだと思った。
実際には、
単純に事故を防ぐためだった。
それでも梶原は、
自分から退職した。
その後、
再就職はうまくいかなかった。
履歴書に書ける資格は少なかった。
倉庫以外の仕事を探しても、
面接で緊張すると、
指先や顔の一部が消えた。
面接官の視線が止まる。
梶原は、
見られていることに耐えられず、
途中で席を立った。
失業給付は切れた。
貯金は家賃と光熱費で消えた。
母親は遠方にいたが、
梶原は連絡しなかった。
能力のことを知られたくなかった。
知られれば、
心配される。
心配されれば、
自分が本当に壊れているように思えた。
最初に盗んだのは、
閉店間際のスーパーからだった。
盗んだというより、
持って出てしまった。
財布の中には、
百二十七円しかなかった。
その日は朝から何も食べていなかった。
弁当を手に取った時、
店員が別の客に呼ばれた。
梶原は反射的に能力を使った。
身体が消えた。
弁当も、
手に持ったままなら見えなくなった。
店を出た後、
歩道橋の下で食べた。
味はよく分からなかった。
ただ、
食べ終わった容器を見て、
自分が一線を越えたことだけは分かった。
翌日、
梶原は店へ戻った。
返そうと思った。
しかし、
店員の前に立つと、
身体が消えた。
声を掛けることもできなかった。
そのまま帰った。
それから、
盗みは一度で終わらなかった。
食べ物。
水。
胃薬。
鎮痛剤。
靴下。
下着。
電池。
どれも高価なものではなかった。
高価なものを盗めば、
自分が犯罪者になる気がした。
生活に必要なものだけなら、
まだ戻れる気がした。
だが、
必要なものを盗むたびに、
戻る場所は遠くなった。
梶原は盗んだ商品を、
転売しなかった。
誰かに売れば、
金になる。
金になれば、
もっと盗む。
そうなるのが怖かった。
だから、
自分で使った。
使い切れないものは、
部屋の隅に積んだ。
空の薬箱。
潰れた弁当容器。
飲み終えたペットボトル。
新品の下着。
それらは、
生活している証拠のようでもあり、
生活から逃げている証拠のようでもあった。
家賃の督促状は、
封を切らずに机の上へ置いた。
電気が止まる日を考えると、
眠れなかった。
暗闇なら、
自分が見えなくても困らない。
そう思ったこともある。
だが、
暗闇の中でも、
腹は減る。
薬は必要になる。
誰にも見えないことは、
誰にも助けを求められないことと同じだった。
現金だけは、
盗まなかった。
金を持てば、
何かを買える。
何かを買えるなら、
まだ普通に戻れる気がした。
だが、
現金を盗んだ瞬間、
自分が生活に困っている人間ではなく、
金を奪う人間になる気がした。
梶原にとって、
現金は必要なものではなく、
越えてはいけない線だった。
だから、
被害一覧にあった少額の現金は、
梶原の犯行ではなかった。
*
梶原の住居は、
市中心部から少し外れた古いアパートだった。
家賃は二か月滞納。
電気は止まっていない。
水道も使用あり。
ゴミ置き場からは、
被害店舗の商品と一致する包装がいくつか見つかった。
捜索令状が取られた。
黒田と三宅は、
周辺の住民対応のために現場へ回された。
主役は刑事課だった。
三宅がアパートを見上げる。
「本当にいるんですかね」
「いるんじゃない」
「見えないのに?」
「電気使ってる」
「そういう問題ですか」
「生活してるなら、いるだろ」
*
部屋の前。
刑事が呼びかける。
「梶原さん。警察です」
返事なし。
「令状があります。開けます」
鍵を開ける。
中。
狭いワンルーム。
布団。
机。
冷蔵庫。
コンビニの袋。
盗難品と思われる商品。
人影はない。
刑事が部屋を見る。
「いない?」
その時。
玄関脇のスリッパが、
少し沈んだ。
誰かが踏んだ。
「いる!」
空気が動く。
誰もいない場所から、
何かが刑事の肩にぶつかった。
玄関が開く。
廊下へ。
足音。
姿はない。
「逃げた!」
階段。
ドン。
ドン。
手すりが揺れる。
三宅が外を見る。
「こっち来ます!」
非常口が開く。
何もいない。
ただ、
外へ出た瞬間、
水たまりに足跡がついた。
一つ。
二つ。
三つ。
三宅が指差す。
「そっち!」
警官たちが走る。
足跡も走る。
その先。
歩道。
買い物袋を持った女性が歩いている。
「危ない!」
何もない空間が、
女性にぶつかった。
「きゃっ!」
女性が転ぶ。
同時に、
何かが転倒する音。
見えない人間が、
アスファルトを擦った。
三宅が駆け寄る。
「大丈夫ですか!」
女性を起こす。
別の警官たちは、
音のした場所へ飛びつく。
何も見えない。
だが、
確かにそこに身体がある。
「手!」
「右腕!」
「押さえろ!」
空中に手錠が掛かる。
輪だけが浮いて見えた。
声がする。
「離せ!」
男の声。
「俺は見えないんだぞ!」
警官が答える。
「分かってる!」
「見えないんだ!」
「動くな!」
数秒。
空気が揺れる。
やがて、
輪郭が浮かんだ。
腕。
肩。
顔。
濡れた髪。
倒れた男が、
徐々に姿を現す。
三十代半ば。
髭。
痩せた頬。
普通の男だった。
ただ、
顔には怒りよりも、
怯えがあった。
梶原は手錠を見た。
それから、
自分の手を見た。
見えている。
見えているのに、
誰にも触れられないと思っていた手が、
今は他人の手に押さえられている。
「……見えるのか」
梶原が言った。
三宅が少し離れたところから見る。
「見えます」
「俺が?」
「はい」
梶原は目を伏せた。
「そうか」
それだけ言って、
抵抗をやめた。
三宅が黒田を見る。
「……普通ですね」
黒田が隣にいた。
「人だろ」
*
取調べ。
梶原は最初、
何も話さなかった。
刑事が資料を置く。
「六月十二日、午前一時十八分」
防犯映像。
「この店舗に入りました?」
梶原は黙る。
「唐揚げ弁当、水、パン、男性用下着」
黙る。
「自宅から同じ商品の包装が見つかってます」
「……」
「能力を使いました?」
梶原が顔を上げる。
「能力じゃない」
「では何です?」
「俺はこういう人間なんだ」
刑事は少し待つ。
「透明になる?」
「そうだ」
「分かりました」
記録する。
梶原が眉を寄せる。
「それだけか」
「何がです?」
「驚かないのか」
「記録上は透明化能力として扱います」
「俺は、誰にも見えない」
「はい」
「防犯カメラにも映らない」
「はい」
「誰も捕まえられない」
刑事は資料をめくる。
「捕まってますけど」
梶原は黙る。
「六月十四日の店舗にも入りました?」
「……」
「六月十五日」
「……」
「六月十八日」
「見えないんだぞ、俺は」
「はい」
刑事は別の紙を出す。
「でも携帯電話は使ってますよね」
梶原の目が動く。
「ネットカフェも」
「……」
「水道も」
「……」
「電気も」
「……」
「家賃は二か月滞納」
梶原の表情が変わる。
「それ関係あるか」
「生活状況の確認です」
「俺は見えないんだぞ」
「だから何度も言わなくて大丈夫です」
刑事はペンを置く。
「今聞いているのは、店の商品を持ち出したかどうかです」
梶原はしばらく黙っていた。
やがて、
「最初は、返すつもりだった」
と言った。
刑事は顔を上げる。
「何をです?」
「弁当」
「最初の一件ですか」
「食べた後、店に戻った」
「返しに?」
「そうだ」
「でも返さなかった」
「見えなくなった」
「自分で?」
「勝手に」
梶原は自分の指先を見る。
「怖くなると、消える」
「能力を使っているのでは?」
「使ってる時もある。勝手に消える時もある」
「それで逃げた?」
「逃げた」
「今回も?」
「今回も」
刑事は資料を閉じなかった。
「盗んだものは、売っていませんね」
「売ってない」
「全部、自分で使った?」
「……だいたい」
「下着も?」
「着るものがなかった」
「薬は?」
「胃薬。痛み止め。眠れない時の薬」
「病院には?」
「行けない」
「なぜです?」
梶原は少し笑った。
笑ったというより、
口元だけが動いた。
「受付で消えたら、困るだろ」
「能力者だと説明すれば」
「説明したら、もっと困る」
「どうして」
「見られるから」
刑事は黙った。
梶原は続けた。
「見えないって、便利だと思うだろ」
「……」
「でも、見えないままじゃ、誰も助けてくれない」
声は低かった。
「店員も、医者も、大家も、面接官も。俺がそこにいるって分からない」
「分からせればいい」
「分からせようとすると、消える」
梶原は手を握った。
「だから、見えないまま盗んだ」
「盗めば、見えるようになるんですか」
「商品は見える」
「あなたは?」
「俺は見えない」
刑事は何も言わなかった。
梶原は俯いた。
「見えないから、誰にも怒られないと思った」
「実際には?」
「誰にも怒られない代わりに、誰にも止められなかった」
その言葉の後、
取調室にはしばらく音がなかった。
*
能力については、
別に検査が行われた。
梶原本人。
衣服。
手に持った物。
一定重量まで、
本人の意思で視覚的に消失させることができる。
ただし、
質量は消えない。
音も消えない。
熱もある。
匂いも残る。
濡れれば水滴も付く。
触れば普通に触れる。
透明化中でも、
腹は減る。
疲れる。
眠る。
薬も必要だった。
研究員が記録する。
《光学的不可視化能力》
梶原が言う。
「もっと違う名前ないんですか」
「何がです?」
「能力名」
「これで十分です」
「透明人間とか」
「分類名なので」
梶原は黙った。
検査員が記録用紙をめくる。
「能力を使うことに抵抗はありますか」
「あります」
「でも、使いましたね」
「使わないと、何もできない時がある」
「何も?」
「人の前に立つこと」
梶原はそう言って、
自分の手を見た。
「見えるようになる方法があるなら、知りたい」
「能力を消したい?」
「消したいんじゃない」
「では?」
「使わなくても生きられるようになりたい」
検査員は返事をしなかった。
梶原は続けた。
「でも、使えるなら使う。たぶん」
「なぜです?」
「怖いから」
それは、
能力を持っていることへの恐怖なのか。
能力を失うことへの恐怖なのか。
検査員には分からなかった。
*
事件後。
三宅は署の休憩室でニュースを見ていた。
『市内で相次いでいた窃盗事件について、警察は透明化能力を持つ三十六歳の男を――』
三宅が黒田を見る。
「ニュースになるんですね」
「なるだろ」
「能力使った犯罪だから?」
「連続窃盗だからじゃない」
「でも普通の窃盗より扱い大きいですよ」
「珍しいからだろ」
三宅はテレビを見る。
『警察は能力そのものではなく、店舗への侵入記録や生活痕跡などから容疑者を特定したと――』
「なんか、能力あっても地味ですね」
「何が」
「もっとこう、逃げ切れると思ってました」
「腹減るからな」
「そこですか」
「飯食わないの?」
「食べますけど」
「じゃあ一緒だろ」
三宅は少し考える。
「先輩、能力欲しいです?」
「いらない」
「即答ですね」
「何に使うの」
「透明になれたら……」
三宅は考える。
数秒。
「……思いつかないですね」
「じゃあ要らないだろ」
「でも一回くらい試したくないですか」
「服まで消えるならな」
三宅が黒田を見る。
「そこ気にするんですね」
「服残ったら意味ないだろ」
三宅が笑う。
黒田はテレビを見る。
画面の下に、
別のニュース速報が流れる。
海外で大型異常存在。
政府が対応中。
三宅がそちらを見る。
「また出てますね」
「そうだな」
「大きいですね」
「国がやるだろ」
黒田は立ち上がる。
「行くぞ」
「どこです?」
「河原」
「通報ですか」
「違う」
「じゃあ何で」
「帰り道」
*
夜。
二人は自転車で河川敷を走った。
川には、
いつもの女が立っていた。
三宅が手を上げる。
「こんばんは」
女も、
少しだけ手を上げた。
『こんばんは』
黒田は自転車を止めなかった。
三宅が追いつく。
「先輩」
「何」
「河原の人、名前ないと呼びにくくないですか」
「本人が決めるだろ」
「聞いてみません?」
「聞きたきゃ聞けば」
三宅は後ろを見る。
女はまだ川にいる。
街灯の光。
橋を渡る車。
水面。
三宅が言った。
「透明じゃなくて良かったですね」
「誰が」
「あの人」
「何で」
「見つけられないから」
黒田は少し考えた。
「いるって分かれば別にいいだろ」
「見えなくても?」
「困ってなきゃ」
三宅は前を見る。
二人の自転車は、
そのまま市街地へ戻っていった。
*
梶原直人について、
透明化能力そのものを理由とした追加処分はなかった。
窃盗。
不法侵入。
逃走時に転倒させた通行人への傷害について、
通常の手続きが進められた。
能力については、
犯行手段として記録された。
透明であることは、
罪ではなかった。
透明になって、
何をしたか。
問題になったのは、
それだけだった。
ただ、
梶原が最後に検査員へ言った言葉は、
記録の末尾に残った。
「見えるようになりたいんじゃない」
「じゃあ、何になりたいんです?」
「見えなくても、逃げなくていい人間に」
その言葉が、
能力の記録に残されたのか。
事件の記録に残されたのか。
誰にも分からなかった。




